「日本巫女史/第二篇/第一章/第二節」を編集中
ナビゲーションに移動
検索に移動
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
15行目: | 15行目: | ||
'''一、仏教の促成せる巫女の二潮流''' | '''一、仏教の促成せる巫女の二潮流''' | ||
原始神道は、祭神の墳墓より発生したことを如実に立証しているのであるが、平安朝頃から、仏教が専ら屍体の埋葬を掌り、墳墓の監理をするようになったので、神道は是等の行き掛りから、従来とは反対に、屍体に近づき、墳墓を扱うことを穢れとして、極端に忌み嫌うようになってしまった。これには神道対仏教を中心とした、政治上の争いなども含まれていて、常に両者の間には柄鑿相容れぬものがあるように導かれて往った。而して此の結果は、仏教が弘通されればさるるほど、両者の距離が遠くなり、神道は生を尚ぶもの、仏教は死を迎えるもの、神社は清きもの、寺院は穢れたものという、対蹠的の地位に置かれるようになったのである。併しそれと同時に、一方においては、神仏一如であるという、本地垂跡説が発達していたのであるから、当時の思想界は複雑でもあり、且つ混沌としていたのである。 | |||
斯うした信仰と世相とは、巫女の態度を、神仏いづれにか決定しなければならぬ機運となって来た。勿論、巫女はその出自から云うも、その職務から見るも、当然、神社に附属しているのであるから、今更に態度を定むべき必要などのあるべき筈はないのであるが、本地垂跡の信仰が一般に考えられるように来ては、そうばかりも言っては居られず、これに加うるに、古くは、禰宜でも、祝でも、女性が主となっていたのが、時勢につれて、男性が割り込んで来て、当時は却って女性が従となってしまった関係などもあり、神社における男女の職掌の競争は、漸次、男性に有利であって、女性に不利の事のみ多かったのである。「八幡愚童訓」は後出(室町期)の書籍である上に、日本一の託宣好きの八幡宮の事を記したものだけに、そのまま無条件で信用することは出来ぬけれども、僧道教の事件に就き、和気清麿が神託を受けし光景を叙するうちに、 | |||
: 爰清丸、宇佐の勅使に参じたりしとき、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御宝殿動事一時計にして、忽ちに御殿の上に紫雲そびき、中より満月輪の如して出まします(中略)。清丸汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂にかなふ者を撰仕ぞ、かの位とは妙覚朗然の位に相叶ふ、弥陀仏の変化の御身也(中略)。女禰宜までも軽しむべからず可恐々々(群書類従本)。 | : 爰清丸、宇佐の勅使に参じたりしとき、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御宝殿動事一時計にして、忽ちに御殿の上に紫雲そびき、中より満月輪の如して出まします(中略)。清丸汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂にかなふ者を撰仕ぞ、かの位とは妙覚朗然の位に相叶ふ、弥陀仏の変化の御身也(中略)。女禰宜までも軽しむべからず可恐々々(群書類従本)。 | ||
24行目: | 24行目: | ||
: 太政官符 | : 太政官符 | ||
: | : 去天長二年十二月二十六日符偁、承前之例、諸国小社、或置祝無禰宜、或禰宜祝並置、旧例紛謬、准拠無定、加以或国独置女祝、永主其祭、左大臣宣旨、自今今後禰宜祝並置社者、以女為禰宜、但先置者令終其身者云々(下略)。 | ||
: 貞観十年六月二十八日(国史大系本)。 | : 貞観十年六月二十八日(国史大系本)。 | ||