日本巫女史/第二篇/第三章/第三節」を編集中

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これが更に平安期となると、社会を挙げて、鬼神を恐れ、物ノ怪を信じた神経衰弱時代だけに、巫覡の妖言に惑溺する事一段と猛烈なるものがあった。藤原兼家が摂関の高位にいながら、賀茂の若宮のよく憑かる「打臥しの巫女」というを招ぎ、手ずから装束を奉り、冠を着せ、然も自分の膝に枕させて、物を占わせたとあるのは、「大鏡」の筆者が『さやうに近く召し寄さるに、言ふかひもなき程のものにもあらで、少し<ruby><rb>侍女</rb><rp>(</rp><rt>オモト</rt><rp>)</rp></ruby>ほどのきはにてありけり』と冷笑的に記しているところから推すと、曰くのありそうな信仰であることが知られるが、併し此の時代でなければ、決して見ることの出来ぬ事象である。更に「宇津保物語」藤原の君の巻に、致仕の大臣三春高基が、徳町という巫女を後妻に迎えたことが載せてあるが、架空の物語ものにせよ、当時、かかる世相のあることを著者が知っていて記したものと考うべきである。
これが更に平安期となると、社会を挙げて、鬼神を恐れ、物ノ怪を信じた神経衰弱時代だけに、巫覡の妖言に惑溺する事一段と猛烈なるものがあった。藤原兼家が摂関の高位にいながら、賀茂の若宮のよく憑かる「打臥しの巫女」というを招ぎ、手ずから装束を奉り、冠を着せ、然も自分の膝に枕させて、物を占わせたとあるのは、「大鏡」の筆者が『さやうに近く召し寄さるに、言ふかひもなき程のものにもあらで、少し<ruby><rb>侍女</rb><rp>(</rp><rt>オモト</rt><rp>)</rp></ruby>ほどのきはにてありけり』と冷笑的に記しているところから推すと、曰くのありそうな信仰であることが知られるが、併し此の時代でなければ、決して見ることの出来ぬ事象である。更に「宇津保物語」藤原の君の巻に、致仕の大臣三春高基が、徳町という巫女を後妻に迎えたことが載せてあるが、架空の物語ものにせよ、当時、かかる世相のあることを著者が知っていて記したものと考うべきである。


殊に注意しなければならぬ点は、当代において藤原氏が、幼帝を擁し奉って政権を争うたため、その手段として往往巫蠱の疑獄を惹き起し、これを以て政敵を陥れた事である。勿論、この手段たるや、決して平安朝に突如として悪辣なる政治家の間に発明されたものでなく、遠く国初時代から慣用せられて来たのであるが、奈良朝において猖んに悪用され、平安朝はこれを踏襲したに過ぎぬのであるが、深く迷信に拉われていた時代だけに、その陰険さは一段の熾烈を加えたのである。
殊に注意しなければならぬ点は、当代において藤原氏が、幼帝を擁し奉って政権を争うたため、その手段として往往巫蠱の疑獄を惹き起し、これを以て政治を陥れた事である。勿論、この手段たるや、決して平安朝に突如として悪辣なる政治家の間に発明されたものでなく、遠く国初時代から慣用せられて来たのであるが、奈良朝において猖んに悪用され、平安朝はこれを踏襲したに過ぎぬのであるが、深く迷信に拉われていた時代だけに、その陰険さは一段の熾烈を加えたのである。


「政事要略」巻七〇に載せた藤原為文、同方理、佐伯公行の妻(高階光子)、方理の妻(源氏)及び僧円能等が相謀り、上東門院、及びその父藤原道長を呪詛したという巫蠱罪の判決文は、当時の人心が如何に巫蠱の徒を恐れていたか、併せてその結果が如何に政治に現われたかを知るに便宜があるも、余りに長文なのでここに摘録することすら出来ぬのは遺憾である〔二〕。
「政事要略」巻七〇に載せた藤原為文、同方理、佐伯公行の妻(高階光子)、方理の妻(源氏)及び僧円能等が相謀り、上東門院、及びその父藤原道長を呪詛したという巫蠱罪の判決文は、当時の人心が如何に巫蠱の徒を恐れていたか、併せてその結果が如何に政治に現われたかを知るに便宜があるも、余りに長文なのでここに摘録することすら出来ぬのは遺憾である〔二〕。
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とある此の神も、恐らく巫祝に憑って託宣されたものであろうと推察される〔三〕。更に「扶桑略記」巻六に、
とある此の神も、恐らく巫祝に憑って託宣されたものであろうと推察される〔三〕。更に「扶桑略記」巻六に、


養老四年九月、有征夷事、大隅日向両国乱逆、公家祈祷於宇佐宮、其禰宜辛島勝代豆米、相率神軍、行征彼国、打平其敵、大神託宣曰、合戦之間、多致殺生、宜修放生者、諸国放生会、始自此時矣(国史大系本)。
養老四年九月、有征夷事、大隅日向両国乱逆、公家祈禱於宇佐宮、其禰宜辛島勝代豆米、相率神軍、行征彼国、打平其敵、大神託宣曰、合戦之間、多致殺生、宜修放生者、諸国放生会、始自此時矣(国史大系本)。


とあるのは、元より正史には見えぬ事であって、且つ放生会の縁起を説こうとする仏徒の術策のように思われるが、併し此の事は「濫觴抄」(群書類従本)にも載せてあるので、多少ともこれに似寄った事があったのではないかと考え直したので採録するとした。而して禰宜の辛島勝代豆米は即ち刀自であるから、女性であった事は推測に難くない。更に「将門記」には、巫倡があって将門を占い、これが意を迎えた事が記してある。巫倡の文字から推して、尋常の巫女でないようにも思われるが、兎に角に神策を問うに必要なる巫女が、陣中にいた事だけは明白である。
とあるのは、元より正史には見えぬ事であって、且つ放生会の縁起を説こうとする仏徒の術策のように思われるが、併し此の事は「濫觴抄」(群書類従本)にも載せてあるので、多少ともこれに似寄った事があったのではないかと考え直したので採録するとした。而して禰宜の辛島勝代豆米は即ち刀自であるから、女性であった事は推測に難くない。更に「将門記」には、巫倡があって将門を占い、これが意を迎えた事が記してある。巫倡の文字から推して、尋常の巫女でないようにも思われるが、兎に角に神策を問うに必要なる巫女が、陣中にいた事だけは明白である。
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然るにこれとは事情を異にするが、巫女の徴験あることを記したものがある。「政事要略」巻七〇に「善家異記」を引用して、
然るにこれとは事情を異にするが、巫女の徴験あることを記したものがある。「政事要略」巻七〇に「善家異記」を引用して、


: 先君、貞観二年、出為淡路守、至于四年、忽疾病危篤、時有一老媼、自阿波国来云、能見鬼知人死生、時先妣、引媼侍病、媼云、有裸鬼持椎、向府君臥処、於是丈夫一人怒、追却此鬼、如此一日一朝五六度、此丈夫即似府君<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>氏カ</rt><rp>)</rp></ruby>神、於是先考如言、祈祷氏神、媼亦云、丈夫追裸鬼、令過阿波鳴渡既畢、此日先考平復安和、其後六年春正月又疾病、即亦招媼侍病、媼云、前年所見丈夫、又於府君枕上悲泣云。此人運命已尽、無復生理、悲哉(中略)。其後数日、先考遂卒(中略)。此事雖迂誕、自所見、聊以記之、恐後代以余為鬼之薫狐焉(史籍集覧本)。
: 先君、貞観二年、出為淡路守、至于四年、忽疾病危篤、時有一老媼、自阿波国来云、能見鬼知人死生、時先妣、引媼侍病、有裸鬼持椎、向府君臥処、於是丈夫一人怒、追却此鬼、如此一日一朝五六度、此丈夫即似府君<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>氏カ</rt><rp>)</rp></ruby>神、於是先考如言、祈禱氏神、媼亦云、丈夫追裸鬼、令過阿波鳴渡既畢、此日先考平復安和、其後六年春正月又疾病、即亦招媼侍病、媼云、前年所見丈夫、又於府君枕上悲泣云。此人運命已尽、無復生理、悲哉(中略)。其後数日、先考遂卒(中略)。此事雖迂誕、自所見、聊以記之、恐後代以余為鬼之薫狐焉(史籍集覧本)。


とあるのが、それである。而して「政事要略」の編者である惟宗允亮も、これには頗る感心したと見え、『詐巫之輩、雖其制、神験之者、為云其徴、載此記耳』と記している。
とあるのが、それである。而して「政事要略」の編者である惟宗允亮も、これには頗る感心したと見え、『詐巫之輩、雖其制、神験之者、為云其徴、載此記耳』と記している。
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斯うした事件は、鬼を信じ巫を好んだ平安朝には、到底ここに挙げ尽せぬほど多く存しているが、就中、左の事件の如きは、神託の霊験を知る上に必要であると考えたので、最後の類例として抄出した。「大神宮諸雑事記」巻一に、
斯うした事件は、鬼を信じ巫を好んだ平安朝には、到底ここに挙げ尽せぬほど多く存しているが、就中、左の事件の如きは、神託の霊験を知る上に必要であると考えたので、最後の類例として抄出した。「大神宮諸雑事記」巻一に、


: 長元四年六月十七日、大神宮御祭也、仍斎内親王依例参宮(中略)。而爰斎王御託宣云、我皇大神宮之第一別宮荒祭宮也、而依大神宮勅宣<sub>天</sub>、此斎内親王<sub>仁</sub>所託宣也、故何者、寮頭相通、並妻藤原古木古曾及数従者共<sub>仁</sub>、年来狂言之詞巧<sub>天</sub>、我夫婦<sub>仁和</sub>、二所大神宮翔付御<sub>奈利</sub>、男女之子供<sub>仁</sub>荒祭宮<sub>乃</sub>付通給也、女房共<sub>仁和</sub>、今五所別宮<sub>乃</sub>付給也<sub>止</sub>号<sub>志天</sub>、巫覡之事<sub>遠</sub>護陳<sub>天</sub>、二宮化異之由<sub>遠</sub>称<sub>須</sub>、此尤奉為神明<sub>仁毛</sub>奉為皇帝<sub>仁毛</sub>、極不忠之企也云々。同年八月二十日寮頭相通者伊豆国、妻古木古曾子者隠岐国<sub>仁</sub>配流云々。
: 長元四年六月十七日、大神宮御祭也、仍斎内親王依例参宮(中略)。而爰斎王御託宣云、我皇大神宮之第一別宮荒祭宮也、而依大神宮勅宣<sub>天</sub>、此斎内親王<sub>仁</sub>所託宣也、故何者、寮頭相通、並妻藤原小木古曾及数従者共<sub>仁</sub>、年来狂言之詞巧<sub>天</sub>、我夫婦<sub>仁和</sub>、二所大神宮翔付御<sub>奈利</sub>、男女之子供<sub>仁</sub>荒祭宮<sub>乃</sub>付通給也、女房共<sub>仁和</sub>、今五所別宮<sub>乃</sub>付給也<sub>止</sub>号<sub>志天</sub>、巫覡之事<sub>遠</sub>護陳<sub>天</sub>、二宮化異之由<sub>遠</sub>称<sub>須</sub>、此尤奉為神明<sub>仁毛</sub>奉為皇帝<sub>仁毛</sub>、極不忠之企也云々。同年八月二十日寮頭相通者伊豆国、妻古木古曾子者隠岐国<sub>仁</sub>配流云々。


鎌倉期になると、流石に、武断政治を以て天下に号令しただけに、巫女を信頼する事、前代の如きものはなかったが、それでも決して絶無という次第ではなく、源頼朝ほどの人物でも、又これを全く閑却することは出来なかったのである。前掲「吾妻鏡」巻二治承五年七月八日の条に、「相模国大庭御厨庤<ruby><rb>一古</rb><rp>(</rp><rt>イチコ</rt><rp>)</rp></ruby>娘参上」と見え、同書巻六文治二年五月一日の条には、
鎌倉期になると、流石に、武断政治を以て天下に号令しただけに、巫女を信頼する事、前代の如きものはなかったが、それでも決して絶無という次第ではなく、源頼朝ほどの人物でも、又これを全く閑却することは出来なかったのである。前掲「吾妻鏡」巻二治承五年七月八日の条に、「相模国大庭御厨庤<ruby><rb>一古</rb><rp>(</rp><rt>イチコ</rt><rp>)</rp></ruby>娘参上」と見え、同書巻六文治二年五月一日の条には、
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