「日本巫女史/第二篇/第一章/第一節」を編集中

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元来、日本と韓国は同祖であり、同域であったと考えている〔一〕。従って、素尊が韓地に跡を垂れたとか、神武帝の皇兄稲氷尊が新羅に往かれたとか云う伝説のあるのも、決して不思議ではないのである。更に此の反対に、韓国の民族が我国に渡来帰化したのも、遠く神代からである。新羅の王子と称せる天ノ日矛が来朝したのは、「播磨風土記」によれば、大国主命の時代である。任那国から、蘇那曷叱知を遣して朝貢させたのは、崇神朝である。こうして彼我の交通は、先史時代から隆んに行われていたのであるが、茲に注意しなければならぬことは、日韓の交通によって我国は、支那において発達した文物制度を輸入した点である。換言すれば、我国は韓国を仲介者として、断えず支那の文化を吸収していたのである。秦ノ始皇帝の子孫と称する弓月王が渡来したのも、此の結果であって、古く我国へ漢学を舶載し、後に仏教を伝来したのも、共に韓国であったのは、その事を証示しているのである。
 
元来、日本と韓国は同祖であり、同域であったと考えている〔一〕。従って、素尊が韓地に跡を垂れたとか、神武帝の皇兄稲氷尊が新羅に往かれたとか云う伝説のあるのも、決して不思議ではないのである。更に此の反対に、韓国の民族が我国に渡来帰化したのも、遠く神代からである。新羅の王子と称せる天ノ日矛が来朝したのは、「播磨風土記」によれば、大国主命の時代である。任那国から、蘇那曷叱知を遣して朝貢させたのは、崇神朝である。こうして彼我の交通は、先史時代から隆んに行われていたのであるが、茲に注意しなければならぬことは、日韓の交通によって我国は、支那において発達した文物制度を輸入した点である。換言すれば、我国は韓国を仲介者として、断えず支那の文化を吸収していたのである。秦ノ始皇帝の子孫と称する弓月王が渡来したのも、此の結果であって、古く我国へ漢学を舶載し、後に仏教を伝来したのも、共に韓国であったのは、その事を証示しているのである。
  
勿論、「魏志」の倭人伝に従えば、卑弥呼女王国は韓国を経ずして直接支那と交通していたことを記し、更に輓近各地より発掘せられた剣鏡その他の遺物は、遠く日支交通の存したことを明白に証拠立てているのである。当時、我が国情は是等文化の先進国である秦韓両民族の投化を歓迎すべき理由のあったところへ、戦乱等のために母国に留まることを欲しなかった彼等秦韓両民族の事情と相俟って、神代以来殆んど年々歳々の如く、或は百二十七県の大団体を以て、或は五人七人の小規模を以て、海を済り浪を凌いで我国に移住した。弘仁年中に万多親王が勅命を奉じて、畿内だけに居住せる者の出自を調査した「新撰姓氏録」によると、総数一千一百八十二氏とあるが、此の中で蕃別と称する秦韓の帰化族は約三百五十氏の多きに達し、総数の三分ノ一強を占めている有様である。而して此の計数は、僅に五畿内だけのことであるから、更にこれを全国的に渉って計算したら、北は奥州より西は九州まで、その実数は蓋し驚くほどのものであったに相違ない。奈良朝頃の古文書を見ても、是等帰化族の夥しきまでに存していたことは、□れながら意外とする程である。
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勿論、「魏志」の倭人伝に従えば、卑弥呼女王国は韓国を経ずして直接支那と交通していたことを記し、更に輓近各地より発掘せられた剣鏡その他の遺物は、遠く日支交通の存したことを明白に証拠立てているのである。当時、我が国情は是等文化の先進国である秦韓両民族の投化を歓迎すべき理由のあったところへ、戦乱等のために母国に留まることを欲しなかった彼等秦韓両民族の事情と相俟って、神代以来殆んど年々歳々の如く、或は百二十七県の大団体を以て、或は五人七人の小規模を以て、海を済り浪を凌いで我国に移住した。弘仁年中に万多親王が勅命を奉じて、畿内だけに居住せる者の出自を調査した「新撰姓氏録」によると、総数一千一百八十二氏とあるが、此の中で蕃別と称する秦韓の帰化族は約三百五十氏の多きに達し、総数の三分ノ一強を占めている有様である。而して此の計数は、僅に五畿内だけのことであるから、更にこれを全国的に渉って計算したら、北は奥州より西は九州まで、その実数は蓋し驚くほどのものであったに相違ない。奈良朝頃の古文書を見ても、是等帰化族の夥しきまでに存していたことは、□れながら以外とする程である。
  
 
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。
 
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。

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