「日本巫女史/第三篇/第二章/第三節」を編集中
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'''一、名族滋野氏の末路と巫女頭''' | '''一、名族滋野氏の末路と巫女頭''' | ||
滋野氏は信濃源氏の名族であって、鎌倉期の初葉において、已に二十三家に分れ、信濃国の佐久・小県二郡の大半を領地としていた。木曾義仲が信濃で旗挙げした時は、此の一門が中堅であって、南北朝期には、望月・海野・禰津の三家を始めとして、多くは南朝に属し、諏訪の神家一族と共に、隣国上野の新田氏と呼応し、長く東国の官軍の間に重きをなしていた。而して室町期の末葉に、武田信玄が甲斐に起り、越後の上杉謙信と矛を交うるや、永禄四年に信玄の甥なる望月盛時(入道して印月齊と称す)が、川中嶋の戦に討死したので、信玄はその後室千代女に対し、甲信二国の巫女頭たるべき朱印状(この本文は既載した)を与え、千代女は旧縁を頼って禰津村に土着し、ここに禰津村が我国随一の巫女村となるべき基礎が置かれたのである。 | |||
勿論、千代女が、当時の社会感情から見て、余り尊敬を払われなかった巫女頭になったに就いては、又併せ考えなければならぬ事情が存していたのである。それは外でもなく、同じ滋野氏の一族であった滋田氏が、望月町の月輪山郷東寺と称する当山派の修験者であって、佐久郡の触頭を勤めていた関係から、叔父に当る信玄に請うて巫女頭となり、その収入によって、安気に世に処し、兼ねては亡夫の後世を弔う意味の含まれたものと解すべきである〔一〕。 | 勿論、千代女が、当時の社会感情から見て、余り尊敬を払われなかった巫女頭になったに就いては、又併せ考えなければならぬ事情が存していたのである。それは外でもなく、同じ滋野氏の一族であった滋田氏が、望月町の月輪山郷東寺と称する当山派の修験者であって、佐久郡の触頭を勤めていた関係から、叔父に当る信玄に請うて巫女頭となり、その収入によって、安気に世に処し、兼ねては亡夫の後世を弔う意味の含まれたものと解すべきである〔一〕。 |