日本巫女史/第二篇/第三章/第二節」を編集中

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[[日本巫女史/第二篇/第三章|第三章 巫女の信仰的生活と性的生活]]
[[日本巫女史/第二篇/第三章|第三章 巫女の信仰的生活と性的生活]]


==第二節 巫女神信仰の由来と巫女の位置==
==第二節 御子神信仰の由来と巫女の位置==


記・紀・風土記及び延喜の神名帳に現れた<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコカミ</rt><rp>)</rp></ruby>を、悉く巫女関係の神と云うことは許されぬまでも、此のうちの幾神かは、巫女その者を神と祀り、又は巫女と神との間に生れた<ruby><rb>御子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>を神に祀ったものであることは認めねばならぬ。私は此の見地に立って、先ず「神名帳」から是等の神々を検出し、然る後に、<ruby><rb>巫女神</rb><rp>(</rp><rt>ミコカミ</rt><rp>)</rp></ruby>、及び御子神の由来と、巫女の地位に就いて、多少の考察を試みるとする。
記・紀・風土記及び延喜の神名帳に現れた<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコカミ</rt><rp>)</rp></ruby>を、悉く巫女関係の神と云うことは許されぬまでも、此のうちの幾神かは、巫女その者を神と祀り、又は巫女と神との間に生れた<ruby><rb>御子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>を神に祀ったものであることは認めねばならぬ。私は此の見地に立って、先ず「神名帳」から是等の神々を検出し、然る後に、<ruby><rb>巫女神</rb><rp>(</rp><rt>ミコカミ</rt><rp>)</rp></ruby>、及び御子神の由来と、巫女の地位に就いて、多少の考察を試みるとする。
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: 伊豆国賀茂郡 優波夷命神社
: 伊豆国賀茂郡 優波夷命神社
: 美濃国賀茂郡 坂祝神社
: 美濃国賀茂郡 坂祝神社
: 信濃国更級郡 氷銫斗売神社
: 信濃国更級郡 氷絶斗売神社
: 同国埴科郡  玉依比売命神社
: 同国埴科郡  玉依比売命神社
: 越前国敦賀郡 天比女若御子神社
: 越前国敦賀郡 天比女若御子神社
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: 大和国宇陀郡 神御子美牟須比命神社
: 大和国宇陀郡 神御子美牟須比命神社
: 河内国高安郡 春日戸社坐御子神社
: 河内国高安郡 春日戸社坐御子神社
: 遠江国磐田郡 須波若御子神社
: 近江国磐田郡 須波若御子神社
: 同上     御子神社二座
: 同上     御子神社二座
: 常陸国新治郡 鴨大神御子神主神社
: 常陸国新治郡 鴨大神御子神主神社
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併しながら、既に信仰の対象として祭られている幽界の神々が、顕界にある人間と同じように生殖を営み、御子神を幾柱となく儲けるということは、後世の神祇観から言えば、誠に腑に落ちぬ理窟であるが、これは神というものの内容が、時代によって変遷することを会得すれば、忽ちに釈然する問題なのである。白河法皇の「梁塵秘抄」に『神も昔は人ぞかし』とある如く、原始神道の立場からいえば、神主は直ちに祭神その者であった。古代にあっては、名神大社は云うまでもなく、更に叢祠藪神の末までも、苟くも神主のある以上は、その神主は「<ruby><rb>現神</rb><rp>(</rp><rt>アキツカミ</rt><rp>)</rp></ruby>」としての待遇を受けていたのである。
併しながら、既に信仰の対象として祭られている幽界の神々が、顕界にある人間と同じように生殖を営み、御子神を幾柱となく儲けるということは、後世の神祇観から言えば、誠に腑に落ちぬ理窟であるが、これは神というものの内容が、時代によって変遷することを会得すれば、忽ちに釈然する問題なのである。白河法皇の「梁塵秘抄」に『神も昔は人ぞかし』とある如く、原始神道の立場からいえば、神主は直ちに祭神その者であった。古代にあっては、名神大社は云うまでもなく、更に叢祠藪神の末までも、苟くも神主のある以上は、その神主は「<ruby><rb>現神</rb><rp>(</rp><rt>アキツカミ</rt><rp>)</rp></ruby>」としての待遇を受けていたのである。


[[画像:高級神楽神子.gif|thumb|中世の高級なる神楽神子]]
現今でこそ、神主といえば、神と人との間に介在して、神の意を人に伝え、又は人の請を神に告ぐる職掌のように解されているが、神主は即ち<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カンザネ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、大昔は此の職掌は専ら巫女が当ったもので、神主は活ける神として、是等巫女の上に臨み、殆んど絶対の神権を有していたのである。既述した諏訪神社の大祝や、出雲の両国造や、大三島神社の神主などが、明治期になるまで、特殊の地位を占めていたのは、此の古俗を遺したものなのである。而して此の現神である神主と、その神主に奉仕した巫女との間に生れた子が即ち御子神なのである。
現今でこそ、神主といえば、神と人との間に介在して、神の意を人に伝え、又は人の請を神に告ぐる職掌のように解されているが、神主は即ち<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カンザネ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、大昔は此の職掌は専ら巫女が当ったもので、神主は活ける神として、是等巫女の上に臨み、殆んど絶対の神権を有していたのである。既述した諏訪神社の大祝や、出雲の両国造や、大三島神社の神主などが、明治期になるまで、特殊の地位を占めていたのは、此の古俗を遺したものなのである。而して此の現神である神主と、その神主に奉仕した巫女との間に生れた子が即ち御子神なのである。


後世になると、此の御子神を「若宮」と称する様になったが、それでも若宮の名が「延喜式」臨時祭の条に見えている故、此の称も相応に古い事が知られる。然るに中古になると、此の信仰が泯びて了ったので、若宮を有している神社では、これを常識化し、合理化するに種々なる苦心を重ねて、その破綻を防がんと試みている。春日神社の若宮は最も著名な神であるが、これが出現に就いては、「大和志料」巻上に、旧神主千鳥家所蔵の古記録を引用して、
後世になると、此の御子神を「若宮」と称する様になったが、それでも若宮の名が「延喜式」臨時祭の条に見えている故、此の称も相応に古い事が知られる。然るに中古になると、此の信仰が泯びて了ったので、若宮を有している神社では、これを常識化し、合理化するに種々なる苦心を重ねて、その破綻を防がんと試みている。春日神社の若宮は最も著名な神であるが、これが出現に就いては、「大和志料」巻上に、旧神主千鳥家所蔵の古記録を引用して、


: 長保五年三月三日巳時、従第四殿板敷、<ruby><rb>心太</rb><rp>(</rp><rt>ココロブト</rt><rp>)</rp></ruby>様ノ物三升許落つ、暫の程ありて従件物中に、五寸許なる<ruby><rb>□</rb><rp>(</rp><rt>欠字</rt><rp>)</rp></ruby>地出、従乾柱下登入同殿内畢(中略)、即時神宮預是忠奉見記也。
: 長保五年三月三日巳時、従第四殿板敷、<ruby><rb>心太</rb><rp>(</rp><rt>コヽロブト</rt><rp>)</rp></ruby>様ノ物三升許落つ、暫の程ありて従件物中に、五寸許なる<ruby><rb>□</rb><rp>(</rp><rt>欠字</rt><rp>)</rp></ruby>地出、従乾柱下登入同殿内畢(中略)、即時神宮預是忠奉見記也。


とあるのを典拠として〔三〕、これが若宮の出現であると言っているなどは、詭弁この上なしで寧ろ滑稽に感ずるほどである。石清水八幡宮でも、摂社に水若宮(本宮の東方、若宮殿の南に在る)というのがあるのを、無理に史実に合うように解釈せんとて、これの祭神を菟道稚郎子としているが〔四〕、水若宮とは、常識的にいえば、流産した水子のことであるから、これでは却って史実に遠ざかることになるのである。我国の御子神——及び若宮の出現は、さる廻りくどい解釈をせずとも、古き信仰さえ知れば、容易に合点される問題であると同時に、又かくの如く解釈するのが最も妥当であって、そうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十余苗裔の御子神の由来や、熊野神の九十九王子の信仰なども、遂に不明となってしまうのである。
とあるのを典拠として〔三〕、これが若宮の出現であると言っているなどは、詭弁この上なしで寧ろ滑稽に感ずるほどである。石清水八幡宮でも、摂社に水若宮(本宮の東方、若宮殿の南に在る)というのがあるのを、無理に史実に合うように解釈せんとて、これの祭神を菟道稚郎子としているが〔四〕、水若宮とは、常識的にいえば、流産した水子のことであるから、これでは却って史実に遠ざかることになるのである。我国の御子神——及び若宮の出現は、さる廻りくどい解釈をせずとも、古き信仰さえ知れば、容易に合点される問題であると同時に、又かくの如く解釈するのが最も妥当であって、そうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十余苗裔の御子神の由来や、熊野神の九十九王子の信仰なども、遂に不明となってしまうのである。


而して是等の巫女——即ち御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云う)と称して特に崇敬を受け、往々神として祭られたものであって、前に載せた<ruby><rb>巫女神</rb><rp>(</rp><rt>ミコガミ</rt><rp>)</rp></ruby>のうちの幾柱かは、蓋しそれに相当しているのである。更に紀州海草郡宮村の官幣大社日前国県神社には、古くから人母と称する上﨟が、二人づつ神官として仕えていた〔五〕。土佐国長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも<ruby><rb>性神</rb><rp>(</rp><rt>セックス・ゴッド</rt><rp>)</rp></ruby>として知られているが〔六〕、これも神に仕えた巫女を祭ったものであろう。筑前福岡市西町の島飼八幡宮では中央に八幡大神を、左方に宝満大神、右方に聖母大神を祭っている〔七〕。九州には聖母大神、又は聖母屋敷と称するものが各地に存しているが、是等は古く神母としての巫女に由縁のあった神々であり、土地であったに違いない。遠江国磐田郡佐久間村大字半場小字神妻に郷社神妻神社というのがある。社記によると、昔一人の巫女が神を生んだが、その神が神妻社の祭神となったので、神の母なりとて同社の傍に墳墓がある〔八〕。肥後国鹿本郡吉松村大字船島の菅牟田神は、元は阿蘇大神の妾であったが、正妻の嫉妬のために、神となっても阿蘇山の見えぬ処に宮造りをするそうだが〔九〕、これも神母のそれと見て差支ないようである。前に巫女神の一例として挙げた、紀州海草郡東山東村大字平尾の都麻都比売命神社は、土人の伝えには、此の神は同郡の古社である、伊太祁曾神社の妻女であるので、一切の神事は、伊太祁曾社の社人が勤めることになっているというが〔一〇〕、恐らくこれも巫女が神妻となったものと考うべきである。
而して是等の巫女——即ち御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云う)と称して特に崇敬を受け、往往神として祭られたものであって、前に載せた<ruby><rb>巫女神</rb><rp>(</rp><rt>ミコガミ</rt><rp>)</rp></ruby>のうちの幾柱かは、蓋しそれに相当しているのである。更に紀州海草郡宮村の官幣大社日前国県神社には、古くから人母と称する上﨟が、二人づつ神官として仕えていた〔五〕。土佐国長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも<ruby><rb>性神</rb><rp>(</rp><rt>セックス・ゴッド</rt><rp>)</rp></ruby>として知られているが〔六〕、これも神に仕えた巫女を祭ったものであろう。筑前福岡市西町の島飼八幡宮では中央に八幡大神を、左方に宝満大神、右方に聖母大神を祭っている〔七〕。九州には聖母大神、又は聖母屋敷と称するものが各地に存しているが、是等は古く神母としての巫女に由縁のあった神々であり、土地であったに違いない。遠江国磐田郡佐久間村大字半場小字神妻に郷社神妻神社というのがある。社記によると、昔一人の巫女が神を生んだが、その神が神妻社の祭神となったので、神の母なりとて同社の傍に墳墓がある〔八〕。肥後国鹿本郡吉松村大字船島の菅牟田神は、元は阿蘇大神の妾であったが、正妻の嫉妬のために、神となっても阿蘇山の見えぬ処に宮造りをするそうだが〔九〕、これも神母のそれと見て差支ないようである。前に巫女神の一例として挙げた、紀州海草郡東山東村大字平尾の都麻都比売命神社は、土人の伝えには、此の神は同郡の古社である、伊太祁曾神社の妻女であるので、一切の神事は、伊太祁曾社の社人が勤めることになっているというが〔一〇〕、恐らくこれも巫女が神妻となったものと考うべきである。


更に柳田国男先生の研究によると、<ruby><rb>民間伝承</rb><rp>(</rp><rt>フォークロア</rt><rp>)</rp></ruby>として最も豊産なる<ruby><rb>人聞</rb><rp>(</rp><rt>ジンモン</rt><rp>)</rp></ruby>菩薩は、この人母又は神母と関係あるかも知れぬと云う事である〔一一〕。「三代実録」元慶四年三月二十二日に正六位上を授けられた筑前国の託神咩神の如きも、その神名から推すも巫女神であって、然も神母ではなかったかと思われるのである。前引の「万葉集」巻二に『玉かつら実ならぬ樹には千早振る、神ぞ<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>くちふならぬ樹毎に』とあるのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じたものであるが、然もその由って来たる所は、神主と巫女との関係が、その基調となっていたのである。
更に柳田国男先生の研究によると、<ruby><rb>民間伝承</rb><rp>(</rp><rt>フォークロア</rt><rp>)</rp></ruby>として最も豊産なる<ruby><rb>人聞</rb><rp>(</rp><rt>ジンモン</rt><rp>)</rp></ruby>菩薩は、この人母又は神母と関係あるかも知れぬと云う事である〔一一〕。「三代実録」元慶四年三月二十二日に正六位上を授けられた筑前国の託神咩神の如きも、その神名から推すも巫女神であって、然も神母ではなかったかと思われるのである。前引の「万葉集」巻二に『玉かつら実ならぬ樹には千早振る、神ぞ<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>くちふならぬ樹毎に』とあるのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じたものであるが、然もその由って来たる所は、神主と巫女との関係が、その基調となっていたのである。
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