日本巫女史/第二篇/第三章/第五節」を編集中

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更に換言すれば、古代の女性はその悉くが殆んど巫女的生活を送っていたことは既述した。それと同時に、我国の巫女の起原が、此の家族的巫女にあることも、是れ又た既載した。而して後世の伝説ではあるが、神の使の<ruby><rb>標</rb><rp>(</rp><rt>シルシ</rt><rp>)</rp></ruby>である白羽の矢が家の棟に立ち、その家の女子が、人身御供にあがるという思想の最初の相が、此の一夜妻であったのである。伝説の通俗化は、我国の「<ruby><rb>生</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>け<ruby><rb>贄</rb><rp>(</rp><rt>ニエ</rt><rp>)</rp></ruby>」と、支那の「犠牲」とを混同させ〔二〕、人身御供といえば、邪神か悪神のために、忽ち餌食として、取り殺されるように盲信させてしまったが、古き人身御供のうちには、単なる神寵であって一時的の神妻であり、神ノ<ruby><rb>采女</rb><rp>(</rp><rt>ウネメ</rt><rp>)</rp></ruby>に過ぎなかったものの在ることを知らねばならぬ。これが一夜妻の正しい解釈であって、然もこれを勤めたのが、私の謂うところの家族的巫女なのである。
更に換言すれば、古代の女性はその悉くが殆んど巫女的生活を送っていたことは既述した。それと同時に、我国の巫女の起原が、此の家族的巫女にあることも、是れ又た既載した。而して後世の伝説ではあるが、神の使の<ruby><rb>標</rb><rp>(</rp><rt>シルシ</rt><rp>)</rp></ruby>である白羽の矢が家の棟に立ち、その家の女子が、人身御供にあがるという思想の最初の相が、此の一夜妻であったのである。伝説の通俗化は、我国の「<ruby><rb>生</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>け<ruby><rb>贄</rb><rp>(</rp><rt>ニエ</rt><rp>)</rp></ruby>」と、支那の「犠牲」とを混同させ〔二〕、人身御供といえば、邪神か悪神のために、忽ち餌食として、取り殺されるように盲信させてしまったが、古き人身御供のうちには、単なる神寵であって一時的の神妻であり、神ノ<ruby><rb>采女</rb><rp>(</rp><rt>ウネメ</rt><rp>)</rp></ruby>に過ぎなかったものの在ることを知らねばならぬ。これが一夜妻の正しい解釈であって、然もこれを勤めたのが、私の謂うところの家族的巫女なのである。


そして私の此の解釈が、我が古代の実状であったことを裏書きする証左として想い起されるものは、各地の神社の祭儀に、一時女臈(一夜官女とも云う)と称する女性が参加することと、併せて一夜妻となり得べき——即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存していたことである。茲には、例の如く、僅に一二を挙げるにとどめて置くが、摂津国西成郡歌嶋村大字野里の氏神祭には、毎年、宮座二十四軒のうちから〔三〕、六名の少女を選み出し、これを一夜官女と名づけ、<ruby><rb>夏越桶</rb><rp>(</rp><rt>ゲコシオケ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する飯櫃様(既述した洛西七条のオヤセの頂くユリと同じようなもの)の物を供の者に持たせ、夜中に参拝するのを古式とした〔四〕。前掲の摂津国兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「おかしの宮」と云うが、同社の例祭には、祭主となる村男が、その年に村内へ嫁した新婦の衣裳を着て、一時女臈というを勤める。その折に氏子が大勢集って手を叩きながら『一時女臈、アアおかし』と囃し立てるので、此の名があると云う〔五〕。常陸国西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被って参列するが、その鍋の数は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した数だけ被るのである〔六〕。摂津国豊能郡中豊島村大字長興寺の氏神祭にも、その年に此の村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて参列する役目を負わされていた〔七〕。而してこれ等の記事を親切に読まれた方ならば、私が改めて説明するまでもなく、これ等の祭儀に参加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であったことを既に気付かれたことと思う。それと同時に、男子が花嫁の衣装を着けて代って勤めることが、此の最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であって、且つ飯櫃様の物が後に鍋に代ったことも、併せて気付かれたに相違ない。然らば、その神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度はそれに就いて説明すべき順序となった。
そして私の此の解釈が、我が古代の実状であったことを裏書きする証左として想い起されるものは、各地の神社の祭儀に、一時女臈(一夜官女とも云う)と称する女性が参加することと、併せて一夜妻となり得べき——即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存していたことである。茲には、例の如く、僅に一二を挙げるにとどめて置くが、摂津国西成郡歌嶋村大字野里の氏神祭には、毎年、宮座二十四軒のうちから〔三〕、六名の少女を選み出し、これを一夜官女と名づけ、<ruby><rb>夏越桶</rb><rp>(</rp><rt>ゲコシオケ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する飯櫃様(既述した洛西七条のオヤセの頂くユリと同じようなもの)の物を供の者に持たせ、夜中に参拝するのを古式とした〔四〕。前掲の摂津国兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「おかしの宮」と云うが、同社の例祭には、祭主となる村男が、その年に村内へ嫁した新婦の衣裳を着て、一時女臈というを勤める。その折に氏子が大勢集って手を叩きながら『一時女臈、アヽおかし』と囃し立てるので、此の名があると云う〔五〕。常陸国西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被って参列するが、その鍋の数は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した数だけ被るのである〔六〕。摂津国豊能郡中豊島村大字長興寺の氏神祭にも、その年に此の村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて参列する役目を負わされていた〔七〕。而してこれ等の記事を親切に読まれた方ならば、私が改めて説明するまでもなく、これ等の祭儀に参加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であったことを既に気付かれたことと思う。それと同時に、男子が花嫁の衣装を着けて代って勤めることが、此の最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であって、且つ飯櫃様の物が後に鍋に代ったことも、併せて気付かれたに相違ない。然らば、その神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度はそれに就いて説明すべき順序となった。


琉球の久高嶋では、十二年目毎にイザイホウと称して、島中の処女をカミアシャゲ(神事を行う斎場)に集め、その庭に、高さ二尺ほど、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋のようなものを作り、処女をしてそれを一人一人と渡らせる儀式を行う。然るに、同嶋古来の信仰として、一度でも異性に許したことのある女子は、此の橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと伝えられているので、身に暗いところを有っている女子は、その以前に姿を隠くしてしまう(これは女子としては最上の不名誉であって、此の者は島内では結婚する資格の無いものとされている)か、又はその暗いところを押しかくして出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺ほどの橋から(然も下は平地である)落ちて、気死する者さえあるということである〔八〕。而して、此のイザイホウなるものが、処女であるか否か——即ち神寵を受くべき資格があるか否かの、試験であることは言うまでもない。此の試験を無事に通過して、始めて<ruby><rb>神人</rb><rp>(</rp><rt>カミンチュ</rt><rp>)</rp></ruby>(内地の家族的巫女と同じ意である)となることを許されるのである。だから、此の橋が滞りなく渡り得られたということは、久高島の女性にとっては、社会的にも、信仰的にも、深い意義が含まれていたのである。
琉球の久高嶋では、十二年目毎にイザイホウと称して、島中の処女をカミアシャゲ(神事を行う斎場)に集め、その庭に、高さ二尺ほど、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋のようなものを作り、処女をしてそれを一人一人と渡らせる儀式を行う。然るに、同嶋古来の信仰として、一度でも異性に許したことのある女子は、此の橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと伝えられているので、身に暗いところを有っている女子は、その以前に姿を隠くしてしまう(これは女子としては最上の不名誉であって、此の者は島内では結婚する資格の無いものとされている)か、又はその暗いところを押しかくして出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺ほどの橋から(然も下は平地である)落ちて、気死する者さえあるということである〔八〕。而して、此のイザイホウなるものが、処女であるか否か——即ち神寵を受くべき資格があるか否かの、試験であることは言うまでもない。此の試験を無事に通過して、始めて<ruby><rb>神人</rb><rp>(</rp><rt>カミンチュ</rt><rp>)</rp></ruby>(内地の家族的巫女と同じ意である)となることを許されるのである。だから、此の橋が滞りなく渡り得られたということは、久高島の女性にとっては、社会的にも、信仰的にも、深い意義が含まれていたのである。
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