日本巫女史/第二篇/第三章/第五節」を編集中

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神社の恒例祭に遊女が参加し、又は遊女が祭礼の中心となる民俗は、各地に亘り、相当の数に達している。前掲の琉球のズリ馬は、遊女が祭儀の中心となっているだけに大掛りであって、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓内の名妓は、定まれる式服を纏い、派手やかな色布で鉢巻をなし、木で作った馬の首に紅白(今は模様物)等の縮緬の手綱をつけ、それを前帯に挟み、両手に手綱をとって、廓内を練り歩くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと伝えられるだけに、祭礼には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謡い、笛太鼓を鳴らして、町中を廻ったものである〔三一〕。摂津の住吉神社では、毎年二回づつ、卯ノ葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として参加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女となって参加し、昭和の現代でもそれが懈怠なく行われている〔三二〕。下ノ関の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈従した女性が生活に窮し遊女となったというので参拝供奉するのは有名な事である〔三三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合両町の遊女が、毎年交代で参加する〔三四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎えにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏したものである〔三五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は毎年元朝に打揃うて浅間神社に参詣することになっていた〔三六〕。
神社の恒例祭に遊女が参加し、又は遊女が祭礼の中心となる民俗は、各地に亘り、相当の数に達している。前掲の琉球のズリ馬は、遊女が祭儀の中心となっているだけに大掛りであって、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓内の名妓は、定まれる式服を纏い、派手やかな色布で鉢巻をなし、木で作った馬の首に紅白(今は模様物)等の縮緬の手綱をつけ、それを前帯に挟み、両手に手綱をとって、廓内を練り歩くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと伝えられるだけに、祭礼には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謡い、笛太鼓を鳴らして、町中を廻ったものである〔三一〕。摂津の住吉神社では、毎年二回づつ、卯ノ葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として参加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女となって参加し、昭和の現代でもそれが懈怠なく行われている〔三二〕。下ノ関の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈従した女性が生活に窮し遊女となったというので参拝供奉するのは有名な事である〔三三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合両町の遊女が、毎年交代で参加する〔三四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎えにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏したものである〔三五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は毎年元朝に打揃うて浅間神社に参詣することになっていた〔三六〕。


而して是等は悉く当時の名神大社であって、現今でも官国幣社として国民の崇敬を集めているのであるが、此の他の名もなき叢祠藪神の祭儀にも、遊女の参加した例は決して尠くない。備中国浅口郡玉嶋町の天神祭には、芸娼妓が盛装を凝らし多くの船に乗込んで、神輿船に従い、海上を漕ぎ廻り、大騒ぎをする〔三七〕。遠江国磐田郡見付町は、明治以前には売女が二百人余りいて、毎年旧二月初午には同郡中泉町御陣屋の稲荷祭に美服を纏い、参詣するのを恒としていた〔三八〕。陸中国紫波郡見前村大字津田志町の大国神社は、同町の総鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が参拝に来て、振袖の色を争い同音に弾き立てる三絃の音に、信徒の心を狂わせたとある〔三九〕。更に奇抜なのは羽後国山本郡能代町で、毎年旧三月四日に遊女調べを行うが、その場所は同町の氏神住吉社の長床と定まっている。然も当日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床にこぼれるほど集めて盛宴を張った〔四〇〕。遊女の点呼を神社で行うとは、遊女が祭礼に参加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更にこれより奇態な事があるかも知れぬ。併しかかる事を書き出すと、際限がないので大抵にするが、兎に角に遊女屋を氏子に有していた神社ならば、其総てが祭礼に遊女の艶容を見たといっても差支えない程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行う八十嶋祭にも、遊女に纏頭を与えるのが恒例となっていたのであるから〔四一〕、祭礼と遊女の関係は古くもあり、且つ親しくもあったことが知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の発生が神社に交渉ある巫娼にあったためである。
而して是等は悉く当時の名神大社であって、現今でも官国幣社として国民の崇敬を集めているのであるが、此の他の名もなき叢祠藪神の祭儀にも、遊女の参加した例は決して尠くない。備中国浅口郡玉嶋町の天神祭には、芸娼妓が盛装を凝らし多くの船に乗込んで、神輿船に従い、海上を漕ぎ廻り、大騒ぎをする〔三七〕。遠江国磐田郡見付町は、明治以前には売女が二百人余りいて、毎年旧二月初午には同郡中泉町御陣屋の稲荷祭に美服を纏い、参詣するのを恒としていた〔三八〕。陸中国紫波郡見前村大字津田志町の大国神社は、同町の総鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が参詣に来て、振袖の色を争い同音に弾き立てる三絃の音に、信徒の心を狂わせたとある〔三九〕。更に奇抜なのは羽後国山本郡能代町で、毎年旧三月四日に遊女調べを行うが、その場所は同町の氏神住吉社の長床と定まっている。然も当日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床にこぼれるほど集めて盛宴を張った〔四〇〕。遊女の点呼を神社で行うとは、遊女が祭礼に参加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更にこれより奇態な事があるかも知れぬ。併しかかる事を書き出すと、際限がないので大抵にするが、兎に角に遊女屋を氏子に有していた神社ならば、其総てが祭礼に遊女の艶容を見たといっても差支えない程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行う八十嶋祭にも、遊女に纏頭を与えるのが恒例となっていたのであるから〔四一〕、祭礼と遊女の関係は古くもあり、且つ親しくもあったことが知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の発生が神社に交渉ある巫娼にあったためである。


'''七 神に祭られた巫娼と遊女'''
'''七 神に祭られた巫娼と遊女'''
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