日本巫女史/第二篇/第一章/第一節」を編集中

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斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。


こう詮索し始めると、諾尊の左右の眼から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。
こう詮索し始めると、諾尊の左右の目から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。


'''一、道教思想に養われた呪術'''
'''一、道教思想に養われた呪術'''


道教の呪術的思想が古代において如実に具現された例証は〔四〕、前にも引用したが、「仁徳紀」の左の記事である。
道教の呪術的思想が古代において如実に具現された例証は〔四〕、前にも引用したが、「仁徳記」の左の記事である。


: 太子{○宇遅能/和紀郎子}曰、我知不可奪兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊{○仁/徳帝}聞太子薨、以驚之従難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之経三日、時大鷦鷯尊標擗叫哭、不知所如、乃解髪跨屍、以三呼(中略)。於是大鷦鷯尊素服、為之発哀、哭之甚慟云々(以上。国史大系本)。
: 太子{○宇遅能/和紀郎子}曰、我知不可奪兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊{○仁/徳帝}聞太子薨、以驚之従難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之経三日、時大鷦鷯尊標擗叫哭、不知所如、乃解髪跨屍、以三呼(中略)。於是大鷦鷯尊素服、為之発哀、哭之甚慟云々(以上。国史大系本)。
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: 古者人死、則使人以其服、升屋履危、北面而号、曰皐某復、遂以其衣三招之、乃下以履尸、此礼所謂復。
: 古者人死、則使人以其服、升屋履危、北面而号、曰皐某復、遂以其衣三招之、乃下以履尸、此礼所謂復。


なりと記した如く、支那の古俗に拠りしに外ならぬのである。而して此の呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を学んで知っていられたので、一時的に此の所作に出られたことと拝察するのであるが、それにしても道教の思想がここまで浸潤していたことの徴証とはなるのである。且つ此の<ruby><rb>復</rb><rp>(</rp><rt>タマヨバイ</rt><rp>)</rp></ruby>の思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作)と交渉する所が深く、永く後世まで行われて来たのである。後朱雀帝の尚侍嬉子が薨去せる折のことを「野府記」万寿二年八月七日の条に、
なりと記した如く、支那の古俗に拠りしに外ならぬのである。而して此の呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を学んで知っていられたので、一時的に此の所作に出られたことと拝察するのであるが、それにしても道教の思想がここまで浸潤していたことの徴証とはなるのである。且つ此の<ruby><rb>復</rb><rp>(</rp><rt>タマヨバイ</rt><rp>)</rp></ruby>の思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作)と交渉する所が深く、永く後世まで行われて来たのである。後一条帝の尚侍嬉子が薨去せる折のことを「野府記」万寿二年八月七日の条に、


: 昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛尉雅孝、昇東対上(中山曰。屋の字を脱せるか){尚侍/住所}魂呼。
: 昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛尉雅孝、昇東対上(中山曰。屋の字を脱せるか){尚侍/住所}魂呼。
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かく神道や民俗にまで浸潤した道教の思想は、当然の帰結として、巫女の行うところの呪術に習合せられ、これが事象は明確に指摘し得るほどに現われて来た。「用明紀」二年夏四月の条に、
かく神道や民俗にまで浸潤した道教の思想は、当然の帰結として、巫女の行うところの呪術に習合せられ、これが事象は明確に指摘し得るほどに現われて来た。「用明紀」二年夏四月の条に、


: 中臣勝海連、於家集衆、随助大連{○守/屋}、遂作太子彦人皇子像、与竹田皇子像<ruby><rb>厭</rb><rp>(</rp><rt>マジナフ</rt><rp>)</rp></ruby>之、俄而知事難済、帰附彦人皇子於水派宮。
: 中臣勝海連、於家集衆、随助大連{○守/屋}、遂作太子彦人皇子像、与竹田皇子像<ruby><rb>厭</rb><rp>(</rp><rt>マジナフ</rt><rp>)</rp></ruby>之、俄而知事難済、帰附彦人皇子水派宮。


とあるのは、その一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛うことのあったのは、既述の如くであるが、その方法は凶言を用いるか、又は<ruby><rb>物実</rb><rp>(</rp><rt>モノザネ</rt><rp>)</rp></ruby>である土を採るかの簡単なるものであって、<ruby><rb>人像</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>を作って呪詛することは曾て存していなかったのである。それが此の時代に斯くの如き呪術の行われるようになったのは、全く道教の影響としか考えられぬのである。
とあるのは、その一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛うことのあったのは、既述の如くであるが、その方法は凶言を用いるか、又は<ruby><rb>物実</rb><rp>(</rp><rt>モノザネ</rt><rp>)</rp></ruby>である土を採るかの簡単なるものであって、<ruby><rb>人像</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>を作って呪詛することは曾て存していなかったのである。それが此の時代に斯くの如き呪術の行われるようになったのは、全く道教の影響としか考えられぬのである。
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: <ruby><rb>梓弓</rb><rp>(</rp><rt>アヅサユミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>引見縦見</rb><rp>(</rp><rt>ヒキミユルベミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>思見而</rb><rp>(</rp><rt>オモヒミテ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>既心歯</rb><rp>(</rp><rt>スデニココロハ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>因爾思物乎</rb><rp>(</rp><rt>ヨリニシモノヲ</rt><rp>)</rp></ruby>(同上)
: <ruby><rb>梓弓</rb><rp>(</rp><rt>アヅサユミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>引見縦見</rb><rp>(</rp><rt>ヒキミユルベミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>思見而</rb><rp>(</rp><rt>オモヒミテ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>既心歯</rb><rp>(</rp><rt>スデニココロハ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>因爾思物乎</rb><rp>(</rp><rt>ヨリニシモノヲ</rt><rp>)</rp></ruby>(同上)
: <ruby><rb>安豆佐由美</rb><rp>(</rp><rt>アヅサユミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>欲良能夜麻辺能</rb><rp>(</rp><rt>ヨラノヤマベノ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>之牙可久爾</rb><rp>(</rp><rt>シゲカクニ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>伊毛呂乎多氐天</rb><rp>(</rp><rt>イモロヲタテテ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>左禰度波良布母</rb><rp>(</rp><rt>サネドハラフモ</rt><rp>)</rp></ruby>(巻一四)
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: <ruby><rb>安都佐由美</rb><rp>(</rp><rt>アヅサユミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>須恵波余□禰牟</rb><rp>(</rp><rt>スヱハヨリネム</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>麻左可許曾</rb><rp>(</rp><rt>マサカコソ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>比等目乎於保美</rb><rp>(</rp><rt>ヒトメヲオホミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>奈乎波思爾於家礼</rb><rp>(</rp><rt>ナヲハシニオケレ</rt><rp>)</rp></ruby>(同上)
: <ruby><rb>安部佐由美</rb><rp>(</rp><rt>アヅサユミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>須恵波余□禰牟</rb><rp>(</rp><rt>スヱハヨリネム</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>麻左可許曾</rb><rp>(</rp><rt>マサカコソ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>比等目乎於保美</rb><rp>(</rp><rt>ヒトメヲオホミ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>奈乎波思爾於家礼</rb><rp>(</rp><rt>ナヲハシニオケレ</rt><rp>)</rp></ruby>(同上)


是等の短歌に現われた梓弓は、悉く「依る」という語を言わんがための序詞であることは明白であって、然も此の依るは<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby>る又は寄ると見るべきもので、即ち梓弓の弦に引かれて寄り来る意を寓しているのであるから、当時、霊魂を身に引き<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>からせて、口を寄せし巫女が、好んで梓弓を用いた事が推知されるのである。「政事要略」巻七〇に、
是等の短歌に現われた梓弓は、悉く「依る」という語を言わんがための序詞であることは明白であって、然も此の依るは<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby>る又は寄ると見るべきもので、即ち梓弓の弦に引かれて寄り来る意を寓しているのであるから、当時、霊魂を身に引き<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>からせて、口を寄せし巫女が、好んで梓弓を用いた事が推知されるのである。「政事要略」巻七〇に、


: 古老云、太皇太后{○村上/皇后}於東五条殿{○原/註略}有御産事{○同/上}産難之間、占云、御産之下、有厭者歟、捜求之処、無有其物、見御板敷之下、<u>白頭嫗取梓弓之折</u>、齧立歯居、逐出件嫗、即時御産已了云々(史籍集覧本)。
: 古老云、太皇太后{○村上/皇后}於東五条殿{○原/註略}有御産事{○同/上}産難之間、占云、御産之下、有厭者歟、捜求之処、無有其物、見御板敷之下、<u>白頭嫗取梓弓之折</u>、齧立歯居、遂出件嫗、即時御産已了云々(史籍集覧本)。


とあるのは、巫女が梓弓を用いた徴証である。
とあるのは、巫女が梓弓を用いた徴証である。
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'''B、人骨を用いるは巫蠱の思想'''
'''B、人骨を用いるは巫蠱の思想'''


巫女が動物の骨を用いたことは、我国固有の呪法として、鹿の肩骨を灼き、巫鳥の骨を焼いて神意を問うた既載の所作からも察せられるし、更に彼等はイラタカの珠数(この事の詳細は後の修験道と巫道の習合の条に述べる)と称して、羚羊の上顎骨、狐の頭蓋骨、熊の牙、鷹の爪などを紐に通して所持し、これが咒力の源泉であるという流派さえ生ずるようになったが、人骨を呪具とした事は、我が固有のものではなくして、支那の巫蠱に教えられたものと考えざるを得ぬのである。而して支那の巫蠱なるものが、以下に人道に反し惨忍を極めているかは、天野信景翁の「塩尻」巻五三に諸書を要約して載せてあるので、左に引用する。
巫女が動物の骨を用いたことは、我国固有の呪法として、鹿の肩骨を灼き、巫鳥の骨を焼いて神意を問うた既載の所作からも察せられるし、更に彼等はイラタカの数珠(この事の詳細は後の修験道と巫道の習合の条に述べる)と称して、羚羊の上顎骨、狐の頭蓋骨、熊の牙、鷹の爪などを紐に通して所持し、これが呪力の咒力の源泉であるという流派さえ生ずるようになったが、人骨を呪具とした事は、我が固有のものではなくして、支那の巫蠱に教えられたものと考えざるを得ぬのである。而して支那の巫蠱なるものが、以下に人道に反し惨忍を極めているかは、天野信景翁の「塩尻」巻五三に諸書を要約して載せてあるので、左に引用する。


: 異邦、巫蠱左道の邪術、古へより多し、巫蠱{我国に謂/ふ犬神}蛇蠱{とうび/ゃう}髑髏神、或は鳴童、預抜神{我国に謂ふ/ゲホウ頭}の類数ふるに遑なし。「続夷堅志」の少童を盗みかくし、日々に食を減じ法酢を灌き、其死を待て枯骨を収め、其魂魄を<ruby><rb>掬</rb><rp>(</rp><rt>キク</rt><rp>)</rp></ruby>す。他の事を聞かんと欲する時は、耳辺に於て其事を報ずといへり。「癸未続識」にも又此事を筆し、蠱家人を惨酷せしさまをいへり。「輟耕<ruby><rb>集</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>」にも蠱家童男女を捉へ、符命法水咒語を語らひ迷惑せしめ、活きながら鼻口唇舌尖耳朶眼を割央して、其活気を取り、腹胸を破り心肝を割て各小塊とし、<ruby><rb>曝乾搗羅</rb><rp>(</rp><rt>サラシホシツキフルイ</rt><rp>)</rp></ruby>て末とし、収裏して五色の綵帛を用ひ、生魂頭髪と同じく相結び、紙を以て人形様を作り、符水をして兎遺し、人家に往て怪を為し、広く他の財物を持し事を記せり。鳴呼是一箇の邪術財宝を貪り得るが為めに、かかる悪業をなし、其終りは国家の為めに極刑に寘るる類間々聞え侍る。我国白狐犬神等の邪術も其意殆同じ、畏れ避て可也(帝国書院百巻本。但し句読点は私が加えた)。
: 異邦、巫蠱左道の邪術、古へより多し、巫蠱{我国に謂/ふ犬神}蛇蠱{とうび/ゃう}髑髏神、或は鳴童、預抜神{我国に謂ふ/ゲホウ頭}の類数ふるに遑なし。「続夷堅志」の少童を盗みかくし、日々に食を減じ法酢を灌き、其死を待て枯骨を収め、其魂魄を<ruby><rb>掬</rb><rp>(</rp><rt>キク</rt><rp>)</rp></ruby>す。他の事を聞かんと欲する時は、耳辺に於て其事を報ずといへり。「癸未続識」にも又此事を筆し、蠱家人を惨酷せしさまをいへり。「輟耕<ruby><rb>集</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>」にも蠱家童男女を捉へ、符命法水咒語を語らひ迷惑せしめ、活きながら鼻口唇舌尖耳朶眼を割央して、其活気を取り、腹胸を破り心肝を割て各小塊とし、<ruby><rb>曝乾搗羅</rb><rp>(</rp><rt>サラシホシツキフルイ</rt><rp>)</rp></ruby>て末とし、収裏して五色の綵帛を用ひ、生魂頭髪と同じく相結び、紙を以て人形様を作り、符水をして兎遣し、人家に往て怪を為し、広く他の財物を持し事を記せり。鳴呼是一箇の邪術財宝を貪り得るが為めに、かかる悪業をなし、其終りは国家の為めに極刑に真るる類間々聞え侍る。我国白狐犬神等の邪術も其意殆同じ、畏れ避て可也(帝国書院百巻本。但し句読点は私が加えた)。


斯うした呪術が支那から輸入され、更にこれに仏教の呪法が加味され、然もそれを巫女が行うようになって来ては社会を荼毒するところ実に甚大であって、官憲も弾圧に苦心せざるを得なかった筈である。「増鏡」に太政大臣藤原公相が頭が大きくして異っていたので、これを葬りしとき、<ruby><rb>外法</rb><rp>(</rp><rt>ゲホウ</rt><rp>)</rp></ruby>を行う者がその塚を発き、首を斫って持ち去ったとあるのは、即ち髑髏神を呪力の根元としたものであって、然も此の邪法は後世になるほど巫女の間に猖んに行われたのである。既載した称徳帝を咒詛し奉らんと、大御髪を穢き髑髏に入れて、宮中に持参したとあるのも、又これが派生的呪術と考えられるのである。
斯うした呪術が支那から輸入され、更にこれに仏教の呪法が加味され、然もそれを巫女が行うようになって来ては社会を荼毒するところ実に甚大であって、官憲も弾圧に苦心せざるを得なかった筈である。「増鏡」に太政大臣藤原公相が頭が大きくして異っていたので、これを葬りしとき、<ruby><rb>外法</rb><rp>(</rp><rt>ゲホウ</rt><rp>)</rp></ruby>を行う者がその塚を発き、首を斫って持ち去ったとあるのは、即ち髑髏神を呪力の根元としたものであって、然も此の邪法は後世になるほど巫女の間に猖んに行われたのである。既載した称徳帝を咒詛し奉らんと、大御髪を穢き髑髏に入れて、宮中に持参したとあるのも、又これが派生的呪術と考えられるのである。
120行目: 120行目:
「大鏡」を読むと、花山帝が脱屐の折に、陰陽道の泰斗安倍晴明が、識神によって、此の事を予知したと載せてある。而して此の識神なるものは、平安朝の文献以外には、余り記録にも現われぬので、従って代々の学者の注意も惹かず、全く閑却されている始末なのである。併しながら、安倍晴明が好んで使役したとあるからは、此の神が私の謂う道教から出ていることだけは知られるのであるが、さて其の正体はというと誠に捕捉することが困難なのである。山岡浚明翁は「類聚名物考」において、
「大鏡」を読むと、花山帝が脱屐の折に、陰陽道の泰斗安倍晴明が、識神によって、此の事を予知したと載せてある。而して此の識神なるものは、平安朝の文献以外には、余り記録にも現われぬので、従って代々の学者の注意も惹かず、全く閑却されている始末なのである。併しながら、安倍晴明が好んで使役したとあるからは、此の神が私の謂う道教から出ていることだけは知られるのであるが、さて其の正体はというと誠に捕捉することが困難なのである。山岡浚明翁は「類聚名物考」において、


: 式神、これは人の魂魄を術を以て使ふ事なり、陰陽家に伝へし術なり、中古の物に多く見えたり。西土の書にも此の術あり。髑髏神と云ふも是なり。俗に外法とも云へり。「清少納言記」<u>しき</u>の神もおのづから、いとかしこしとて云々。「後漢書<small>六術</small>長房伝」翁曰、幾得道云々。又為作一符曰、以此主地上鬼神云々。鞭笞百鬼、及駆使社公、今案に識神或は式神と書く借字なり、知識は人の情心のとどまる所なり、その魂神を駆使するを識神と云ふなり。「輟耕録」巻十三中書鬼案の条に、人の魂魄神を使ふるを云う所に、我亦会遣使鬼魂、我有収下的生魂売与儞云々とあり。鬼魂は即ち是れ識神の事なり。
: 式神、これは人の魂魄を術を以て使ふ事なり、陰陽家に伝へし術なり、中古の物に多く見えたり。西土の書にも此の術あり。髑髏神と云ふも是なり。俗に外法とも云へり。「清少納言記」<u>しき</u>の神もおのづから、いとかしこしとて云々。「語漢書<small>六術</small>長房伝」翁曰、幾得道云々。又為作一符曰、以此主地上鬼神云々。鞭笞百鬼、及駆使社公、今案に識神或は式神と書く借字なり、知識は人の情心のとどまる所なり、その魂神を駆使するを識神と云ふなり。「輟耕録」巻一三中書鬼案の条に、人の魂魄神を使ふるを云う所に、我亦会遣使鬼魂、我有収下的生魂売与儞云々とあり。鬼魂は是れ識神の事なり。


と記し、識神は髑髏神、又は外法と同じもので、陰陽家に伝えられたものだと考証している。而して是れだけ見ると、識神は道教にのみ属するもののように思われるが、更にこれを仏教方面から見ると、益々その正体が紛らしくなって来るのである。
と記し、識神は髑髏神、又は外法と同じもので、陰陽家に伝えられたものだと考証している。而して是れだけ見ると、識神は道教にのみ属するもののように思われるが、更にこれを仏教方面から見ると、益々その正体が紛らしくなって来るのである。
128行目: 128行目:
: 東晋三蔵法師仏陀跋陀羅訳、摩訶僧紙律三十一巻に、憍陳如比丘(釈迦の父の家来の子にて、釈迦の後を逐て出家せし五比丘の一也)歿して、四魔天来、欲観其識神不見、已変白鳥而去。文簡にして十分に分らぬが、四人の魔天来り、識神を見んとせしとき、已に白鳥に化して去ったあと故に見えなんだと云うこと(人の魂神鳥に化する信仰、印度外にもあり、日本武尊の御事なども似たり)と存候。只今ここに引ける所の識神は、人の魂と云うことと存候。晴明等の識神は其前後の支那の道家が、此仏家の識神より変じて、作り出せるものながら、死霊を使うと云うようなことで、余り仏家のここに云える所と変らぬことと存候。
: 東晋三蔵法師仏陀跋陀羅訳、摩訶僧紙律三十一巻に、憍陳如比丘(釈迦の父の家来の子にて、釈迦の後を逐て出家せし五比丘の一也)歿して、四魔天来、欲観其識神不見、已変白鳥而去。文簡にして十分に分らぬが、四人の魔天来り、識神を見んとせしとき、已に白鳥に化して去ったあと故に見えなんだと云うこと(人の魂神鳥に化する信仰、印度外にもあり、日本武尊の御事なども似たり)と存候。只今ここに引ける所の識神は、人の魂と云うことと存候。晴明等の識神は其前後の支那の道家が、此仏家の識神より変じて、作り出せるものながら、死霊を使うと云うようなことで、余り仏家のここに云える所と変らぬことと存候。
: 識神の字、空華集(大日本仏教全書本)にもあり、タマシヒと振仮名せり(以上。明治四十五年四月十二日の条)。
: 識神の字、空華集(大日本仏教全書本)にもあり、タマシヒと振仮名せり(以上。明治四十五年四月十二日の条)。
: 識神と云う字、仏教で最も古く正しき出所は、増一阿含所会経と思う(黄蘖板一切経第八十六巻)芹奈三蔵曇摩難提訳十二巻三宝品第二十一にあり云々。此文は父母交会及び父母別居の状態、種々なるにより、子たるべき者の霊が来りて、或は胎に入り、或は胎に入り得ぬことを述べたるなり。識、外識、識神、神識と四様に訳しあれど、皆一と見ゆ。英語の Soul (タマシイ)と云うほどの事なり。故に無論晴明などの使いしと云うものと全く一致せず、タマシイを使うと云う意味から、陰陽家にも用い出せしことと覚ゆ云々(以上。明治四十五年五月廿三日の条)。
: 識神と云う字、仏教で最も古く正しき出所は、増一阿含所会経と思う(黄蘖板一切経第八十六巻)芹奈三蔵曇摩難提訳十二巻三宝品第二十一にあり云々。此文は父母公会及び父母別居の状態、種々なるにより、子たるべき者の霊が来りて、或は胎に入り、或は胎に入り得ぬことを述べたるなり。識、外識、識神、神識と四様に訳しあれど、皆一と見ゆ。英語の Soul (タマシイ)と云うほどの事なり。故に無論晴明などの使いしと云うものと全く一致せず、タマシイを使うと云う意味から、陰陽家にも用い出せしことと覚ゆ云々(以上。明治四十五年五月廿三日の条)。


南方氏によれば、識神は仏説に出たものを、支那の道家が作り変えて我国に伝えたものであるという結論になり、且つ髑髏神とは少しく相違しているように考えられるのである。元々、私の学力では奈何ともすることの出来ぬ難問ゆえ、今は識神に関して先覚中にかかる考証があると云うことだけをお取次して置くより外に致し方がないが、その何れにしても、魂魄を神として、——即ち死霊を駆使したとある点が一致しているのであるから、晴明が使ったという識神も、此の意味に解し大過なきものと思う。而して此の識神が巫女に伝えられてから、口寄せと称する呪術が、一段の発展を来たしたのである。猶おそれに就いては後に述べたいと思うている。
南方氏によれば、識神は仏説に出たものを、支那の道家が作り変えて我国に伝えたものであるという結論になり、且つ髑髏神とは少しく相違しているように考えられるのである。元々、私の学力では奈何ともすることの出来ぬ難問ゆえ、今は識神に関して先覚中にかかる考証があると云うことだけをお取次して置くより外に致し方がないが、その何れにしても、魂魄を神として、——即ち死霊を駆使したとある点が一致しているのであるから、晴明が使ったという識神も、此の意味に解し大過なきものと思う。而して此の識神が巫女に伝えられてから、口寄せと称する呪術が、一段の発展を来たしたのである。猶おそれに就いては後に述べたいと思うている。
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私は太だ早速ではあるが、以上の両記事から推して、湯立なる呪術は道教から出たものだと信ずるのである。寛文頃の記録にあるとて、学友星野輝興氏の語るところによれば、宮中の内侍所に仕えたおさい(お斎の意で古い<ruby><rb>御巫</rb><rp>(</rp><rt>ミカンコ</rt><rp>)</rp></ruby>に相当する者)、うねめ(采女でお斎に次ぐ<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンコ</rt><rp>)</rp></ruby>)、とじ(刀自で同じく巫)、めうぶ(命婦で下級の巫)等は、決して湯に入ることなく、必ず水を以て浄めるのを恒とし、若し沐浴することがあっても、掛け湯に限っていて、浴槽に入ることは無い。これは浴槽に入ると、自分の垢で自分を穢すようになり、神に仕える清浄となり得ぬからだと云うことである。此の一事から見るも、我国の原始神道には、湯を用いて身体を浄める思想は無く、従って道教の輸入以前には湯立というが如き神事は存しなかったと考えるのが穏当である。
私は太だ早速ではあるが、以上の両記事から推して、湯立なる呪術は道教から出たものだと信ずるのである。寛文頃の記録にあるとて、学友星野輝興氏の語るところによれば、宮中の内侍所に仕えたおさい(お斎の意で古い<ruby><rb>御巫</rb><rp>(</rp><rt>ミカンコ</rt><rp>)</rp></ruby>に相当する者)、うねめ(采女でお斎に次ぐ<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンコ</rt><rp>)</rp></ruby>)、とじ(刀自で同じく巫)、めうぶ(命婦で下級の巫)等は、決して湯に入ることなく、必ず水を以て浄めるのを恒とし、若し沐浴することがあっても、掛け湯に限っていて、浴槽に入ることは無い。これは浴槽に入ると、自分の垢で自分を穢すようになり、神に仕える清浄となり得ぬからだと云うことである。此の一事から見るも、我国の原始神道には、湯を用いて身体を浄める思想は無く、従って道教の輸入以前には湯立というが如き神事は存しなかったと考えるのが穏当である。


それにしても、此の湯立の神事が、平安朝以後において、神社及び巫女の間に、盛んに行われたのは事実である。源実朝の「金槐集」に『<ruby><rb>里巫</rb><rp>(</rp><rt>サトミコ</rt><rp>)</rp></ruby>がお湯立笹のそよそよに、なびきおきふしよしや世の中』とあり、「康富記」文安六年九月廿九日の条に『粟田口神明有湯立、参詣拝見』と載せ、「晴富宿禰記」文明十二年二月廿五日の条に『於左女牛若宮有湯立、自公方御沙汰之由風聞』と記し、此の他にも枚挙に遑ないほど諸書に散見している。
それにしても、此の湯立の神事が、平安朝以後において、神社及び巫女の間に、盛んに行われたのは事実である。源実朝の「金槐集」に『<ruby><rb>里巫</rb><rp>(</rp><rt>サトミコ</rt><rp>)</rp></ruby>がお湯立笹のそよそよに、なびきおきふしよしや世の中』とあり、「康富記」文安六年九月廿九日の条に『粟田口神明有湯立、参詣拝見』と載せ、「晴富宿禰記」文明一二年二月廿五日の条に『於左女牛若宮有湯立、自公方御沙汰之由風聞』と記し、此の他にも枚挙に遑ないほど諸書に散見している。


殊に民俗学的に見て、興味の多いのは、出雲国美保神社の一年神主に対する湯立の神事である。同社には正神主横山氏の外に、一年神主とて、氏子中より選定して、一ヶ年間勤める者とある。而して此の神主の選定は、三年前に行うのであるが、先ず九・十両月の間、同町三百余軒の民家のうち、男子十二三歳より老年まで、いづれも美保社の祭神より前後三度の夢の告げがある。その夢が、正神主と、一年神主となる者と同じ(白髪の老人来たりて告げる事あり、又は浄衣烏帽子着たる人の告げもある)であれば、それが一年神主となるのであるが、愈々そう決定すると、その家を煤払いし、塩水で洗い、仏壇は寺へ預け、前後三ヶ年仏事を営まず、更に十二月大晦日の夜から、海辺に出て汐垢離をとり、爾来数日美保社へ参詣して、神主の無事に勤まるよう祈願する。さて三年目の春三月十日は、同社の祭礼とて、その日前年の神主より神役を受取る。これ迄前二年より船着なれば、船中安全のためとて、諸国の回船より米初穂料の金銭を送る。それで三年間の生活費に充てる。此のうち妻に不浄があれば、住宅の裏に<ruby><rb>他屋</rb><rp>(</rp><rt>タヤ</rt><rp>)</rp></ruby>とて離れ家を建ててそれへ置き、清浄の時だけ一所に暮す。かくて祭礼の日になると、大なる湯立の釜に、水八分ほど入れ焚き立て、湯玉のたぎる時に、其の年の新神主を、浄衣白無垢風折烏帽子を着たるままで、その湯釜に入れて煮るのである。介抱は前神主数人で皆々その加減を見て、息絶えたりと思う時に、四五人にて釜より出し、神前の荒菰の上に寝かして置くと、暫らくして生き返るので、今度は神社の拝殿まで舁き出して、幣帛を持たせ皆の者は平伏する。その時、近国から参詣の老若男女大勢群集し、心得たる者は神託を書き留めんと、紙矢立を用意し、待ち構える。一年神主は幣帛を三々九度に振り、それが済むとその一年中の農作の善悪、病気の流行など、一々神の告げとて託宣する。事終るとそのまま臥すが、それを再び荒菰の上に寝かせて置くと、やがて元の如くなり、衣服を着かえて帰宅する。但し何時でも願主あって神託を願えば、右の通り湯立して、一年神主を釜へ入れ、祭礼の如くして託宣する。此の初穂料は文化三年頃には金七両二分であった〔二六〕。
殊に民俗学的に見て、興味の多いのは、出雲国美保神社の一年神主に対する湯立の神事である。同社には正神主横山氏の外に、一年神主とて、氏子中より選定して、一カ年間勤める者とある。而して此の神主の選定は、三年前に行うのであるが、先ず九・十両月の間、同町三百余軒の民家のうち、男子十二三歳より老年まで、いづれも美保社の祭神より前後三度の夢の告げがある。その夢が、正神主と、一年神主となる者と同じ(白髪の老人来たりて告げる事あり、又は浄衣烏帽子着たる人の告げもある)であれば、それが一年神主となるのであるが、愈々そう決定すると、その家を煤払いし、塩水で洗い、仏壇は寺へ預け、前後三カ年仏事を営まず、更に十二月大晦日の夜から、海辺に出て汐垢離をとり、爾来数日美保社へ参詣して、神主の無事に勤まるよう祈願する。さて三年目の春三月十日は、同社の祭礼とて、その日前年の神主より神役を受取る。これ迄前二年より船着なれば、船中安全のためとて、諸国の回船より米初穂料の金銭を送る。それで三年間の生活費に充てる。此のうち妻に不浄があれば、住宅の裏に<ruby><rb>他屋</rb><rp>(</rp><rt>タヤ</rt><rp>)</rp></ruby>とて離れ家を建ててそれへ置き、清浄の時だけ一所に暮す。かくて祭礼の日になると、大なる湯立の釜に、水八分ほど入れ焚き立て、湯玉のたぎる時に、其の年の新神主を、浄衣白無垢風折烏帽子を着たるままで、その湯釜に入れて煮るのである。介抱は前神主数人で皆々その加減を見て、息絶えたりと思う時に、四五人にて釜より出し、神前の荒菰の上に寝かして置くと、暫らくして生き返るので、今度は神社の拝殿まで舁き出して、幣帛を持たせ皆の者は平伏する。その時、近国から参詣の老若男女大勢群集し、心得たる者は神託を書き留めんと、紙矢立を用意し、待ち構える。一年神主は幣帛を三々九度に振り、それが済むとその一年中の農作の善悪、病気の流行など、一々神の告げとて託宣する。事終るとそのまま臥すが、それを再び荒菰の上に寝かせて置くと、やがて元の如くなり、衣服を着かえて帰宅する。但し何時でも願主あって神託を願えば、右の通り湯立して、一年神主を釜へ入れ、祭礼の如くして託宣する。此の初穂料は文化三年頃には金七両二分であった〔二六〕。


此の湯立の神事は、修験者が好んで行った所謂「<ruby><rb>護法附</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウツキ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるもの(此の事は後に述べる)の影響まで受け容れているが、それにしても神を信ずる心の深い者でなければ、奈何にするも行い得ぬ放れ業である。而して湯立の神事から派生したもので、更に一段と簡略化されたものが、京都西七条村で行われた<ruby><rb>蒸</rb><rp>(</rp><rt>ム</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby><rb>講</rb><rp>(</rp><rt>コウ</rt><rp>)</rp></ruby>である。これは此の村の氏神祭りの日に、神前の大釜に湯を立て、村の老女が世話役となり、幼き男女を抱いて釜の上に翳し、湯気にあててやるのであるが、斯うすると疱瘡が軽いと信じられている〔二七〕。巫女が湯を身にかけて神託をなすのも、更に備前の吉備津神社の釜鳴りの神判なども、咸な此の信仰に由来するもので、然もその根本は、実に道教の思想に負うているのである。
此の湯立の神事は、修験者が好んで行った所謂「<ruby><rb>護法附</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウツキ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるもの(此の事は後に述べる)の影響まで受け容れているが、それにしても神を信ずる心の深い者でなければ、奈何にするも行い得ぬ放れ業である。而して湯立の神事から派生したもので、更に一段と簡略化されたものが、京都西七条村で行われた<ruby><rb>蒸</rb><rp>(</rp><rt>ム</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby><rb>講</rb><rp>(</rp><rt>コウ</rt><rp>)</rp></ruby>である。これは此の村の氏神祭りの日に、神前の大釜に湯を立て、村の老女が世話役となり、幼き男女を抱いて釜の上に翳し、湯気にあててやるのであるが、斯うすると疱瘡が軽いと信じられている〔二七〕。巫女が湯を身にかけて神託をなすのも、更に備前の吉備津神社の釜鳴りの神判なども、咸な此の信仰に由来するもので、然もその根本は、実に道教の思想に負うているのである。
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; 〔註二〕 : 昭和三年十月に前後九回に亘り東洋文庫で開催された白鳥庫吉氏の「周囲民族の古伝説より見たる神代の巻」と題する講演で、扶桑木のこと及び日少宮のことを述べられた。
; 〔註二〕 : 昭和三年十月に前後九回に亘り東洋文庫で開催された白鳥庫吉氏の「周囲民族の古伝説より見たる神代の巻」と題する講演で、扶桑木のこと及び日少宮のことを述べられた。
; 〔註三〕 : 「嬉遊笑覧」の附録中に見えている。
; 〔註三〕 : 「嬉遊笑覧」の附録中に見えている。
; 〔註四〕 : 「神武紀」の郊祀霊畤の用語は、道教の思想に由来するものであるが、併しこれは、「日本紀」の執筆者が、漢様にかかる文字を用いたまでと見るべきである。
; 〔註四〕 : 「神武紀」の郊祀霊時の用語は、道教の思想に由来するものであるが、併しこれは、「日本紀」の執筆者が、漢様にかかる文字を用いたまでと見るべきである。
; 〔註五〕 : 泣き女は、支那にも、朝鮮にも古くから存し、前者は「中華全国風俗志」に、後者は「朝鮮風俗志」に、共に詳記してある。我国にも、琉球、讃岐、加賀、八丈島等には近年まであったが、支那からの輸入と考えている。
; 〔註五〕 : 泣き女は、支那にも、朝鮮にも古くから存し、前者は「中華全国風俗志」に、後者は「朝鮮風俗志」に、共に詳記してある。我国にも、琉球、讃岐、加賀、八丈島等には近年まであったが、支那からの輸入と考えている。
; 〔註六〕 : 「太子伝暦」には、此の時の厭勝のことが、少しく詳しく載せてあるが、今は省略した。
; 〔註六〕 : 「太子伝暦」には、此の時の厭勝のことが、少しく詳しく載せてあるが、今は省略した。
; 〔註七〕 : 「政事要略」巻七〇(史籍集覧本)「蠱毒厭魅及巫覡等事」の条。
; 〔註七〕 : 「政事要略」巻七〇(史籍集覧本)「蠱毒厭魅及巫覡等事」の条。
; 〔註八〕 : 奈良朝及び平安朝には、よく巫蠱の疑獄が起って、貴神大官がこれに連座し、処罰されているが、これには政治的の意味も多分に含まれていて、これを利用し、悪用した政治家も、尠く無かったようである。従って、此の時代に行われた咒術の惨忍さに就いては、注意して見なければならぬ点がある。
; 〔註八〕 : 奈良朝及び平安朝には、よく巫蠱の疑獄が起って、貴神大官がこれに連座し、処罰されているが、これには政治的の意味も多分に含まれていて、これを利用し、悪用した政治家も、尠く無かったようである。従って、此の時代に行われた咒術の惨忍さに就いては、注意して見なければならぬ点がある。
; 〔註九〕 : 「山城谷村史」。私は先年「趣味の友」という雑誌に「呪いの釘」と題して、我国の呪詛伝説に関して、管見を発表したことがある。その切り抜きは大正十二年の震災で焼いてしまい、雑誌の号数は古いことなので失念してしまった。
; 〔註九〕 : 「山城谷村史」。私は先年「趣味の友」という雑誌に「呪いの釘」と題して、我国の呪詛伝説に関して、管見を発表したことがある。その切り抜きは大正一二年の震災で焼いてしまい、雑誌の号数は古いことなので失念してしまった。
; 〔註一〇〕 : シャーマンは太鼓を叩くが、弓の弦はたたかぬ。朝鮮のムーダンも、又たそれである。然るに我国のミコは、弓の弦をたたいて、太鼓は楽人の手に渡してしまった。我国の巫道が、シャーマンと共通しているところがあるにせよ、ここに両者の区別のあることも知らねばならぬ。そして此の弓の故事を有難そうに説くのが、巫女等の常套手段であるが、元より信用の出来ぬことである。江戸期の関東の巫女の取締であった田村家では、神功皇后説を伝えているが、一噱に附すべき妄談であることは、機会があったら[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べたいと思っている。
; 〔註一〇〕 : シャーマンは太鼓を叩くが、弓の弦はたたかぬ。朝鮮のムーダンも、又たそれである。然るに我国のミコは、弓の弦をたたいて、太鼓は楽人の手に渡してしまった。我国の巫道が、シャーマンと共通しているところがあるにせよ、ここに両者の区別のあることも知らねばならぬ。そして此の弓の故事を有難そうに説くのが、巫女等の常套手段であるが、元より信用の出来ぬことである。江戸期の関東の巫女の取締であった田村家では、神功皇后説を伝えているが、一噱に附すべき妄談であることは、機会があったら[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べたいと思っている。
; 〔註一一〕 : 古風土記を読んだ折に、大国主命が、梓弓を折って橋の代りとしたという記事があったように記憶しているので、そのカードを探したが見当たらぬので、そのままとした。
; 〔註一一〕 : 古風土記を読んだ折に、大国主命が、梓弓を折って橋の代りとしたという記事があったように記憶しているので、そのカードを探したが見当たらぬので、そのままとした。
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