「日本巫女史/第二篇/第三章/第二節」を編集中
ナビゲーションに移動
検索に移動
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
60行目: | 60行目: | ||
とあるのを典拠として〔三〕、これが若宮の出現であると言っているなどは、詭弁この上なしで寧ろ滑稽に感ずるほどである。石清水八幡宮でも、摂社に水若宮(本宮の東方、若宮殿の南に在る)というのがあるのを、無理に史実に合うように解釈せんとて、これの祭神を菟道稚郎子としているが〔四〕、水若宮とは、常識的にいえば、流産した水子のことであるから、これでは却って史実に遠ざかることになるのである。我国の御子神——及び若宮の出現は、さる廻りくどい解釈をせずとも、古き信仰さえ知れば、容易に合点される問題であると同時に、又かくの如く解釈するのが最も妥当であって、そうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十余苗裔の御子神の由来や、熊野神の九十九王子の信仰なども、遂に不明となってしまうのである。 | とあるのを典拠として〔三〕、これが若宮の出現であると言っているなどは、詭弁この上なしで寧ろ滑稽に感ずるほどである。石清水八幡宮でも、摂社に水若宮(本宮の東方、若宮殿の南に在る)というのがあるのを、無理に史実に合うように解釈せんとて、これの祭神を菟道稚郎子としているが〔四〕、水若宮とは、常識的にいえば、流産した水子のことであるから、これでは却って史実に遠ざかることになるのである。我国の御子神——及び若宮の出現は、さる廻りくどい解釈をせずとも、古き信仰さえ知れば、容易に合点される問題であると同時に、又かくの如く解釈するのが最も妥当であって、そうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十余苗裔の御子神の由来や、熊野神の九十九王子の信仰なども、遂に不明となってしまうのである。 | ||
而して是等の巫女——即ち御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云う)と称して特に崇敬を受け、往往神として祭られたものであって、前に載せた<ruby><rb>巫女神</rb><rp>(</rp><rt>ミコガミ</rt><rp>)</rp></ruby>のうちの幾柱かは、蓋しそれに相当しているのである。更に紀州海草郡宮村の官幣大社日前国県神社には、古くから人母と称する上﨟が、二人づつ神官として仕えていた〔五〕。土佐国長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも<ruby><rb>性神</rb><rp>(</rp><rt>セックス・ゴッド</rt><rp>)</rp></ruby>として知られているが〔六〕、これも神に仕えた巫女を祭ったものであろう。筑前福岡市西町の島飼八幡宮では中央に八幡大神を、左方に宝満大神、右方に聖母大神を祭っている〔七〕。九州には聖母大神、又は聖母屋敷と称するものが各地に存しているが、是等は古く神母としての巫女に由縁のあった神々であり、土地であったに違いない。遠江国磐田郡佐久間村大字半場小字神妻に郷社神妻神社というのがある。社記によると、昔一人の巫女が神を生んだが、その神が神妻社の祭神となったので、神の母なりとて同社の傍に墳墓がある〔八〕。肥後国鹿本郡吉松村大字船島の菅牟田神は、元は阿蘇大神の妾であったが、正妻の嫉妬のために、神となっても阿蘇山の見えぬ処に宮造りをするそうだが〔九〕、これも神母のそれと見て差支ないようである。前に巫女神の一例として挙げた、紀州海草郡東山東村大字平尾の都麻都比売命神社は、土人の伝えには、此の神は同郡の古社である、伊太祁曾神社の妻女であるので、一切の神事は、伊太祁曾社の社人が勤めることになっているというが〔一〇〕、恐らくこれも巫女が神妻となったものと考うべきである。 | |||
更に柳田国男先生の研究によると、<ruby><rb>民間伝承</rb><rp>(</rp><rt>フォークロア</rt><rp>)</rp></ruby>として最も豊産なる<ruby><rb>人聞</rb><rp>(</rp><rt>ジンモン</rt><rp>)</rp></ruby>菩薩は、この人母又は神母と関係あるかも知れぬと云う事である〔一一〕。「三代実録」元慶四年三月二十二日に正六位上を授けられた筑前国の託神咩神の如きも、その神名から推すも巫女神であって、然も神母ではなかったかと思われるのである。前引の「万葉集」巻二に『玉かつら実ならぬ樹には千早振る、神ぞ<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>くちふならぬ樹毎に』とあるのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じたものであるが、然もその由って来たる所は、神主と巫女との関係が、その基調となっていたのである。 | 更に柳田国男先生の研究によると、<ruby><rb>民間伝承</rb><rp>(</rp><rt>フォークロア</rt><rp>)</rp></ruby>として最も豊産なる<ruby><rb>人聞</rb><rp>(</rp><rt>ジンモン</rt><rp>)</rp></ruby>菩薩は、この人母又は神母と関係あるかも知れぬと云う事である〔一一〕。「三代実録」元慶四年三月二十二日に正六位上を授けられた筑前国の託神咩神の如きも、その神名から推すも巫女神であって、然も神母ではなかったかと思われるのである。前引の「万葉集」巻二に『玉かつら実ならぬ樹には千早振る、神ぞ<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>くちふならぬ樹毎に』とあるのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じたものであるが、然もその由って来たる所は、神主と巫女との関係が、その基調となっていたのである。 |