日本巫女史/第三篇/第二章/第二節」を編集中

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[[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ(佐坂通孝氏の写生)]]
[[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ(佐坂通孝氏の写生)]]
[[画像: 免許.gif|thumb|left|巫女が示した免許状(半紙半分の原紙)<p>此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる</p><p>惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず</p>]]
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。


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: <small>一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。</small>
: <small>一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。</small>
: <small>一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。</small>
: <small>一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。</small>
[[画像: 免許.gif|thumb|巫女が示した免許状(半紙半分の原紙)<p>此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる</p><p>惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず</p>]]
: <small>一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。</small>
: <small>一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。</small>
: <small>一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。</small>
: <small>一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。</small>
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猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。
猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。


; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子(四十六歳)が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。<br />その用品の重なるものは、四斗俵二俵(一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる)、八升俵二俵(これには米七升七合七勺を入れる)、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚(丈四尺)、腰巻二本、手拭二本(三尺三寸)、鉢巻二本(五尺五寸)、木綿一反(以上、白に限る)、白足袋二足、白扇(無地)二本、水桶(手洗鉢、盥とも三個)、膳椀(二人分)、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭(三十三枚、五厘でも一銭でもよし)等である。<br />尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。
; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子(四十六歳)が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。<br /> その用品の重なるものは、四斗俵二俵(一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる)、八升俵二俵(これには米七升七合七勺を入れる)、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚(丈四尺)、腰巻二本、手拭二本(三尺三寸)、鉢巻二本(五尺五寸)、木綿一反(以上、白に限る)、白足袋二足、白扇(無地)二本、水桶(手洗鉢、盥とも三個)、膳椀(二人分)、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭(三十三枚、五厘でも一銭でもよし)等である。<br /> 尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。
; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。
; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。
; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え<u>ゆがめ</u>られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え<u>ゆがめ</u>られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。
; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え<u>ゆがめ</u>られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え<u>ゆがめ</u>られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。
; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。
; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。
; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おY先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。
; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おY先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。
; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。<br />而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。<br />これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。
; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。<br /> 而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。<br /> これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。
; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。
; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。
; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。
; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。
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