日本巫女史/第二篇/第三章/第五節」を編集中

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'''一 巫娼の宗家であった猨女君'''
'''一 巫娼の宗家であった猨女君'''


我国における売笑の起原を説くことは簡単には往かぬが〔一一〕、巫娼がその先駆者であったことだけは明白である。而して此の巫娼の宗家は<ruby><rb>猨女君</rb><rp>(</rp><rt>サルメノキミ</rt><rp>)</rp></ruby>であった。猨女の出自や、職掌に就いては、屡記したので再び言わぬが、猨女の名が職業上から常に戯謔を敢てしたところから、ジャレメ——即ち戯れ女から負うたことを知るとき〔一二〕、更に現時でも用いているオシャレと云うのは、遊里に縁のある語で、娼婦をオシャレ、又はオシャラクと呼んでいたところの尠くないことを併せ考えると〔一三〕、猿女君と巫娼との関係は決して浅いものではなかったのである。源順の「和名抄」に、巫覡を乞盗部に載せ、遊女と同列に見たことは、当時の性的生活の反面が窺われ、「新撰字鏡」に『{女偏茇}、妭、魃』の三字を挙げ、共に『巧也、治也、遊也、<ruby><rb>加牟奈支</rb><rp>(</rp><rt>カムナギ</rt><rp>)</rp></ruby>』なりと記し、「倭訓栞」に『<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>、神和の義なり(中略)、県巫女は娼婦を兼ねたり』とあるのや、「風来六部集」に娼女の異名を列ねたうちに『長崎にてはハイハチ』とあるのを、「賤者考」の『関西にて巫女をハイチと云う』とあるに対照すると、両語原が同一であって、然も巫娼の意であることが、容易に看取される。「中右記」元永二年九月三日の条に、神崎の遊女小最の名が見えているが、柳田国男先生によれば、これはコサイと訓み、小道祖の義であって〔一四〕、神名を用いたところから推すも、古い巫娼に縁を引いていることは疑いない。「日吉神道秘密記」に『令託<ruby><rb>寄妓</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>御歌』と端書して『ここに来てここにありとは思へども、目に見ぬほどぞ恋しかりける』とあるのも、前に載せた「将門記」の巫倡と同じく、倡や妓の字に曰くがありそうに思われるし、陸中国稗貫郡地方では、巫女をクグツ(傀儡女が娼婦であったことは明確である)と称したこと〔一五〕、及び近年まで箱根その他の修験派の道場においては、山伏の女房は凡て比丘尼と称して即ち巫女であり、然もその巫女の最下級者は倡を兼ねていたことを想い合せると〔一六〕、巫女が娼妓となったことも古いことで、且つそれが広く行われていたことが知られるのである。而して江戸期における巫女の大半までは、表芸の呪術よりは、裏芸の売笑で繁昌したのも、又遠い夤縁から来ているのである。
我国における売笑の起原を説くことは簡単には往かぬが〔一一〕、巫娼がその先駆者であったことだけは明白である。而して此の巫娼の宗家は<ruby><rb>猨女君</rb><rp>(</rp><rt>サルメノキミ</rt><rp>)</rp></ruby>であった。猨女の出自や、職掌に就いては、屡記したので再び言わぬが、猨女の名が職業上から常に戯謔を敢てしたところから、ジャレメ——即ち戯れ女から負うたことを知るとき〔一二〕、更に現時でも用いているオシャレと云うのは、遊里に縁のある語で、娼婦をオシャレ、又はオシャラクと呼んでいたところの尠くないことを併せ考えると〔一三〕、猿女君と巫娼との関係は決して浅いものではなかったのである。源順の「和名抄」に、巫覡を乞盗部に載せ、遊女と同列に見たことは、当時の性的生活の反面が窺われ、「新撰字鏡」に『{女偏茇}、{女偏犮}、魃』の三字を挙げ、共に『巧也、治也、遊也、<ruby><rb>加牟奈支</rb><rp>(</rp><rt>カムナギ</rt><rp>)</rp></ruby>』なりと記し、「倭訓栞」に『<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>、神和の義なり(中略)、県巫女は娼婦を兼ねたり』とあるのや、「風来六部集」に娼女の異名を列ねたうちに『長崎にてはハイハチ』とあるのを、「賎者考」の『関西にて巫女をハイチと云う』とあるに対照すると、両語原が同一であって、然も巫娼の意であることが、容易に看取される。「中右記」元永二年九月三日の条に、神崎の遊女小最の名が見えているが、柳田国男先生によれば、これはコサイと訓み、小道祖の義であって〔一四〕、神名を用いたところから推すも、古い巫娼に縁を引いていることは疑いない。「日吉神道秘密記」に『令託<ruby><rb>寄妓</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>御歌』と端書して『ここに来てここにありとは思へども、目に見ぬほどぞ恋しかりける』とあるのも、前に載せた「将門記」の巫倡と同じく、倡や妓の字に曰くがありそうに思われるし、陸中国稗貫郡地方では、巫女をクグツ(傀儡女が娼婦であったことは明確である)と称したこと〔一五〕、及び近年まで箱根その他の修験派の道場においては、山伏の女房は凡て比丘尼と称して即ち巫女であり、然もその巫女の最下級者は倡を兼ねていたことを想い合せると〔一六〕、巫女が娼妓となったことも古いことで、且つそれが広く行われていたことが知られるのである。而して江戸期における巫女の大半までは、表芸の呪術よりは、裏芸の売笑で繁昌したのも、又遠い夤縁から来ているのである。


'''二 浮世の果は皆小町の采女達'''
'''二 浮世の果は皆小町の采女達'''
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[[画像:ズリ一.gif|thumb|祭服を纏いし琉球のズリ(一)]]
[[画像:ズリ一.gif|thumb|祭服を纏いし琉球のズリ(一)]]
[[画像:ズリ二.gif|thumb|left|祭服を纏いし琉球のズリ(二)]]
神社は国家の宗祀であって、然も国民崇敬の対象であるという、現在の神社観から云えば、不浄であり、不倫である遊郭が、神社を中心として発達したとは、誠に以て言語道断の事であるが、併し、民俗神道学の立場から見れば、既に神社に仕えた巫女——若しくは神社を放れた巫女が、娼婦の先駆者となっているのであるから、各地の遊郭が神社を目安として発達し繁昌したのは、寧ろ当然の結果とも云えるのである。
神社は国家の宗祀であって、然も国民崇敬の対象であるという、現在の神社観から云えば、不浄であり、不倫である遊郭が、神社を中心として発達したとは、誠に以て言語道断の事であるが、併し、民俗神道学の立場から見れば、既に神社に仕えた巫女——若しくは神社を放れた巫女が、娼婦の先駆者となっているのであるから、各地の遊郭が神社を目安として発達し繁昌したのは、寧ろ当然の結果とも云えるのである。


[[画像:ズリ二.gif|thumb|祭服を纏いし琉球のズリ(二)]]
伊勢の古市の娼婦の発生を説くに、御子良の堕落せるものが相集りしに初まると云う者があるも、私は此の説に容易に賛成することが出来ぬ。寡見の及ぶかぎりでは、斯かる事を考えさせる記録に接しぬからである。併しながら、古市が参宮道者の攀花折柳に、都合よく設備されていたのは大昔からのことで、全国に亘り『夫婦連れで参宮したのでは御利益が薄い』という俚諺が行われていた裏面には、道者は必ず古市で剪紅摘緑の遊びをしなければならぬように仕向けられていたのである。私の生れた南下野地方では、昔は伊勢参宮を殊の外手重いものとし、参宮するとその者の生涯の運が極まると称して、五十歳以上にならなければ参宮せぬ習いとなっていた。現に私の父も五十三歳で参宮したが、私なども此の潜在意識が活いて今に参宮した事がない。その癖、伊勢へは幾度となく旅行して、宇治山田へも往ったこともあるが、態々参宮だけは差控えている有様である〔三〇〕。而して此の五十を越してからの参宮という事情は、古市の梅毒を非常に恐れたからであって、参宮して発病した梅毒は、伊勢の水で治療しなければ全治せぬという迷信が伴い、それが為めに思慮の定まった知命以上を条件としたものと思う。古い俚謡に『伊勢の古市女郎衆の名所、戻らしゃんせよ迷はずに』とあるのも、更に昔の川柳点に『伊勢まゐり太神宮へも寄って来る』とあるのも、共に此の間の消息を伝えたものである。
伊勢の古市の娼婦の発生を説くに、御子良の堕落せるものが相集りしに初まると云う者があるも、私は此の説に容易に賛成することが出来ぬ。寡見の及ぶかぎりでは、斯かる事を考えさせる記録に接しぬからである。併しながら、古市が参宮道者の攀花折柳に、都合よく設備されていたのは大昔からのことで、全国に亘り『夫婦連れで参宮したのでは御利益が薄い』という俚諺が行われていた裏面には、道者は必ず古市で剪紅摘緑の遊びをしなければならぬように仕向けられていたのである。私の生れた南下野地方では、昔は伊勢参宮を殊の外手重いものとし、参宮するとその者の生涯の運が極まると称して、五十歳以上にならなければ参宮せぬ習いとなっていた。現に私の父も五十三歳で参宮したが、私なども此の潜在意識が活いて今に参宮した事がない。その癖、伊勢へは幾度となく旅行して、宇治山田へも往ったこともあるが、態々参宮だけは差控えている有様である〔三〇〕。而して此の五十を越してからの参宮という事情は、古市の梅毒を非常に恐れたからであって、参宮して発病した梅毒は、伊勢の水で治療しなければ全治せぬという迷信が伴い、それが為めに思慮の定まった知命以上を条件としたものと思う。古い俚謡に『伊勢の古市女郎衆の名所、戻らしゃんせよ迷はずに』とあるのも、更に昔の川柳点に『伊勢まゐり太神宮へも寄って来る』とあるのも、共に此の間の消息を伝えたものである。


[[画像:美保社.gif|thumb|出雲国美保神社の蒼柴籬神社の行粧(三人目の披衣せるは巫女で古代航海の守護者なり)]]
古市遊郭が既にかくの如くであるから、上を見倣う下々にあっては、少しく誇張して云えば、名が聞え徳の高いもので、附近に遊郭を有していぬ神社は無いというも、決して過言ではないのである。ここに四五の例を挙げると、京都に近い伏見市の泥町と、深草の撞木町とは、稲荷と藤ノ森の両者のために発達し、「くらはんか船」で有名な牧方及び橋本の両地と男山八幡宮、奈良の木辻と春日社、摂津住吉社と乳守、広田社と神崎、下ノ関の赤間宮と稲荷町、筑前の筥崎宮と博多柳町、讃州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の柴屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の弥彦神社と寺泊、越前敦賀の気比神宮と六軒町、熱田神宮と宮ノ宿、静岡市の浅間神社と弥勒町、伊豆の三嶋神社と三嶋女郎衆、常陸の鹿島社と潮来の遊郭、武蔵府中の国魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の塩釜神社と門前の遊郭などを重なるものとして、殆んど枚挙に遑あらずという多数である。就中、珍重すべきは筑波神社を祭れる筑波山の半腹と、安芸の厳島の孤嶋に遊里の営まれていることである。これ等は神社に参拝するために赴くのか、遊女を買わんがために往くのか、恐らくは信心と道楽とを兼ねていたのであろうが、蓋しその関係は、歴史的にいえば、太古から伝統的に残されていたのである。「梁塵秘抄」に、
古市遊郭が既にかくの如くであるから、上を見倣う下々にあっては、少しく誇張して云えば、名が聞え徳の高いもので、附近に遊郭を有していぬ神社は無いというも、決して過言ではないのである。ここに四五の例を挙げると、京都に近い伏見市の泥町と、深草の撞木町とは、稲荷と藤ノ森の両者のために発達し、「くらわんか船」で有名な牧方及び橋本の両地と男山八幡宮、奈良の木辻と春日社、摂津住吉社と乳守、広田社と神崎、下ノ関の赤間宮と稲荷町、筑前の筥崎宮と博多柳町、讃州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の柴屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の弥彦神社と寺泊、越前敦賀の気比神宮と六軒町、熱田神宮と宮ノ宿、静岡市の浅間神社と弥勒町、伊豆の三嶋神社と三嶋女郎衆、常陸の鹿嶋社と潮来の遊郭、武蔵府中の国魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の塩釜神社と門前の遊郭などを重なるものとして、殆んど枚挙に遑あらずという多数である。就中、珍重すべきは筑波神社を祭れる筑波山の半腹と、安芸の厳島の孤嶋に遊里の営まれていることである。これ等は神社に参拝するために赴くのか、遊女を買わんがために往くのか、恐らくは信心と道楽とを兼ねていたのであろうが、蓋しその関係は、歴史的にいえば、太古から伝統的に残されていたのである。「梁塵秘抄」に、


: 住吉四所のお前には 顔よき女体ぞおはします。
: 住吉四所のお前には 顔よき女体ぞおはします。
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'''六 神社の祭礼に遊女の参加する理由'''
'''六 神社の祭礼に遊女の参加する理由'''


[[画像:赤間宮.gif|thumb|赤間宮へ参拝する遊女の祭儀]]
神社の恒例祭に遊女が参加し、又は遊女が祭礼の中心となる民俗は、各地に亘り、相当の数に達している。前掲の琉球のズリ馬は、遊女が祭儀の中心となっているだけに大掛りであって、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓内の名妓は、定まれる式服を纏い、派手やかな色布で鉢巻をなし、木で作った馬の首に紅白(今は模様物)等の縮緬の手綱をつけ、それを前帯に挟み、両手に手綱をとって、廓内を練り歩くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと伝えられるだけに、祭礼には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謡い、笛太鼓を鳴らして、町中を廻ったものである〔三一〕。摂津の住吉神社では、毎年二回づつ、卯ノ葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として参加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女となって参加し、昭和の現代でもそれが懈怠なく行われている〔三二〕。下ノ関の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈従した女性が生活に窮し遊女となったというので参拝供奉するのは有名な事である〔三三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合両町の遊女が、毎年交代で参加する〔三四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎えにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏したものである〔三五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は毎年元朝に打揃うて浅間神社に参詣することになっていた〔三六〕。
神社の恒例祭に遊女が参加し、又は遊女が祭礼の中心となる民俗は、各地に亘り、相当の数に達している。前掲の琉球のズリ馬は、遊女が祭儀の中心となっているだけに大掛りであって、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓内の名妓は、定まれる式服を纏い、派手やかな色布で鉢巻をなし、木で作った馬の首に紅白(今は模様物)等の縮緬の手綱をつけ、それを前帯に挟み、両手に手綱をとって、廓内を練り歩くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと伝えられるだけに、祭礼には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謡い、笛太鼓を鳴らして、町中を廻ったものである〔三一〕。摂津の住吉神社では、毎年二回づつ、卯ノ葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として参加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女となって参加し、昭和の現代でもそれが懈怠なく行われている〔三二〕。下ノ関の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈従した女性が生活に窮し遊女となったというので参拝供奉するのは有名な事である〔三三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合両町の遊女が、毎年交代で参加する〔三四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎えにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏したものである〔三五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は毎年元朝に打揃うて浅間神社に参詣することになっていた〔三六〕。


而して是等は悉く当時の名神大社であって、現今でも官国幣社として国民の崇敬を集めているのであるが、此の他の名もなき叢祠藪神の祭儀にも、遊女の参加した例は決して尠くない。備中国浅口郡玉嶋町の天神祭には、芸娼妓が盛装を凝らし多くの船に乗込んで、神輿船に従い、海上を漕ぎ廻り、大騒ぎをする〔三七〕。遠江国磐田郡見付町は、明治以前には売女が二百人余りいて、毎年旧二月初午には同郡中泉町御陣屋の稲荷祭に美服を纏い、参詣するのを恒としていた〔三八〕。陸中国紫波郡見前村大字津田志町の大国神社は、同町の総鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が参拝に来て、振袖の色を争い同音に弾き立てる三絃の音に、信徒の心を狂わせたとある〔三九〕。更に奇抜なのは羽後国山本郡能代町で、毎年旧三月四日に遊女調べを行うが、その場所は同町の氏神住吉社の長床と定まっている。然も当日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床にこぼれるほど集めて盛宴を張った〔四〇〕。遊女の点呼を神社で行うとは、遊女が祭礼に参加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更にこれより奇態な事があるかも知れぬ。併しかかる事を書き出すと、際限がないので大抵にするが、兎に角に遊女屋を氏子に有していた神社ならば、其総てが祭礼に遊女の艶容を見たといっても差支えない程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行う八十嶋祭にも、遊女に纏頭を与えるのが恒例となっていたのであるから〔四一〕、祭礼と遊女の関係は古くもあり、且つ親しくもあったことが知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の発生が神社に交渉ある巫娼にあったためである。
而して是等は悉く当時の名神大社であって、現今でも官国幣社として国民の崇敬を集めているのであるが、此の他の名もなき叢祠藪神の祭儀にも、遊女の参加した例は決して尠くない。備中国浅口郡玉嶋町の天神祭には、芸娼妓が盛装を凝らし多くの船に乗込んで、神輿船に従い、海上を漕ぎ廻り、大騒ぎをする〔三七〕。遠江国磐田郡見付町は、明治以前には売女が二百人余りいて、毎年旧二月初午には同郡中泉町御陣屋の稲荷祭に美服を纏い、参詣するのを恒としていた〔三八〕。陸中国紫波郡見前村大字津田志町の大国神社は、同町の総鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が参詣に来て、振袖の色を争い同音に弾き立てる三絃の音に、信徒の心を狂わせたとある〔三九〕。更に奇抜なのは羽後国山本郡能代町で、毎年旧三月四日に遊女調べを行うが、その場所は同町の氏神住吉社の長床と定まっている。然も当日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床にこぼれるほど集めて盛宴を張った〔四〇〕。遊女の点呼を神社で行うとは、遊女が祭礼に参加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更にこれより奇態な事があるかも知れぬ。併しかかる事を書き出すと、際限がないので大抵にするが、兎に角に遊女屋を氏子に有していた神社ならば、其総てが祭礼に遊女の艶容を見たといっても差支えない程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行う八十嶋祭にも、遊女に纏頭を与えるのが恒例となっていたのであるから〔四一〕、祭礼と遊女の関係は古くもあり、且つ親しくもあったことが知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の発生が神社に交渉ある巫娼にあったためである。


'''七 神に祭られた巫娼と遊女'''
'''七 神に祭られた巫娼と遊女'''
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; 〔註一九〕 : 「雄略紀」に「遣凡河内直香賜与采女、祠胸方神、香賜与采女既至壇所、及将行事奸其采女云々」。
; 〔註一九〕 : 「雄略紀」に「遣凡河内直香賜与采女、祠胸方神、香賜与采女既至壇所、及将行事奸其采女云々」。
; 〔註二〇〕 : 「大和物語」その他にもある有名な話である。
; 〔註二〇〕 : 「大和物語」その他にもある有名な話である。
; 〔註二一〕 : 「万葉集」巻九に載せた上総の末の珠名郎子がそれである。こは、本居内遠の「賤者考」に考証してある。
; 〔註二一〕 : 「万葉集」巻九に載せた上総の末の珠名郎子がそれである。こは、本居内遠の「賎者考」に考証してある。
; 〔註二二〕 : 是等の婚姻の種々相に就いては、前掲の「日本婚姻史」に尽して置いた。
; 〔註二二〕 : 是等の婚姻の種々相に就いては、前掲の「日本婚姻史」に尽して置いた。
; 〔註二三〕 : 天明四年九月に記した菅江真澄翁の「齶田濃刈寐」に拠る。
; 〔註二三〕 : 天明四年九月に記した菅江真澄翁の「齶田濃刈寐」に拠る。
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