日本巫女史/第二篇/第二章/第一節」を編集中

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: 石見国邑智郡高原村大字原村の氏神社では、例祭の折に「<ruby><rb>託舞</rb><rp>(</rp><rt>タクマイ</rt><rp>)</rp></ruby>」という神楽が行われる。託とは神託のことで、一人の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。審神は既記の如く神意を判ずる者であるから、此の場合は憑座とか幣持とか云うのが穏当であるが、今は原文に従うとした)を立て、神おろしをなし、種々の問答を試みるのである。託太夫、即ち審神となる神職は、自然世襲の有様で、又それに属する<ruby><rb>腰抱</rb><rp>(</rp><rt>コシダ</rt><rp>)</rp></ruby>きという役もあるが、これも亦た世襲の姿であった。託舞の設備としては、大きな注連縄の端を龍頭に似せて造ったものを、神前の左右の柱から相対する方面の柱に引渡す。深更の刻、審神者を上座とし、多数の神官その縄に取付き、幣を持ち、歌をうたい、祝詞を読む。そうすると、暫時にして、審神者に顔色変り、大声を発して、村の某は云々の罪悪がある。某は不信者、本年某の方面に火災があるなど口走り、又た祭主たる神職と種々の問答をする事もある。時によっては神怒を発し、太刀を抜いて荒れ廻り、或は桟敷に飛び込み、怪我人を生ずる事もある。その時腰抱きなる者がこれを抱き鎮める。自分(即ち竹崎翁、因に云うが翁は神職である)は三四度その席に列した事があるが、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>も余りの恐しさに、片隅に打伏していた(以上摘要)。
: 石見国邑智郡高原村大字原村の氏神社では、例祭の折に「<ruby><rb>託舞</rb><rp>(</rp><rt>タクマイ</rt><rp>)</rp></ruby>」という神楽が行われる。託とは神託のことで、一人の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。審神は既記の如く神意を判ずる者であるから、此の場合は憑座とか幣持とか云うのが穏当であるが、今は原文に従うとした)を立て、神おろしをなし、種々の問答を試みるのである。託太夫、即ち審神となる神職は、自然世襲の有様で、又それに属する<ruby><rb>腰抱</rb><rp>(</rp><rt>コシダ</rt><rp>)</rp></ruby>きという役もあるが、これも亦た世襲の姿であった。託舞の設備としては、大きな注連縄の端を龍頭に似せて造ったものを、神前の左右の柱から相対する方面の柱に引渡す。深更の刻、審神者を上座とし、多数の神官その縄に取付き、幣を持ち、歌をうたい、祝詞を読む。そうすると、暫時にして、審神者に顔色変り、大声を発して、村の某は云々の罪悪がある。某は不信者、本年某の方面に火災があるなど口走り、又た祭主たる神職と種々の問答をする事もある。時によっては神怒を発し、太刀を抜いて荒れ廻り、或は桟敷に飛び込み、怪我人を生ずる事もある。その時腰抱きなる者がこれを抱き鎮める。自分(即ち竹崎翁、因に云うが翁は神職である)は三四度その席に列した事があるが、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>も余りの恐しさに、片隅に打伏していた(以上摘要)。


ここまで記事をすすめて来ると、猶お此の種の行事に類する吉野金峯山の蛙飛び(一人の僧を蛙の如く扮装させ、これを鞍馬寺の如く祈り殺し祈り活す)の神事、奥州羽黒山の<ruby><rb>松聖</rb><rp>(</rp><rt>マツヒジリ</rt><rp>)</rp></ruby>の行事、近江の比良八荒の伝説、尾張国府宮宮で旅人を捕えて気絶させる直会祭、筑前観音寺の同じく旅人を搦めて松葉燻しにする行事や、その他各地の修験者が好んで行うた「笈渡しの神事」まで説明せぬと、些か徹底を欠くように思われるが、それでは余りに長文になるし、まだ此外に子供を憑座とした憑り祈祷も挙げたいとも考えているので、是等は悉く省略に従うこととし、筆路を護因坊に移すとした。而して護因坊に就いては「近江輿地志略」巻二〇に「日吉記」を引用して、下の如く載せてある。
ここまで記事をすすめて来ると、猶お此の種の行事に類する吉野金峯山の蛙飛び(一人の僧を蛙の如く扮装させ、これを鞍馬寺の如く祈り殺し祈り活す)の神事、奥州羽黒山の<ruby><rb>漢字</rb><rp>(</rp><rt>かな</rt><rp>)</rp></ruby>松聖の行事、近江の比良八荒の伝説、尾張国府宮宮で旅人を捕えて気絶させる直会祭、筑前観音寺の同じく旅人を搦めて松葉燻しにする行事や、その他各地の修験者が好んで行うた「笈渡しの神事」まで説明せぬと、些か徹底を欠くように思われるが、それでは余りに長文になるし、まだ此外に子供を憑座とした憑り祈祷も挙げたいとも考えているので、是等は悉く省略に従うこととし、筆路を護因坊に移すとした。而して護因坊に就いては「近江輿地志略」巻二〇に「日吉記」を引用して、下の如く載せてある。


: 護因坊、僧形有觜、樹下僧行力巨多也、後身誕生、後二条院勅賜愛智上庄三千石内陣御供料、当社、神位崇敬之社、辻護因坊跡也、奥護因廟所、浄之勝也、内井之護因、比谷川大洪水時、流自大行事迄内井、如此止処建社、号流護因云々(日本地誌大系本)。
: 護因坊、僧形有觜、樹下僧行力巨多也、後身誕生、後二条院勅賜愛智上庄三千石内陣御供料、当社、神位崇敬之社、辻護因坊跡也、奥護因廟所、浄之勝也、内井之護因、比谷川大洪水時、流自大行事迄内井、如此止処建社、号流護因云々(日本地誌大系本)。
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美作の護法実にせよ、鞍馬の護法附にせよ、憑代となる者は、或る限られた人物であったにせよ、それでもまだ私達と同じき横目縦鼻の人間であったが、此の護因坊となると、僧形有觜とある如く、全くの天狗と成り了うせている〔三〕。かく人間から天狗に遷り変って行くところが、やがて修験道が道教や仏教を巧みに取り入れて、民間信仰を支配するに至った過程なのである。而して此の憑り祈祷と同じような目的で、憑座に子供を用いた神事も多数に存しているが、茲には僅に二三だけ挙げるとする。
美作の護法実にせよ、鞍馬の護法附にせよ、憑代となる者は、或る限られた人物であったにせよ、それでもまだ私達と同じき横目縦鼻の人間であったが、此の護因坊となると、僧形有觜とある如く、全くの天狗と成り了うせている〔三〕。かく人間から天狗に遷り変って行くところが、やがて修験道が道教や仏教を巧みに取り入れて、民間信仰を支配するに至った過程なのである。而して此の憑り祈祷と同じような目的で、憑座に子供を用いた神事も多数に存しているが、茲には僅に二三だけ挙げるとする。


岩代国耶麻郡猪苗代町字新町の<ruby><rb>麓山</rb><rp>(</rp><rt>ハヤマ</rt><rp>)</rp></ruby>神社の祭日には、火剣の神事とて、生木を焚いて薪とし、塩を多く振りかけて火をしめし、村民等呪文を唱え、幣帛を振って清め、祈願ある者参詣すれば、火中を渡らせる。又た<ruby><rb>乗童</rb><rp>(</rp><rt>ノリワラ</rt><rp>)</rp></ruby>と号けて、祈願する者の吉凶を託宣する。昔は子供が此の事を行ったが、今では老壮の者が遣るようになった〔四〕。飛騨国益田郡下呂村大字森の八幡宮の例祭は、古風を伝えているが、正月十日に、氏子の中から、十二三歳の子供を集め、神前にて籤を取らせ十人を選み、又その中より一人を選み、禰宜と称し、折烏帽子直垂を着し、神事の祭主とする。祭典の十四日になると、祭主の子供が細き竹を長さ二尺一寸に切り携え、これを<ruby><rb>己以波之</rb><rp>(</rp><rt>コイバシ</rt><rp>)</rp></ruby>と名づけ、祭礼が済むと、此の竹を群集の間に投げる。拾い得たものは嘉瑞とする〔五〕。これは口で言う託宣を竹に代表させたものである。常陸の鹿島神宮で、旧四月九日に行う斎頭祭なども、私が親しく拝観したところによると、左右の大将となる者は子供であって、今では祭神振武の故事を演ずるといっているが、古くは左右の勝敗によって年占を行ったものだと考えられる〔六〕。類例は限りがないから、此の程度にとどめて、今度は此の修験道の憑り祈祷と巫女の呪術との関係に就き一瞥を投ずるとする。
岩代国耶麻郡猪苗代町字新町の<ruby><rb>麓山</rb><rp>(</rp><rt>ハヤマ</rt><rp>)</rp></ruby>神社の祭日には、火剣の神事とて、生木を焚いて薪とし、塩を多く振りかけて火をしめし、村民等呪文を唱え、幣帛を振って清め、祈願ある者参詣すれば、火中を渉らせる。又た<ruby><rb>乗童</rb><rp>(</rp><rt>ノリワラ</rt><rp>)</rp></ruby>と号けて、祈願する者の吉凶を託宣する。昔は子供が此の事を行ったが、今では老壮の者が遣るようになった〔四〕。飛騨国益田郡下呂村大字森の八幡宮の例祭は、古風を伝えているが、正月十日に、氏子の中から、十二三歳の子供を集め、神前にて籤を取らせ十人を選み、又その中より一人を選み、禰宜と称し、折烏帽子直垂を着し、神事の祭主とする。祭典の十四日になると、祭主の子供が細き竹を長さ二尺一寸に切り携え、これを<ruby><rb>己以波之</rb><rp>(</rp><rt>コイバシ</rt><rp>)</rp></ruby>と名づけ、祭礼が済むと、此の竹を群集の間に投げる。拾い得たものは嘉瑞とする〔五〕。これは口で言う託宣を竹に代表させたものである。常陸の鹿島神宮で、旧四月九日に行う斎頭祭なども、私が親しく拝観したところによると、左右の大将となる者は子供であって、今では祭神振武の故事を演ずるといっているが、古くは左右の勝敗によって年占を行ったものだと考えられる〔六〕。類例は限りがないから、此の程度にとどめて、今度は此の修験道の憑り祈祷と巫女の呪術との関係に就き一瞥を投ずるとする。


我国の古代の巫女が、神を己れの身に憑らせて託宣したことは、畏くも既述の神功皇后がその範を示された如く、全く固有の呪法と言うべきものであって、代々の巫女も又この呪法を伝えて変るところが無かったのである。ただそれが、道教が輸入され、仏教が弘通されてからは、巫女も是等に導かれて、固有の呪法に幾多の変化を来たすようになったが、それでも此の固有の所作だけは保持していたのである。此の立場から見れば、修験者の行うた憑り祈祷なるものは、巫女のそれを学んで、然も纔に方法を変えて——即ち巫女自身に憑らせべき神を、仲座と称する第三者に憑らせて、修験者は審神者の地位に立ったと云うに過ぎぬのである。従って、巫道と、修験道との、呪術の関係は、前者の所有していたものを後者が奪い、男性であっただけにそれを拡張したに外ならぬとも言えるようである。殊に子供が託宣することも、既述の如く、これ又た古代からの事象であって、これとても修験者の発明とは見られぬのである。修験道が宗教界の寄生虫と云われるのも、決して故なしとせぬのである。
我国の古代の巫女が、神を己れの身に憑らせて託宣したことは、畏くも既述の神功皇后がその範を示された如く、全く固有の呪法と言うべきものであって、代々の巫女も又この呪法を伝えて変るところが無かったのである。ただそれが、道教が輸入され、仏教が弘通されてからは、巫女も是等に導かれて、固有の呪法に幾多の変化を来たすようになったが、それでも此の固有の所作だけは保持していたのである。此の立場から見れば、修験者の行うた憑り祈祷なるものは、巫女のそれを学んで、然も纔に方法を変えて——即ち巫女自身に憑らせべき神を、仲座と称する第三者に憑らせて、修験者は審神者の地位に立ったと云うに過ぎぬのである。従って、巫道と、修験道との、呪術の関係は、前者の所有していたものを後者が奪い、男性であっただけにそれを拡張したに外ならぬとも言えるようである。殊に子供が託宣することも、既述の如く、これ又た古代からの事象であって、これとても修験者の発明とは見られぬのである。修験道が宗教界の寄生虫と云われるのも、決して故なしとせぬのである。
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