日本巫女史/第二篇/第一章/第二節」を編集中

ナビゲーションに移動 検索に移動
警告: ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。ログインまたはアカウントを作成すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。

この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。

最新版 編集中の文章
95行目: 95行目:
而して此の記事は、前に挙げた土佐のタテクラヒの民俗と共通している点もあるが、これは横死者に限って行うというところに、非常なる相違がある。横死者が、屍体の始末または埋葬の方法に就いて、惨酷なる取扱いを受けたことは、既述[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|辻占の発生の条]]に述べたので、再びそれを繰り返すことは見合せるが、更に此の記事中には三つの暗示が潜んでいることに注意せねばならぬ。即ち第一は、横死者に限って此の事を行うのは何故か、第二は、何故に此の事を「三崎はなし」というか、第三は、此の事は巫女が持ち伝えた古俗そのままか、それとも仏教の儀式を学んだものかと云う点である。
而して此の記事は、前に挙げた土佐のタテクラヒの民俗と共通している点もあるが、これは横死者に限って行うというところに、非常なる相違がある。横死者が、屍体の始末または埋葬の方法に就いて、惨酷なる取扱いを受けたことは、既述[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|辻占の発生の条]]に述べたので、再びそれを繰り返すことは見合せるが、更に此の記事中には三つの暗示が潜んでいることに注意せねばならぬ。即ち第一は、横死者に限って此の事を行うのは何故か、第二は、何故に此の事を「三崎はなし」というか、第三は、此の事は巫女が持ち伝えた古俗そのままか、それとも仏教の儀式を学んだものかと云う点である。


併しながら、それを言い出すと、説明が他岐に渉るので茲には省略し〔七〕、更に此の種の民俗を書きつづけるとする。陸中国江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行い、会葬者に馳走をする。その夜は講中の者が集り、神式にては奏楽、仏式にては念仏をなし、又巫女を迎えて口寄せを聴くのが慣習となっている〔八〕。この行事こそ、琉球の<ruby><rb>魂</rb><rp>(</rp><rt>マブイ</rt><rp>)</rp></ruby>アカシと全く同じ信仰であって、古く巫女が死者に親しみを有していた徴証である〔九〕。羽後国仙北郡の村々では、死者の葬礼の終った夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る体をなさしめ、遺族や親戚も額を鳩め涙を流して聴聞する〔一〇〕。秋田市では、春の彼岸になると、各家々で巫女を頼み、口寄せして亡者の便りを聴くことになっている。田植頃になると、農家は繁忙のために此の事を行わぬが、若しそれでも行うときは、柳に<ruby><rb>幣</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>を切りかけて門に高くかかげ、此の事を遣っている目標とする〔一一〕。岩代国河沼郡冬木沢村(会津若松の市外)の八葉寺は、九品念仏の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うている。俚俗この地を会津の高野と称え、毎年旧七月朔日より同十一日までの遠近の男女相集り、死者のために遺歯を堂中に納め、奥ノ院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆会を営む。この時諸村より多くの巫女集り来たり、亡者の口を寄せて過去将来の事を語る。又それを聴かんとて参詣する者が夥しく多い〔一一〕。
併しながら、それを言い出すと、説明が他岐に渉るので茲には省略し〔七〕、更に此の種の民俗を書きつづけるとする。陸中国江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行い、会葬者に馳走をする。その夜は講中の者が集り、神式にては奏楽、仏式にては念仏をなし、又巫女を迎えて口寄せを聴くのが慣習となっている〔八〕。この行事こそ、琉球の<ruby><rb>魂</rb><rp>(</rp><rt>マブイ</rt><rp>)</rp></ruby>アカシと全く同じ信仰であって、古く巫女が死者に親しみを有していた徴証である〔九〕。羽後国仙北郡の村々では、死者の葬礼の終った夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る体をなさしめ、遺族や親戚も額を鳩め涙を流して聴聞する〔一〇〕。秋田市では、春の彼岸になると、各家々で巫女を頼み、口寄せして亡者の便りを聴くことになっている。田植頃になると、農家は繁忙のために此の事を行わぬが、若しそれでも行うときは、柳に<ruby><rb>幣</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>を切りかけて門に高くかかげ、此の事を遣っている目標とする〔一一〕。岩代国河沼郡冬木沢村(会津若松の市街)の八葉寺は、九品念仏の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うている。俚俗この地を会津の高野と称え、毎年旧七月朔日より同十一日までの遠近の男女相集り、死者のために遺歯を堂中に納め、奥ノ院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆会を営む。この時諸村より多くの巫女集り来たり、亡者の口を寄せて過去将来の事を語る。又それを聴かんとて参詣する者が夥しく多い〔一一〕。


而して是に類した民俗は、まだ各地に存しているが、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]にても述べる機会があるので、今は概略にとどめるも、斯うした民間信仰は、巫道が仏教に征服されたことを意味したものとして見るとき、そこに限りなき興味が湧くのである。全体、奈良朝から平安朝へかけての本地垂跡説の発達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が「俗神道大意」や、その他の著述で論じたように、仏徒がその教理を弘通するために、神道を利用したばかりではなく、この反対に、神道の方から仏教の方へ歩み寄った事情さえ存していた。当時、仏法を重んじ、神道を軽んずる為政者の宗教政策は、仏教を興隆に導くのに急であったために、神道はかなり危険の地位に置かれていたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神仏の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大仏の開眼式に、遙々と九州から出かけて来て、今に手向山に八幡宮を残したなどは、よく此の間の消息を伝えている。聖武天皇が、
而して是に類した民俗は、まだ各地に存しているが、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]にても述べる機会があるので、今は概略にとどめるも、斯うした民間信仰は、巫道が仏教に征服されたことを意味したものとして見るとき、そこに限りなき興味が湧くのである。全体、奈良朝から平安朝へかけての本地垂跡説の発達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が「俗神道大意」や、その他の著述で論じたように、仏徒がその教理を弘通するために、神道を利用したばかりではなく、この反対に、神道の方から仏教の方へ歩み寄った事情さえ存していた。当時、仏法を重んじ、神道を軽んずる為政者の宗教政策は、仏教を興隆に導くのに急であったために、神道はかなり危険の地位に置かれていたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神仏の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大仏の開眼式に、遙々と九州から出かけて来て、今に手向山に八幡宮を残したなどは、よく此の間の消息を伝えている。聖武天皇が、
Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細はDocs:著作権を参照)。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!

このページを編集するには、下記の確認用の質問に回答してください (詳細):

取り消し 編集の仕方 (新しいウィンドウで開きます)