日本巫女史/第二篇/第一章/第二節」を編集中

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'''一、仏教の促成せる巫女の二潮流'''
'''一、仏教の促成せる巫女の二潮流'''


原始神道は、祭神の墳墓より発生したことを如実に立証しているのであるが、平安朝頃から、仏教が専ら屍体の埋葬を掌り、墳墓の監理をするようになったので、神道は是等の行き掛りから、従来とは反対に、屍体に近づき、墳墓を扱うことを穢れとして、極端に忌み嫌うようになってしまった。これには神道対仏教を中心とした、政治上の争いなども含まれていて、常に両者の間には柄鑿相容れぬものがあるように導かれて往った。而して此の結果は、仏教が弘通されればさるるほど、両者の距離が遠くなり、神道は生を尚ぶもの、仏教は死を迎えるもの、神社は浄きもの、寺院は穢れたものという、対蹠的の地位に置かれるようになったのである。併しそれと同時に、一方においては、神仏一如であるという、本地垂跡説が発達していたのであるから、当時の思想界は複雑でもあり、且つ混沌としていたのである。
原始神道は、祭神の墳墓より発生したことを如実に立証しているのであるが、平安朝頃から、仏教が専ら屍体の埋葬を掌り、墳墓の監理をするようになったので、神道は是等の行き掛りから、従来とは反対に、屍体に近づき、墳墓を扱うことを穢れとして、極端に忌み嫌うようになってしまった。これには神道対仏教を中心とした、政治上の争いなども含まれていて、常に両者の間には柄鑿相容れぬものがあるように導かれて往った。而して此の結果は、仏教が弘通されればさるるほど、両者の距離が遠くなり、神道は生を尚ぶもの、仏教は死を迎えるもの、神社は清きもの、寺院は穢れたものという、対蹠的の地位に置かれるようになったのである。併しそれと同時に、一方においては、神仏一如であるという、本地垂跡説が発達していたのであるから、当時の思想界は複雑でもあり、且つ混沌としていたのである。


斯うした信仰と世相とは、巫女の態度を、神仏いづれにか決定しなければならぬ機運となって来た。勿論、巫女はその出自から云うも、その職務から見るも、当然、神社に附属しているのであるから、今更に態度を定むべき必要などのあるべき筈はないのであるが、本地垂跡の信仰が一般に考えられるように来ては、そうばかりも言っては居られず、これに加うるに、古くは、禰宜でも、祝でも、女性が主となっていたのが、時勢につれて、男性が割り込んで来て、当時は却って女性が従となってしまった関係などもあり、神社における男女の職掌の競争は、漸次、男性に有利であって、女性に不利の事のみ多かったのである。「八幡愚童訓」は後出(室町期)の書籍である上に、日本一の託宣好きの八幡宮の事を記したものだけに、そのまま無条件で信用することは出来ぬけれども、僧道鏡の事件に就き、和気清麿が神託を受けし光景を叙するうちに、
斯うした信仰と世相とは、巫女の態度を、神仏いづれにか決定しなければならぬ機運となって来た。勿論、巫女はその出自から云うも、その職務から見るも、当然、神社に附属しているのであるから、今更に態度を定むべき必要などのあるべき筈はないのであるが、本地垂跡の信仰が一般に考えられるように来ては、そうばかりも言っては居られず、これに加うるに、古くは、禰宜でも、祝でも、女性が主となっていたのが、時勢につれて、男性が割り込んで来て、当時は却って女性が従となってしまった関係などもあり、神社における男女の職掌の競争は、漸次、男性に有利であって、女性に不利の事のみ多かったのである。「八幡愚童訓」は後出(室町期)の書籍である上に、日本一の託宣好きの八幡宮の事を記したものだけに、そのまま無条件で信用することは出来ぬけれども、僧道教の事件に就き、和気清麿が神託を受けし光景を叙するうちに、


: 爰清丸、宇佐の勅使に参じたりしとき、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御宝殿動事一時計にして、忽ちに御殿の上に紫雲そびき、中より満月輪の如して出まします(中略)。清丸汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂にかなふ者を撰仕ぞ、かの位とは妙覚朗然の位に相叶ふ、弥陀仏の変化の御身也(中略)。女禰宜までも軽しむべからず可恐々々(群書類従本)。
: 爰清丸、宇佐の勅使に参じたりしとき、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御宝殿動事一時計にして、忽ちに御殿の上に紫雲そびき、中より満月輪の如して出まします(中略)。清丸汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂にかなふ者を撰仕ぞ、かの位とは妙覚朗然の位に相叶ふ、弥陀仏の変化の御身也(中略)。女禰宜までも軽しむべからず可恐々々(群書類従本)。
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:      太政官符
:      太政官符
: 去天長二年十二月二十六日符偁、承前之例、諸国小社、或置祝無禰宜、或禰宜祝並置、旧例紛謬、准拠無定、加以或国独置女祝、永主其祭、左大臣宣旨、自今以後禰宜祝並置社者、以女為禰宜、但先置者令終其身者云々(下略)。
: 去天長二年十二月二十六日符偁、承前之例、諸国小社、或置祝無禰宜、或禰宜祝並置、旧例紛謬、准拠無定、加以或国独置女祝、永主其祭、左大臣宣旨、自今今後禰宜祝並置社者、以女為禰宜、但先置者令終其身者云々(下略)。
:   貞観十年六月二十八日(国史大系本)。
:   貞観十年六月二十八日(国史大系本)。


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'''二、霊魂観の進歩と口寄せ呪術の発達'''
'''二、霊魂観の進歩と口寄せ呪術の発達'''


仏教の渡来は、我国の霊魂観及び来世観に、一段の飛躍的進歩をなさしめた。神は人の死して祀られたもの、人は死ねば夜見の国に往くものと単純に考え、魂は荒魂と和魂とを体とし、奇魂と幸魂とを用とするものと漠然と信じていたところへ、仏教の高遠なる教理によって、分霊の思想を知り〔四〕、来世における地獄と極楽の生活を教えられたのは、全く一種の驚異として迎えたことと思う。而して此の霊魂観は、巫女をして、冥界に居る霊魂を、何時でも呼び出し、又は遠隔の地に居る生ける人の魂を招ぎ寄せて、これと自由に談話を交えることが出来るという思想を懐かせ、更にこれを呪術として発達させるまでに至ったのである。
仏教の渡来は、我国の霊魂観及び来世観に、一段の飛躍的進歩をなさしめた。神は人の死して祀られたもの、人は死ねば夜見の国に往くものと単純に考え、魂は荒魂と和魂とを体とし、奇魂と幸魂とを用とするものと漠然と信じていたところへ、仏教の高遠なる教理によって、分霊の思想を知り〔四〕、来世における地獄と極楽の生活を教えられたのは、全く一種の驚異として迎えたことと思う。而して此の霊魂観は、巫女をして、冥界に居る霊魂を、何時でも呼び出し、又は遠隔の地に生ける人の魂を招ぎ寄せて、これと自由に談話を交えることが出来るという思想を懐かせ、更にこれを呪術として発達させるまでに至ったのである。


勿論、此の呪術は古代の文献にこそ見えていぬが、霊魂の不滅を信じ、併せて幽界との交通を信じていた我が民族の間にも存していて、巫女が此の種の呪術を好んで行い来たことと想われるし、殊に道教の影響を受けて、次第に此の種の呪術も巧妙になったことと考えられぬでもないが、併しながら我国の巫女は屡述の如く神その者であり、又は神の代理者でもあって、霊媒者としても極めて狭義の活動に制限され、他界に居る死者の魂を自在に呼び出したり、遠方に在る生者の魂を随時に招ぎ寄せたりして、これと交話するというが如き広義の活動は為し得なかったのである。更に換言して、詳しく述べれば、我国の巫女は道教によって弦寄せ(即ち弓弦をたたいて神を寄せること)の呪術を知ったが、これ以外の口寄せの呪術は余り深くは知らなかったのである。それを仏教の霊魂観や来世観や、更に天台真言の両宗が行った加持祈祷の事相を学んで(是れには猶お修験道と巫女との関係を知らねばならぬが、それに就いては後に述べる)漸く口寄せの呪術を知るに至ったのである。
勿論、此の呪術は古代の文献にこそ見えていぬが、霊魂の不滅を信じ、併せて幽界との交通を信じていた我が民族の間にも存していて、巫女が此の種の呪術を好んで行い来たことと想われるし、殊に道教の影響を受けて、次第に此の種の呪術も巧妙になったことと考えられぬでもないが、併しながら我国の巫女は屡述の如く神その者であり、又は神の代理者でもあって、霊媒者としても極めて狭義の活動に制限され、他界に居る死者の魂を自在に呼び出したり、遠方に在る生者の魂を随時に招ぎ寄せたりして、これと交話するというが如き広義の活動は為し得なかったのである。更に換言して、詳しく述べれば、我国の巫女は道教によって弦寄せ(即ち弓弦をたたいて神を寄せること)の呪術を知ったが、これ以外の口寄せの呪術は余り深くは知らなかったのである。それを仏教の霊魂観や来世観や、更に天台真言の両宗が行った加持祈祷の事相を学んで(是れには猶お修験道と巫女との関係を知らねばならぬが、それに就いては後に述べる)漸く口寄せの呪術を知るに至ったのである。
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: 凡僧尼卜相吉凶{謂、灼亀曰、卜視地曰/相、占筮亦同(中略)。}及小道{謂、厭符之類也(中略)穴云、/小道、謂、符造左道是也云々}巫術{謂、巫者之方術、既是遙邪多端、不可具/言(中略)朱云、巫術、謂祭神而療病耳/云/々}療治者皆還俗、其依仏法持呪救疾、不在禁限{古記云、持呪謂経之呪也、道術符/禁、謂道士法也、今辛国連行是云々}
: 凡僧尼卜相吉凶{謂、灼亀曰、卜視地曰/相、占筮亦同(中略)。}及小道{謂、厭符之類也(中略)穴云、/小道、謂、符造左道是也云々}巫術{謂、巫者之方術、既是遙邪多端、不可具/言(中略)朱云、巫術、謂祭神而療病耳/云/々}療治者皆還俗、其依仏法持呪救疾、不在禁限{古記云、持呪謂経之呪也、道術符/禁、謂道士法也、今辛国連行是云々}


これに徴するも、僧尼の輩が巫女的呪術を行った事が知られると共に、仏教と巫道とが如何に密接に習合されていたかが窺われるのである。而して更に注意すべきは、前掲の最後の脚註に、『古記云、持呪謂経之呪也、道術符禁、謂道士法也、今辛国連行是』とある一節である。此の辛国連とは、有名な役行者(修験道の開祖と云われている)を讒して伊豆へ流したと伝えられている韓国連広足の一族と思われるので、此の頃において既に、仏教と巫道と修験道との三つが、相当に習合され混糅されていた事を証示する記事として、関心すべきものがある。「枕草子」に、見苦しきもの、法師陰陽師の<ruby><rb>紙冠</rb><rp>(</rp><rt>カミカウフリ</rt><rp>)</rp></ruby>して祓したると記し、「紫式部集」に、弥生の朔日河原に出でたるに、側の車に法師の紙を冠にして、<u>はかせ</u>だちたるを悪みと載せ、「宇治拾遺物語」巻十二に、爰に法師陰陽師、紙冠を被て祓するを見つけて云々とあり、更に「古今著聞集」に、藤原基俊が城外の道に小堂の在るを見て、六歳ばかりの小童にその名を問いしに「やしろ堂」と答えたので、基俊口吟に「此の堂は神か仏かおぼつかな」と云うと、小童とりあえず「ほうしみこ(法師巫)にぞ問ふべかりける」と下句を答えたとあるように、此の三者は殆んど区別することの出来ぬまでに、民間信仰としては融合渾成されたのである。
これに徹するも、僧尼の輩が巫女的呪術を行った事が知られると共に、仏教と巫道とが如何に密接に習合されていたかが窺われるのである。而して更に注意すべきは、前掲の最後の脚註に、『古記云、持呪謂経之呪也、道術符禁、謂道士法也、今辛国連行是』とある一節である。此の辛国連とは、有名な役行者(修験道の開祖と云われている)を讒して伊豆へ流したと伝えられている辛国連広足の一族と思われるので、此の頃において既に、仏教と巫道と修験道との三つが、相当に習合され混糅されていた事を証示する記事として、関心すべきものがある。「枕草子」に、見苦しきもの、法師陰陽師の<ruby><rb>紙冠</rb><rp>(</rp><rt>カミカウフリ</rt><rp>)</rp></ruby>して祓したると記し、「紫式部集」に、弥生の朔日河原に出でたるに、側の車に法師の紙を冠にして、<u>はかせ</u>だちたるを悪みと載せ、「宇治拾遺物語」巻十二に、爰に法師陰陽師、紙冠を被て祓するを見つけて云々とあり、更に「古今著聞集」に、藤原基俊が郊外の道に小堂の在るを見て、六歳ばかりの小童にその名を問いしに「やしろ堂」と答えたので、基俊口吟に「此の堂は神か仏かおぼつかな」と云うと、小童とりあえず「ほうしみこ(法師巫)にぞ問ふべかりける」と下句を答えたとあるように、此の三者は殆んど区別することの出来ぬまでに、民間信仰としては融合渾成されたのである。


かく仏教に導かれ、道教に誘われて、巫女の有していた固有の呪術は、漸を追うて失われ、形式も、内容も、道教化し、仏教化する余義なき道程を辿ったのである。「古事談」第三に、恵心僧都が大和の金峰山に正しき巫女ありと聞いて、ただ一人にて京都より同地へ赴き、心中の祈願を占えと頼みしに、その巫女の<ruby><rb>歌占</rb><rp>(</rp><rt>ウタウラ</rt><rp>)</rp></ruby>に『十億万土の国々は、海山隔て遠けれど、心の道だに直ければ、つとめて到るとぞきけ』と占うたので、随喜の涙を流して帰洛したとあるが、京まで盛名を馳せた正しき巫女にあっても、その言うところは全く仏臭き文句であった。他の正しからざる巫女の仏教化せる、又た以て知るべきである。
かく仏教に導かれ、道教に誘われて、巫女の有していた固有の呪術は、漸を追うて失われ、形式も、内容も、道教化し、仏教化する余義なき道程を辿ったのである。「古事記」第三に、恵心僧都が大和の金峰山に正しき巫女ありと聞いて、ただ一人にて京都より同地へ赴き、心中の祈願を占えと頼みしに、その巫女の<ruby><rb>歌占</rb><rp>(</rp><rt>ウタウラ</rt><rp>)</rp></ruby>に『十億万土の国々は、海山隔て遠けれど、心の道だに直ければ、つとめて到るとぞきけ』と占うたので、随喜の涙を流して帰洛したとあるが、京まで盛名を馳せた正しき巫女にあっても、その言うところは全く仏臭き文句であった。他の正しからざる巫女の仏教化せる、又た以て知るべきである。


'''三、巫女の守護神から帰依仏への過程'''
'''三、巫女の守護神から帰依仏への過程'''
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而して此の記事は、前に挙げた土佐のタテクラヒの民俗と共通している点もあるが、これは横死者に限って行うというところに、非常なる相違がある。横死者が、屍体の始末または埋葬の方法に就いて、惨酷なる取扱いを受けたことは、既述[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|辻占の発生の条]]に述べたので、再びそれを繰り返すことは見合せるが、更に此の記事中には三つの暗示が潜んでいることに注意せねばならぬ。即ち第一は、横死者に限って此の事を行うのは何故か、第二は、何故に此の事を「三崎はなし」というか、第三は、此の事は巫女が持ち伝えた古俗そのままか、それとも仏教の儀式を学んだものかと云う点である。
而して此の記事は、前に挙げた土佐のタテクラヒの民俗と共通している点もあるが、これは横死者に限って行うというところに、非常なる相違がある。横死者が、屍体の始末または埋葬の方法に就いて、惨酷なる取扱いを受けたことは、既述[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|辻占の発生の条]]に述べたので、再びそれを繰り返すことは見合せるが、更に此の記事中には三つの暗示が潜んでいることに注意せねばならぬ。即ち第一は、横死者に限って此の事を行うのは何故か、第二は、何故に此の事を「三崎はなし」というか、第三は、此の事は巫女が持ち伝えた古俗そのままか、それとも仏教の儀式を学んだものかと云う点である。


併しながら、それを言い出すと、説明が他岐に渉るので茲には省略し〔七〕、更に此の種の民俗を書きつづけるとする。陸中国江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行い、会葬者に馳走をする。その夜は講中の者が集り、神式にては奏楽、仏式にては念仏をなし、又巫女を迎えて口寄せを聴くのが慣習となっている〔八〕。この行事こそ、琉球の<ruby><rb>魂</rb><rp>(</rp><rt>マブイ</rt><rp>)</rp></ruby>アカシと全く同じ信仰であって、古く巫女が死者に親しみを有していた徴証である〔九〕。羽後国仙北郡の村々では、死者の葬礼の終った夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る体をなさしめ、遺族や親戚も額を鳩め涙を流して聴聞する〔一〇〕。秋田市では、春の彼岸になると、各家々で巫女を頼み、口寄せして亡者の便りを聴くことになっている。田植頃になると、農家は繁忙のために此の事を行わぬが、若しそれでも行うときは、柳に<ruby><rb>幣</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>を切りかけて門に高くかかげ、此の事を遣っている目標とする〔一一〕。岩代国河沼郡冬木沢村(会津若松の市外)の八葉寺は、九品念仏の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うている。俚俗この地を会津の高野と称え、毎年旧七月朔日より同十一日までの遠近の男女相集り、死者のために遺歯を堂中に納め、奥ノ院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆会を営む。この時諸村より多くの巫女集り来たり、亡者の口を寄せて過去将来の事を語る。又それを聴かんとて参詣する者が夥しく多い〔一一〕。
併しながら、それを言い出すと、説明が他岐に渉るので茲には省略し〔七〕、更に此の種の民俗を書きつづけるとする。陸中国江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行い、会葬者に馳走をする。その夜は講中の者が集り、神式にては奏楽、仏式にては念仏をなし、又巫女を迎えて口寄せを聴くのが慣習となっている〔八〕。この行事こそ、琉球の<ruby><rb>魂</rb><rp>(</rp><rt>マブイ</rt><rp>)</rp></ruby>アカシと全く同じ信仰であって、古く巫女が死者に親しみを有していた徴証である〔九〕。羽後国仙北郡の村々では、死者の葬礼の終った夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る体をなさしめ、遺族や親戚も額を鳩め涙を流して聴聞する〔一〇〕。秋田市では、春の彼岸になると、各家々で巫女を頼み、口寄せして亡者の便りを聴くことになっている。田植頃になると、農家は繁忙のために此の事を行わぬが、若しそれでも行うときは、柳に<ruby><rb>幣</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>を切りかけて門に高くかかげ、此の事を遣っている目標とする〔一一〕。岩代国河沼郡冬木沢村(会津若松の市街)の八葉寺は、九品念仏の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うている。俚俗この地を会津の高野と称え、毎年旧七月朔日より同十一日までの遠近の男女相集り、死者のために遺歯を堂中に納め、奥ノ院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆会を営む。この時諸村より多くの巫女集り来たり、亡者の口を寄せて過去将来の事を語る。又それを聴かんとて参詣する者が夥しく多い〔一一〕。


而して是に類した民俗は、まだ各地に存しているが、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]にても述べる機会があるので、今は概略にとどめるも、斯うした民間信仰は、巫道が仏教に征服されたことを意味したものとして見るとき、そこに限りなき興味が湧くのである。全体、奈良朝から平安朝へかけての本地垂跡説の発達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が「俗神道大意」や、その他の著述で論じたように、仏徒がその教理を弘通するために、神道を利用したばかりではなく、この反対に、神道の方から仏教の方へ歩み寄った事情さえ存していた。当時、仏法を重んじ、神道を軽んずる為政者の宗教政策は、仏教を興隆に導くのに急であったために、神道はかなり危険の地位に置かれていたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神仏の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大仏の開眼式に、遙々と九州から出かけて来て、今に手向山に八幡宮を残したなどは、よく此の間の消息を伝えている。聖武天皇が、
而して是に類した民俗は、まだ各地に存しているが、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]にても述べる機会があるので、今は概略にとどめるも、斯うした民間信仰は、巫道が仏教に征服されたことを意味したものとして見るとき、そこに限りなき興味が湧くのである。全体、奈良朝から平安朝へかけての本地垂跡説の発達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が「俗神道大意」や、その他の著述で論じたように、仏徒がその教理を弘通するために、神道を利用したばかりではなく、この反対に、神道の方から仏教の方へ歩み寄った事情さえ存していた。当時、仏法を重んじ、神道を軽んずる為政者の宗教政策は、仏教を興隆に導くのに急であったために、神道はかなり危険の地位に置かれていたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神仏の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大仏の開眼式に、遙々と九州から出かけて来て、今に手向山に八幡宮を残したなどは、よく此の間の消息を伝えている。聖武天皇が、
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而してイラタカの珠数に就いては、昔から学者の間に異説があり、イラタカとは珠数の<ruby><rb>梵語</rb><rp>(</rp><rt>サンスクリット</rt><rp>)</rp></ruby>だなどいう考証があるが〔一二〕、これは修験者が用いた<ruby><rb>最角念珠</rb><rp>(</rp><rt>イラタカノネンジュ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じ語原で(但し修験が先きで巫女が後か、或は此の反対に巫女が先で修験が後かは後に述べる)あろうと思う。そして此の珠数は挿入の写真で示したように、私の見たものは、長さ八尺、<ruby><rb>無患子</rb><rp>(</rp><rt>ムクロジ</rt><rp>)</rp></ruby>の珠の数は三百を本義とし([[:画像:イタコが持つイラタカの珠数.gif|写真]]のは5つほど失われている)、別に「装束」と称して双方の<ruby><rb>房</rb><rp>(</rp><rt>フサ</rt><rp>)</rp></ruby>の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨(下顎骨を用いぬのは見た眼が悪いからだという)、羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、これに変り銭(絵銭及び文字の異った変り銭)と、秋田藩で発行した鍔銭とが着けてあった〔一三〕。此の珠数は是を用いる巫女にとっては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元となっているのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に伝え、以て法統の霊物としたのである。これに反して、切り珠数の方は頗る簡単であって、珠は普通のと異り、丸くなくしてやや平たく、恰も十露盤珠のようで、数は日本総国を象り六十六とし、外に日神月神を象って、水晶の大きい珠を二つ加えている〔一四〕。珠数の説明はこれで大体を尽したが、さて問題となるのは、巫女が此の種の珠数を呪具として用いたのは、仏法に学んだのか、修験道に教えられたのか、それとも巫女独特の理由があったのか、三つのうちどれが正しいかと云うことである。
而してイラタカの珠数に就いては、昔から学者の間に異説があり、イラタカとは珠数の<ruby><rb>梵語</rb><rp>(</rp><rt>サンスクリット</rt><rp>)</rp></ruby>だなどいう考証があるが〔一二〕、これは修験者が用いた<ruby><rb>最角念珠</rb><rp>(</rp><rt>イラタカノネンジュ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じ語原で(但し修験が先きで巫女が後か、或は此の反対に巫女が先で修験が後かは後に述べる)あろうと思う。そして此の珠数は挿入の写真で示したように、私の見たものは、長さ八尺、<ruby><rb>無患子</rb><rp>(</rp><rt>ムクロジ</rt><rp>)</rp></ruby>の珠の数は三百を本義とし([[:画像:イタコが持つイラタカの珠数.gif|写真]]のは5つほど失われている)、別に「装束」と称して双方の<ruby><rb>房</rb><rp>(</rp><rt>フサ</rt><rp>)</rp></ruby>の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨(下顎骨を用いぬのは見た眼が悪いからだという)、羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、これに変り銭(絵銭及び文字の異った変り銭)と、秋田藩で発行した鍔銭とが着けてあった〔一三〕。此の珠数は是を用いる巫女にとっては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元となっているのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に伝え、以て法統の霊物としたのである。これに反して、切り珠数の方は頗る簡単であって、珠は普通のと異り、丸くなくしてやや平たく、恰も十露盤珠のようで、数は日本総国を象り六十六とし、外に日神月神を象って、水晶の大きい珠を二つ加えている〔一四〕。珠数の説明はこれで大体を尽したが、さて問題となるのは、巫女が此の種の珠数を呪具として用いたのは、仏法に学んだのか、修験道に教えられたのか、それとも巫女独特の理由があったのか、三つのうちどれが正しいかと云うことである。


これに対する私見を簡単に述べれば、既記の如く我国の巫女は、遠き狩猟時代から、或る種の獣骨禽爪等が呪力を有していることを知っていて、常にそれ等を所持していたのである。詳言すれば、意外なる豊猟によって獲たる、獣骨禽爪(骨爪は禽獣の象徴である)を所持していると、幾度でも豊猟を獲させてくれる(一種の交感呪術である)という信仰を持っていたのである。而して此の獣骨禽爪等の元の意味が忘られて、装身具となれば、即ち曲玉となって(曲玉の古い物が腎臓であることは既述した)、男女の胸辺に懸けられるようになったのであるが、此の間において、独り巫女だけ、古き伝統のままに(元の意義は忘れても)獣骨禽爪等を所持していたところ、仏教の渡来によって珠数を知り、ここに獣骨禽爪等の処置に就いて、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>の間にか二派を生じ、一派は珠数に真似てこれを造り用い、一派はそれを「外法箱」のうちに蔵して用いるようになったものと考える。此の観点から云えば、修験の最角念珠は、却って巫女のそれを模倣したのではないかとさえ思われるが、併しこれは<ruby><rb>筆序</rb><rp>(</rp><rt>ふでついで</rt><rp>)</rp></ruby>に記すべきような簡単の事ではないから、姑らく留保する。
これに対する私見を簡単に述べれば、既述の如く我国の巫女は、遠き狩猟時代から、或る種の獣骨禽爪等が呪力を有していることを知っていて、常にそれ等を所持していたのである。詳言すれば、意外なる豊猟によって獲たる、獣骨禽爪(骨爪は禽獣の象徴である)を所持していると、幾度でも豊猟を獲させてくれる(一種の交感呪術である)という信仰を持っていたのである。而して此の獣骨禽爪等の元の意味が忘られて、装身具となれば、即ち曲玉となって(曲玉の古い物が腎臓であることは既述した)、男女の胸辺に懸けられるようになったのであるが、此の間において、独り巫女だけ、古き伝統のままに(元の意義は忘れても)獣骨禽爪等を所持していたところ、仏教の渡来によって珠数を知り、ここに獣骨禽爪等の処置に就いて、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>の間にか二派を生じ、一派は珠数に真似てこれを造り用い、一派はそれを「外法箱」のうちに蔵して用いるようになったものと考える。此の観点から云えば、修験の最角念珠は、却って巫女のそれを模倣したのではないかとさえ思われるが、併しこれは<ruby><rb>筆序</rb><rp>(</rp><rt>ふでついで</rt><rp>)</rp></ruby>に記すべきような簡単の事ではないから、姑らく留保する。


巫女が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて占いを行うたこと、及び此の巫鳥が俗に頬白と云う鳥であることは[[日本巫女史/第一篇/第四章/第四節|既述]]を経たが、仏教の渡来と、密宗の事相とは、遂に此の巫鳥を時鳥としてしまった。全体、時鳥の考証は頗る厄介な問題であるが、それは本問に交渉が無いので省略するも〔一五〕、此の鳥が巫鳥に附会されるに至ったのは、別名を<ruby><rb>死出</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>田長</rb><rp>(</rp><rt>タオサ</rt><rp>)</rp></ruby>とも、魂迎へ鳥とも、又た無常鳥とも称したことに由来するのである。死出ノ田長に就いては「伊勢集」に『死出の山越えて来つらむほととぎす、恋しき人のうへ語らなむ』とあるのが古く〔一六〕、魂迎え鳥のことは「藻塩草」巻十に見え、無常鳥に関しては、我国で偽作された「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」の一節に、
巫女が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて占いを行うたこと、及び此の巫鳥が俗に頬白と云う鳥であることは[[日本巫女史/第一篇/第四章/第四節|既述]]を経たが、仏教の渡来と、密宗の事相とは、遂に此の巫鳥を時鳥としてしまった。全体、時鳥の考証は頗る厄介な問題であるが、それは本間に交渉が無いので省略するも〔一五〕、此の鳥が巫鳥に附会されるに至ったのは、別名を<ruby><rb>死出</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>田長</rb><rp>(</rp><rt>タオサ</rt><rp>)</rp></ruby>とも、魂迎へ鳥とも、又た無常鳥とも称したことに由来するのである。死出ノ田長に就いては「伊勢集」に『死出の山越えて来つらむほととぎす、恋しき人のうへ語らなむ』とあるのが古く〔一六〕、魂迎え鳥のことは「藻塩草」巻十に見え、無常鳥に関しては、我国で偽作された「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」の一節に、


: 一切衆生、臨命終時閻魔法王遣閻魔卒、一名奪魂鬼、二名奪精鬼、三名縛魄鬼、即縛三魂、至門関樹下、樹有荊棘、宛如鋒刃、二鳥栖掌、一名<u>無常鳥</u>、二名抜目鳥(中略)。化成{{{臣ケ}下皿}鳥}{縷鳥}、(中山曰。和名抄には此の字をほととぎすと訓せた)示怪語、鳴<ruby><rb>別都頓宜寿</rb><rp>(</rp><rt>ホトトギス</rt><rp>)</rp></ruby>云々。
: 一切衆生、臨命終時閻魔法王遣閻魔卒、一名奪魂鬼、二名奪精鬼、三名縛魄鬼、即縛三魂、至門関樹下、樹有荊棘、宛如鋒刃、二鳥栖掌、一名<u>無常鳥</u>、二名抜目鳥(中略)。化成{{{臣ケ}下皿}鳥}{縷鳥}、(中山曰。和名抄には此の字をほととぎすと訓せた)示怪語、鳴<ruby><rb>別都頓宜寿</rb><rp>(</rp><rt>ホトトギス</rt><rp>)</rp></ruby>云々。
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巫道に影響した仏教の教相及び事相に就いては、まだ記すべき多くの物が残されているが、尽さざる点は第三篇において補うとして、余りに長くなるので此の節を終るとする。
巫道に影響した仏教の教相及び事相に就いては、まだ記すべき多くの物が残されているが、尽さざる点は第三篇において補うとして、余りに長くなるので此の節を終るとする。


; 〔註一〕 : 仏教が我国に渡来した年代に就いては、公には欽明朝の十三年ということになっているが、実際は是れより以前に在ることは言うまでもない。仏教学者の間には、此の年代を迥かに古代まで引き上げようと試みる者も少くないが、私の信ずるところでは継体朝の頃ではないかと考えている。
; 〔註一〕 : 仏教が我国に渡来した年代に就いては、公には欽明朝の一三年ということになっているが、実際は是れより以前に在ることは言うまでもない。仏教学者の間には、此の年代を迥かに古代まで引き上げようと試みる者も少くないが、私の信ずるところでは継体朝の頃ではないかと考えている。
; 〔註二〕 : 法師巫の平安期の文献に見えたことは、本文中に記して置いたが、更に我国における毛坊主(清僧に対する俗僧ともいうべきもの)は、或は是等の思想から導かれたのも、一原因ではないかと考えたことがある。
; 〔註二〕 : 法師巫の平安期の文献に見えたことは、本文中に記して置いたが、更に我国における毛坊主(清僧に対する俗僧ともいうべきもの)は、或は是等の思想から導かれたのも、一原因ではないかと考えたことがある。
; 〔註三〕 : 山本信哉氏が曾て「歴史地理学会」の講演で此の事を詳しく述べられた。
; 〔註三〕 : 山本信哉氏が曾て「歴史地理学舎」の講演で此の事を詳しく述べられた。
; 〔註四〕 : 我国の古代における分霊の思想は、極めて稀薄なものであった。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御霊として斎き祀れとあるのが、それだと言っている学者もあるが、猶お考覈すべき余地があるやに思う。一神が百にも千にも分霊するという思想は、原始神道の上からは明確に知ることが出来ぬ。折口信夫氏は「万葉集」巻十四東歌の「あらたまの塞側(きべ)のはやしに汝を立てて、行きかつましじ妹をさきだたね」を解釈して、「魂はやしの式を行い云々、此のはやすには分霊を殖し、分裂させる義がある」と、例の氏一流の天才を発揮しているが、私には必ずしも此の歌はそう解釈されぬ。よし又た折口氏の如く解釈するのが古俗の正しきものとしても、分霊を殖す思想は、仏教の影響であって、我が固有のものだとは信じられない。
; 〔註四〕 : 我国の古代における分霊の思想は、極めて稀薄なものであった。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御霊として斎き祀れとあるのが、それだと言っている学者もあるが、猶お考覈すべき余地があるやに思う。一神が百にも千にも分霊するという思想は、原始神道の上からは明確に知ることが出来ぬ。折口信夫氏は「万葉集」巻一四東歌の「あらたまの塞側(きべ)のはやしに汝を立てて、行きかつましじ妹をさきだたね」を解釈して、「魂はやしの式を行い云々、此のはやすには分霊を殖し、分裂させる義がある」と、例の氏一流の天才を発揮しているが、私には必ずしも此の歌はそう解釈されぬ。よし又た折口氏の如く解釈するのが古俗の正しきものとしても、分霊を殖す思想は、仏教の影響であって、我が固有のものだとは信じられない。
; 〔註五〕 : 後ろ仏のことは、前掲の外には、「慶長見聞集」巻八に一例を発見しただけで、外に在ることの耳福に接しない。誰か此の種のことに通ぜるお方の教えを仰ぎたいものである。
; 〔註五〕 : 後ろ仏のことは、前掲の外には、「慶長見聞集」巻八に一例を発見しただけで、外に在ることの耳福に接しない。誰か此の種のことに通ぜるお方の教えを仰ぎたいものである。
; 〔註六〕 : 大正五年十二月十五日発行の「大阪毎日新聞」の記事に拠る。
; 〔註六〕 : 大正五年十二月十五日発行の「大阪毎日新聞」の記事に拠る。
138行目: 138行目:
; 〔註一一〕 : 「新編会津風土記」巻八一。
; 〔註一一〕 : 「新編会津風土記」巻八一。
; 〔註一二〕 : 山崎美成翁の「海録」巻六に「念珠の梵名アラタカと云へり、いらたかは此の転語なり」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であった。織田得能師の「仏教大辞典」には、珠数の梵名は「鉢塞莫」とある。「塩尻」巻五四に「いらたかの珠数は、密家の故実もありやと、或真言師に問ひしに、是は修験者の具にして、させる故もなし、最角と書ていらたかと読むと答へし」とある。
; 〔註一二〕 : 山崎美成翁の「海録」巻六に「念珠の梵名アラタカと云へり、いらたかは此の転語なり」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であった。織田得能師の「仏教大辞典」には、珠数の梵名は「鉢塞莫」とある。「塩尻」巻五四に「いらたかの珠数は、密家の故実もありやと、或真言師に問ひしに、是は修験者の具にして、させる故もなし、最角と書ていらたかと読むと答へし」とある。
; 〔註一三〕 : 私は秋田県出身の鈴木久治氏の秘蔵せるイラタカの珠数を拝見し、且つ写真の撮影まで許してもらい、併せて有益なるお話を沢山聞かせてもらったことは実に感謝に堪えぬ。ここにその事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田国男先生が見られたイラタカの珠数は、長さ十三尺、無患子の珠が三百三十、外に装束が付いて居たとあり。又た東京博物館にあるものは、獣骨禽爪等の外に菱の実が付けてあったと「郷土研究」第一巻(二五九ページ)に記してある。
; 〔註一三〕 : 私は秋田県出身の鈴木久治氏の秘蔵せるイラタカの珠数を拝見し、且つ写真の撮影まで許してもらい、併せて有益なるお話を沢山聞かせてもらったことは実に感謝に堪えぬ。ここにその事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田国男先生が見られたイラタカの珠数は、長さ一三尺、無患子の珠が三百三十、外に装束が付いて居たとあり。又た東京博物館にあるものは、獣骨禽爪等の外に菱の実が付けてあったと「郷土研究」第一巻(二五九ページ)に記してある。
; 〔註一四〕 : 江戸期に、関八州全部と、奥州と、甲信の一部の巫女頭を代々勤めていた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶お同家のこと、及び田村常子のことに就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳記する。
; 〔註一四〕 : 江戸期に、関八州全部と、奥州と、甲信の一部の巫女頭を代々勤めていた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶お同家のこと、及び田村常子のことに就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳記する。
; 〔註一五〕 : 伴信友翁の「比古婆衣」巻五に「喚子鳥」及び「しでのたをさ」の詳密なる考証が載せてある。
; 〔註一五〕 : 伴信友翁の「比古婆衣」巻五に「喚子鳥」及び「しでのたをさ」の詳密なる考証が載せてある。
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