日本巫女史/第二篇/第一章/第二節」を編集中

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而してイラタカの珠数に就いては、昔から学者の間に異説があり、イラタカとは珠数の<ruby><rb>梵語</rb><rp>(</rp><rt>サンスクリット</rt><rp>)</rp></ruby>だなどいう考証があるが〔一二〕、これは修験者が用いた<ruby><rb>最角念珠</rb><rp>(</rp><rt>イラタカノネンジュ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じ語原で(但し修験が先きで巫女が後か、或は此の反対に巫女が先で修験が後かは後に述べる)あろうと思う。そして此の珠数は挿入の写真で示したように、私の見たものは、長さ八尺、<ruby><rb>無患子</rb><rp>(</rp><rt>ムクロジ</rt><rp>)</rp></ruby>の珠の数は三百を本義とし([[:画像:イタコが持つイラタカの珠数.gif|写真]]のは5つほど失われている)、別に「装束」と称して双方の<ruby><rb>房</rb><rp>(</rp><rt>フサ</rt><rp>)</rp></ruby>の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨(下顎骨を用いぬのは見た眼が悪いからだという)、羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、これに変り銭(絵銭及び文字の異った変り銭)と、秋田藩で発行した鍔銭とが着けてあった〔一三〕。此の珠数は是を用いる巫女にとっては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元となっているのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に伝え、以て法統の霊物としたのである。これに反して、切り珠数の方は頗る簡単であって、珠は普通のと異り、丸くなくしてやや平たく、恰も十露盤珠のようで、数は日本総国を象り六十六とし、外に日神月神を象って、水晶の大きい珠を二つ加えている〔一四〕。珠数の説明はこれで大体を尽したが、さて問題となるのは、巫女が此の種の珠数を呪具として用いたのは、仏法に学んだのか、修験道に教えられたのか、それとも巫女独特の理由があったのか、三つのうちどれが正しいかと云うことである。
而してイラタカの珠数に就いては、昔から学者の間に異説があり、イラタカとは珠数の<ruby><rb>梵語</rb><rp>(</rp><rt>サンスクリット</rt><rp>)</rp></ruby>だなどいう考証があるが〔一二〕、これは修験者が用いた<ruby><rb>最角念珠</rb><rp>(</rp><rt>イラタカノネンジュ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じ語原で(但し修験が先きで巫女が後か、或は此の反対に巫女が先で修験が後かは後に述べる)あろうと思う。そして此の珠数は挿入の写真で示したように、私の見たものは、長さ八尺、<ruby><rb>無患子</rb><rp>(</rp><rt>ムクロジ</rt><rp>)</rp></ruby>の珠の数は三百を本義とし([[:画像:イタコが持つイラタカの珠数.gif|写真]]のは5つほど失われている)、別に「装束」と称して双方の<ruby><rb>房</rb><rp>(</rp><rt>フサ</rt><rp>)</rp></ruby>の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨(下顎骨を用いぬのは見た眼が悪いからだという)、羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、これに変り銭(絵銭及び文字の異った変り銭)と、秋田藩で発行した鍔銭とが着けてあった〔一三〕。此の珠数は是を用いる巫女にとっては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元となっているのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に伝え、以て法統の霊物としたのである。これに反して、切り珠数の方は頗る簡単であって、珠は普通のと異り、丸くなくしてやや平たく、恰も十露盤珠のようで、数は日本総国を象り六十六とし、外に日神月神を象って、水晶の大きい珠を二つ加えている〔一四〕。珠数の説明はこれで大体を尽したが、さて問題となるのは、巫女が此の種の珠数を呪具として用いたのは、仏法に学んだのか、修験道に教えられたのか、それとも巫女独特の理由があったのか、三つのうちどれが正しいかと云うことである。


これに対する私見を簡単に述べれば、既記の如く我国の巫女は、遠き狩猟時代から、或る種の獣骨禽爪等が呪力を有していることを知っていて、常にそれ等を所持していたのである。詳言すれば、意外なる豊猟によって獲たる、獣骨禽爪(骨爪は禽獣の象徴である)を所持していると、幾度でも豊猟を獲させてくれる(一種の交感呪術である)という信仰を持っていたのである。而して此の獣骨禽爪等の元の意味が忘られて、装身具となれば、即ち曲玉となって(曲玉の古い物が腎臓であることは既述した)、男女の胸辺に懸けられるようになったのであるが、此の間において、独り巫女だけ、古き伝統のままに(元の意義は忘れても)獣骨禽爪等を所持していたところ、仏教の渡来によって珠数を知り、ここに獣骨禽爪等の処置に就いて、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>の間にか二派を生じ、一派は珠数に真似てこれを造り用い、一派はそれを「外法箱」のうちに蔵して用いるようになったものと考える。此の観点から云えば、修験の最角念珠は、却って巫女のそれを模倣したのではないかとさえ思われるが、併しこれは<ruby><rb>筆序</rb><rp>(</rp><rt>ふでついで</rt><rp>)</rp></ruby>に記すべきような簡単の事ではないから、姑らく留保する。
これに対する私見を簡単に述べれば、既述の如く我国の巫女は、遠き狩猟時代から、或る種の獣骨禽爪等が呪力を有していることを知っていて、常にそれ等を所持していたのである。詳言すれば、意外なる豊猟によって獲たる、獣骨禽爪(骨爪は禽獣の象徴である)を所持していると、幾度でも豊猟を獲させてくれる(一種の交感呪術である)という信仰を持っていたのである。而して此の獣骨禽爪等の元の意味が忘られて、装身具となれば、即ち曲玉となって(曲玉の古い物が腎臓であることは既述した)、男女の胸辺に懸けられるようになったのであるが、此の間において、独り巫女だけ、古き伝統のままに(元の意義は忘れても)獣骨禽爪等を所持していたところ、仏教の渡来によって珠数を知り、ここに獣骨禽爪等の処置に就いて、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>の間にか二派を生じ、一派は珠数に真似てこれを造り用い、一派はそれを「外法箱」のうちに蔵して用いるようになったものと考える。此の観点から云えば、修験の最角念珠は、却って巫女のそれを模倣したのではないかとさえ思われるが、併しこれは<ruby><rb>筆序</rb><rp>(</rp><rt>ふでついで</rt><rp>)</rp></ruby>に記すべきような簡単の事ではないから、姑らく留保する。


巫女が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて占いを行うたこと、及び此の巫鳥が俗に頬白と云う鳥であることは[[日本巫女史/第一篇/第四章/第四節|既述]]を経たが、仏教の渡来と、密宗の事相とは、遂に此の巫鳥を時鳥としてしまった。全体、時鳥の考証は頗る厄介な問題であるが、それは本問に交渉が無いので省略するも〔一五〕、此の鳥が巫鳥に附会されるに至ったのは、別名を<ruby><rb>死出</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>田長</rb><rp>(</rp><rt>タオサ</rt><rp>)</rp></ruby>とも、魂迎へ鳥とも、又た無常鳥とも称したことに由来するのである。死出ノ田長に就いては「伊勢集」に『死出の山越えて来つらむほととぎす、恋しき人のうへ語らなむ』とあるのが古く〔一六〕、魂迎え鳥のことは「藻塩草」巻十に見え、無常鳥に関しては、我国で偽作された「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」の一節に、
巫女が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて占いを行うたこと、及び此の巫鳥が俗に頬白と云う鳥であることは[[日本巫女史/第一篇/第四章/第四節|既述]]を経たが、仏教の渡来と、密宗の事相とは、遂に此の巫鳥を時鳥としてしまった。全体、時鳥の考証は頗る厄介な問題であるが、それは本間に交渉が無いので省略するも〔一五〕、此の鳥が巫鳥に附会されるに至ったのは、別名を<ruby><rb>死出</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>田長</rb><rp>(</rp><rt>タオサ</rt><rp>)</rp></ruby>とも、魂迎へ鳥とも、又た無常鳥とも称したことに由来するのである。死出ノ田長に就いては「伊勢集」に『死出の山越えて来つらむほととぎす、恋しき人のうへ語らなむ』とあるのが古く〔一六〕、魂迎え鳥のことは「藻塩草」巻十に見え、無常鳥に関しては、我国で偽作された「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」の一節に、


: 一切衆生、臨命終時閻魔法王遣閻魔卒、一名奪魂鬼、二名奪精鬼、三名縛魄鬼、即縛三魂、至門関樹下、樹有荊棘、宛如鋒刃、二鳥栖掌、一名<u>無常鳥</u>、二名抜目鳥(中略)。化成{{{臣ケ}下皿}鳥}{縷鳥}、(中山曰。和名抄には此の字をほととぎすと訓せた)示怪語、鳴<ruby><rb>別都頓宜寿</rb><rp>(</rp><rt>ホトトギス</rt><rp>)</rp></ruby>云々。
: 一切衆生、臨命終時閻魔法王遣閻魔卒、一名奪魂鬼、二名奪精鬼、三名縛魄鬼、即縛三魂、至門関樹下、樹有荊棘、宛如鋒刃、二鳥栖掌、一名<u>無常鳥</u>、二名抜目鳥(中略)。化成{{{臣ケ}下皿}鳥}{縷鳥}、(中山曰。和名抄には此の字をほととぎすと訓せた)示怪語、鳴<ruby><rb>別都頓宜寿</rb><rp>(</rp><rt>ホトトギス</rt><rp>)</rp></ruby>云々。
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巫道に影響した仏教の教相及び事相に就いては、まだ記すべき多くの物が残されているが、尽さざる点は第三篇において補うとして、余りに長くなるので此の節を終るとする。
巫道に影響した仏教の教相及び事相に就いては、まだ記すべき多くの物が残されているが、尽さざる点は第三篇において補うとして、余りに長くなるので此の節を終るとする。


; 〔註一〕 : 仏教が我国に渡来した年代に就いては、公には欽明朝の十三年ということになっているが、実際は是れより以前に在ることは言うまでもない。仏教学者の間には、此の年代を迥かに古代まで引き上げようと試みる者も少くないが、私の信ずるところでは継体朝の頃ではないかと考えている。
; 〔註一〕 : 仏教が我国に渡来した年代に就いては、公には欽明朝の一三年ということになっているが、実際は是れより以前に在ることは言うまでもない。仏教学者の間には、此の年代を迥かに古代まで引き上げようと試みる者も少くないが、私の信ずるところでは継体朝の頃ではないかと考えている。
; 〔註二〕 : 法師巫の平安期の文献に見えたことは、本文中に記して置いたが、更に我国における毛坊主(清僧に対する俗僧ともいうべきもの)は、或は是等の思想から導かれたのも、一原因ではないかと考えたことがある。
; 〔註二〕 : 法師巫の平安期の文献に見えたことは、本文中に記して置いたが、更に我国における毛坊主(清僧に対する俗僧ともいうべきもの)は、或は是等の思想から導かれたのも、一原因ではないかと考えたことがある。
; 〔註三〕 : 山本信哉氏が曾て「歴史地理学会」の講演で此の事を詳しく述べられた。
; 〔註三〕 : 山本信哉氏が曾て「歴史地理学舎」の講演で此の事を詳しく述べられた。
; 〔註四〕 : 我国の古代における分霊の思想は、極めて稀薄なものであった。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御霊として斎き祀れとあるのが、それだと言っている学者もあるが、猶お考覈すべき余地があるやに思う。一神が百にも千にも分霊するという思想は、原始神道の上からは明確に知ることが出来ぬ。折口信夫氏は「万葉集」巻十四東歌の「あらたまの塞側(きべ)のはやしに汝を立てて、行きかつましじ妹をさきだたね」を解釈して、「魂はやしの式を行い云々、此のはやすには分霊を殖し、分裂させる義がある」と、例の氏一流の天才を発揮しているが、私には必ずしも此の歌はそう解釈されぬ。よし又た折口氏の如く解釈するのが古俗の正しきものとしても、分霊を殖す思想は、仏教の影響であって、我が固有のものだとは信じられない。
; 〔註四〕 : 我国の古代における分霊の思想は、極めて稀薄なものであった。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御霊として斎き祀れとあるのが、それだと言っている学者もあるが、猶お考覈すべき余地があるやに思う。一神が百にも千にも分霊するという思想は、原始神道の上からは明確に知ることが出来ぬ。折口信夫氏は「万葉集」巻一四東歌の「あらたまの塞側(きべ)のはやしに汝を立てて、行きかつましじ妹をさきだたね」を解釈して、「魂はやしの式を行い云々、此のはやすには分霊を殖し、分裂させる義がある」と、例の氏一流の天才を発揮しているが、私には必ずしも此の歌はそう解釈されぬ。よし又た折口氏の如く解釈するのが古俗の正しきものとしても、分霊を殖す思想は、仏教の影響であって、我が固有のものだとは信じられない。
; 〔註五〕 : 後ろ仏のことは、前掲の外には、「慶長見聞集」巻八に一例を発見しただけで、外に在ることの耳福に接しない。誰か此の種のことに通ぜるお方の教えを仰ぎたいものである。
; 〔註五〕 : 後ろ仏のことは、前掲の外には、「慶長見聞集」巻八に一例を発見しただけで、外に在ることの耳福に接しない。誰か此の種のことに通ぜるお方の教えを仰ぎたいものである。
; 〔註六〕 : 大正五年十二月十五日発行の「大阪毎日新聞」の記事に拠る。
; 〔註六〕 : 大正五年十二月十五日発行の「大阪毎日新聞」の記事に拠る。
138行目: 138行目:
; 〔註一一〕 : 「新編会津風土記」巻八一。
; 〔註一一〕 : 「新編会津風土記」巻八一。
; 〔註一二〕 : 山崎美成翁の「海録」巻六に「念珠の梵名アラタカと云へり、いらたかは此の転語なり」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であった。織田得能師の「仏教大辞典」には、珠数の梵名は「鉢塞莫」とある。「塩尻」巻五四に「いらたかの珠数は、密家の故実もありやと、或真言師に問ひしに、是は修験者の具にして、させる故もなし、最角と書ていらたかと読むと答へし」とある。
; 〔註一二〕 : 山崎美成翁の「海録」巻六に「念珠の梵名アラタカと云へり、いらたかは此の転語なり」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であった。織田得能師の「仏教大辞典」には、珠数の梵名は「鉢塞莫」とある。「塩尻」巻五四に「いらたかの珠数は、密家の故実もありやと、或真言師に問ひしに、是は修験者の具にして、させる故もなし、最角と書ていらたかと読むと答へし」とある。
; 〔註一三〕 : 私は秋田県出身の鈴木久治氏の秘蔵せるイラタカの珠数を拝見し、且つ写真の撮影まで許してもらい、併せて有益なるお話を沢山聞かせてもらったことは実に感謝に堪えぬ。ここにその事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田国男先生が見られたイラタカの珠数は、長さ十三尺、無患子の珠が三百三十、外に装束が付いて居たとあり。又た東京博物館にあるものは、獣骨禽爪等の外に菱の実が付けてあったと「郷土研究」第一巻(二五九ページ)に記してある。
; 〔註一三〕 : 私は秋田県出身の鈴木久治氏の秘蔵せるイラタカの珠数を拝見し、且つ写真の撮影まで許してもらい、併せて有益なるお話を沢山聞かせてもらったことは実に感謝に堪えぬ。ここにその事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田国男先生が見られたイラタカの珠数は、長さ一三尺、無患子の珠が三百三十、外に装束が付いて居たとあり。又た東京博物館にあるものは、獣骨禽爪等の外に菱の実が付けてあったと「郷土研究」第一巻(二五九ページ)に記してある。
; 〔註一四〕 : 江戸期に、関八州全部と、奥州と、甲信の一部の巫女頭を代々勤めていた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶お同家のこと、及び田村常子のことに就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳記する。
; 〔註一四〕 : 江戸期に、関八州全部と、奥州と、甲信の一部の巫女頭を代々勤めていた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶お同家のこと、及び田村常子のことに就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳記する。
; 〔註一五〕 : 伴信友翁の「比古婆衣」巻五に「喚子鳥」及び「しでのたをさ」の詳密なる考証が載せてある。
; 〔註一五〕 : 伴信友翁の「比古婆衣」巻五に「喚子鳥」及び「しでのたをさ」の詳密なる考証が載せてある。
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