日本巫女史/第三篇/第二章/第二節」を編集中

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:     第一、死口 (亡母、行年五十四歳。本人某妓)
:     第一、死口 (亡母、行年五十四歳。本人某妓)
: 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ<u>あずさ</u>では、声聞くばかりで残り多い、姿<ruby><rb>隠</rb><rp>(</rp><rt>かく</rt><rp>)</rp></ruby>して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお<ruby><rb>終</rb><rp>(</rp><rt>しま</rt><rp>)</rp></ruby>いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、<ruby><rb>嘸</rb><rp>(</rp><rt>さぞ</rt><rp>)</rp></ruby>張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた<ruby><rb>廉目</rb><rp>(</rp><rt>かどめ</rt><rp>)</rp></ruby>やら、どれが<u>かなでた</u>廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うならむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』
: 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ<u>あずさ</u>では、声聞くばかりで残り多い、姿<ruby><rb>隠</rb><rp>(</rp><rt>かく</rt><rp>)</rp></ruby>して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお<ruby><rb>終</rb><rp>(</rp><rt>しま</rt><rp>)</rp></ruby>いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、<ruby><rb>嘸</rb><rp>(</rp><rt>さぞ</rt><rp>)</rp></ruby>張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた<ruby><rb>廉目</rb><rp>(</rp><rt>かどめ</rt><rp>)</rp></ruby>やら、どれが<u>かなでた</u>廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うらなむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』
: 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。
: 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。
: 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ<ruby><rb>鼻</rb><rp>(</rp><rt>はな</rt><rp>)</rp></ruby>をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。
: 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ<ruby><rb>鼻</rb><rp>(</rp><rt>はな</rt><rp>)</rp></ruby>をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。
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: 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面?
: 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面?
: 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。
: 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。
: 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一層胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。
: 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一唇胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。
: 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。
: 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。
: 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。
: 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。
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'''四、外人の見た巫女の作法とオシラ神'''
'''四、外人の見た巫女の作法とオシラ神'''


大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、尠からず存している。
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、少からず存している。


例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、
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: 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク(着衣の俚称)と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。
: 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク(着衣の俚称)と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。
: 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣(一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの)であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。
: 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣(一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの)であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。
: 而して加賀の<ruby><rb>白山</rb><rp>(</rp><rt>しらやま</rt><rp>)</rp></ruby>の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渡り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。
: 而して加賀の<ruby><rb>白山</rb><rp>(</rp><rt>しらやま</rt><rp>)</rp></ruby>の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渉り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。


とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。
とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。
150行目: 150行目:
: 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。
: 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。
: 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱(取組の巫女の箱は桐製である)を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち(以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり)、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し(此の文句は秘密とて教えぬ)と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。
: 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱(取組の巫女の箱は桐製である)を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち(以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり)、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し(此の文句は秘密とて教えぬ)と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。
: 市子の口上の一例を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが<u>かなめ</u>で、南か西はおく(止めるの意)ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。
: 市子の口上の一礼を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが<u>かなめ</u>で、南か西はおく(止めるの意)ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。
: 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。
: 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。


'''七、近畿地方の市子と性的生活'''
'''七、近畿地方の市子と性的生活'''


京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが尠く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが少く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。


山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式(中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか)が、行われたようだとの事である。同郡の<u>かわらや</u>と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式(中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか)が、行われたようだとの事である。同郡の<u>かわらや</u>と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。
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