日本巫女史/第二篇/第一章/第一節」を編集中

ナビゲーションに移動 検索に移動
警告: ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。ログインまたはアカウントを作成すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。

この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。

最新版 編集中の文章
13行目: 13行目:
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。


こう詮索し始めると、諾尊の左右の眼から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。
こう詮索し始めると、諾尊の左右の目から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。


'''一、道教思想に養われた呪術'''
'''一、道教思想に養われた呪術'''


道教の呪術的思想が古代において如実に具現された例証は〔四〕、前にも引用したが、「仁徳紀」の左の記事である。
道教の呪術的思想が古代において如実に具現された例証は〔四〕、前にも引用したが、「仁徳記」の左の記事である。


: 太子{○宇遅能/和紀郎子}曰、我知不可奪兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊{○仁/徳帝}聞太子薨、以驚之従難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之経三日、時大鷦鷯尊標擗叫哭、不知所如、乃解髪跨屍、以三呼(中略)。於是大鷦鷯尊素服、為之発哀、哭之甚慟云々(以上。国史大系本)。
: 太子{○宇遅能/和紀郎子}曰、我知不可奪兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊{○仁/徳帝}聞太子薨、以驚之従難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之経三日、時大鷦鷯尊標擗叫哭、不知所如、乃解髪跨屍、以三呼(中略)。於是大鷦鷯尊素服、為之発哀、哭之甚慟云々(以上。国史大系本)。
27行目: 27行目:
: 古者人死、則使人以其服、升屋履危、北面而号、曰皐某復、遂以其衣三招之、乃下以履尸、此礼所謂復。
: 古者人死、則使人以其服、升屋履危、北面而号、曰皐某復、遂以其衣三招之、乃下以履尸、此礼所謂復。


なりと記した如く、支那の古俗に拠りしに外ならぬのである。而して此の呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を学んで知っていられたので、一時的に此の所作に出られたことと拝察するのであるが、それにしても道教の思想がここまで浸潤していたことの徴証とはなるのである。且つ此の<ruby><rb>復</rb><rp>(</rp><rt>タマヨバイ</rt><rp>)</rp></ruby>の思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作)と交渉する所が深く、永く後世まで行われて来たのである。後朱雀帝の尚侍嬉子が薨去せる折のことを「野府記」万寿二年八月七日の条に、
なりと記した如く、支那の古俗に拠りしに外ならぬのである。而して此の呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を学んで知っていられたので、一時的に此の所作に出られたことと拝察するのであるが、それにしても道教の思想がここまで浸潤していたことの徴証とはなるのである。且つ此の<ruby><rb>復</rb><rp>(</rp><rt>タマヨバイ</rt><rp>)</rp></ruby>の思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作)と交渉する所が深く、永く後世まで行われて来たのである。後一条帝の尚侍嬉子が薨去せる折のことを「野府記」万寿二年八月七日の条に、


: 昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛尉雅孝、昇東対上(中山曰。屋の字を脱せるか){尚侍/住所}魂呼。
: 昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛尉雅孝、昇東対上(中山曰。屋の字を脱せるか){尚侍/住所}魂呼。
Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細はDocs:著作権を参照)。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!

このページを編集するには、下記の確認用の質問に回答してください (詳細):

取り消し 編集の仕方 (新しいウィンドウで開きます)