日本巫女史/第二篇/第二章/第一節

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日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第二章 修験道の発達と巫道との関係

第一節 憑り祈祷に現われた両者の交渉[編集]

修験道は、奈良朝において、役ノ小角が開いたものだと伝えられている〔一〕。私は小角が創めた当時の修験道が、如何なるものであったかは詳しく知らぬが、後世の是等の徒が好んで行うた呪術は、俗に「祈祷キトウ」と称するものであって、一名の男女(又は子供)を、憑座ヨリマシ仲座ナカザ御幣持ゴヘイモチ尸童ヨリワラ乗童ノリワラ、おこうさま、一ツモノ護法実ゴホウダネ護法付ゴホウツキ護因坊ゴインボウ古年童コネンドウなどとも云う)と定め、これに神を祈り著けて、その者の口より、神の意として、善悪吉凶等を語らせる方法である。私はここに、修験者が行った憑り祈祷の二三の実例を挙げ、然る後に、此の呪法と、巫女のそれとの比較、及び関係に就いて、管見を述べる。ただ前以てお断りして置くことは、此の種の類例は、代々の文献にも非常に多く存しているので、到底ここには挙げきれず、又挙げる必要もないと信ずるゆえ、今は私が専攻している民俗学的の資料を、時代に拘らず載せたことである。「校正作陽誌」久米郡南分寺院部に、

護法社、在岩間山本山寺(天台宗)域内、毎年七月七日行護法、祈其法撰素撲者、斎戒斎浄、諺謂之護法実、至七日、使居東堂之庭、満山衆徒盤境呪持、此人忽狂躍、或咆吼忿嗔状如獣族、力扛大盤、若有穢濁之人、則捉而抛擲数十歩之外也、呪法既畢、則供護法水四桶、毎桶盛水一斗五升、其人尽呑了、後俄然仆地即復本敢莫労困、又不自知之耳、謂之墜護法也(以上摘要)。

此の護法実と称する人物が、呪持のために、力大盤をげ、水六斗を呑み尽し、獣族の如くになって咆吼し、穢濁の者あるとき、捉えて数十歩の外に擲つとは、現今の科学から説明すれば、全く催眠状態の仕業であることが容易に知り得らるるのであるが、かかる知識を少しも有していなかった時代にあっては、ただ神秘のこと、不思議のことと信じ、恐れるより外に致し方がなかったのである。昭和の現代においても、真宗の糸引名号や、法華宗の御因縁様などが多数の信者を有している所から推すと、修験道が民間信仰の骨髄にまで浸み込み、護法実や山伏の威力は、私などが今日から想像する以上に更に猛烈であったに相違ない。而して其の旁証とも見るべき記事が、同じ「校正作陽誌」久米郡北分寺院部に載せてある。曰く

二上山両山寺(真言宗)在大垪和村云々。末社護法祠、建治元年七月十日、僧定乗於鎮守廟言護法神託、寺僧書軸為号護法託宣、率千数百字皆不経之言也、相伝、昔有山鬼、名曰三郎坊養勢、常為仏敵、護法神怒執縛之、自後誓不復往山、又山下有護法松、住日法楽之日、寺山某来見、会将央、護法之尸奮然起而攫捉寺山、蓋因其不潔也、寺山勇悍、相撲接峻崖嶮坂輾転而下、二人共死、因合葬其地、後人植松為標、名護法松、(以上摘要)。

此の護法松の由来に就いては、「岡山新聞」に異説が載せてある。重複する点もあるが、如何に当時、この護法信仰なるものが、威力を以て民衆に臨んでいたかを知る上に、参考として附載する。

美作国久米郡の両山寺には、往昔二十四房あったが、過半は廃れて今では六房しか残っていない。毎年八月十五日に武甕槌命の祭典がある。これを護王(中山曰。護法の転訛)と云い、人に神を祈りつけ、境内を飛び走って穢れし人は之れを捕える。これに捕えられた者は、二年すれば死ぬと言い伝えられている。昔、不信心の武士(中山曰。前条の寺山某か)が、わざと魚を食ったまま参詣し、此の護王に追いかけられ、逃げ途を失うて、松の木へ登り難を避けたが、護王がその松に登って来たので、武士は帯刀を揮って護王を斬り殺してしまった。武士が血刀を附近の池で洗ったところ、不思議にも池の水が一時に涸れてしまい、今でも雨が降ると血の色の水が湧くという(摘要。大正七年七月廿六日発行)。

是等の記事は、別段に説明を要するほどの難解のものではないが、ただ一言注意までに言って置くことは、此の護法附の憑り祈祷を行う寺が、双方とも修験道に関係の深い天台宗と真言宗とであることである。私が改めて言うまでもなく、修験道は古くから此の両宗に属し、聖護院派(天台で当山派と称し)と、醍醐派(密宗で本山派と称す)とに分れていて、峰入りも順逆の二つに区別されていた。而して修験道が、此の両宗の袈裟下に投じたことに就いては、多少記すべきことが存するけれども〔二〕、それは余り本問に関係がないので割愛し、更に此の種の憑り祈祷の類例を挙げるとする。護法附に就いては「郷土趣味」第一巻第五号に、左の如き記事が載せてある。

京都の松尾山鞍馬寺(天台宗)では、毎年六月二十日の夜に、護法附という修法を行う。これは有名なる「鞍馬の竹伐」の行事(中山曰。竹の伐り方で年占をするもの)に関係ある雌蛇が、護法神として祭ってあるためである。大昔には、毎年人味(人身御供)を供えたと云うが、今では夜の八時に、堂内の燈火を悉く消し、生贄にする僧(即ち憑座)を坐せしめ、衆僧も共に闇中にいて、代る代る陀羅尼神呪を大声に唱えて、彼の僧を一ツ時ばかり祈り殺す。ここに至って、護法神は人味を納受せられたとて、之にて法式が終る。後にその仮死している僧を板に乗せて堂の後に舁て往き、大桶七ツ半の水を注ぎ流して身に懸けてやると、生贄はやがて蘇生する。そこで裸体のまま護法の祠に参詣する。これを護法附の行事と称している。今日では僧を祈り殺し、祈り活すというような、法力実験は致さぬそうである(以上摘要)。

此の記事は採集者の態度が興味本位であるために、学術上の大きな問題を忘却している。それは此の種の行事の目的は、その憑座の口から神意を語らせ、一年中の豊凶または時疫の有無などを占うことに出発しているのであって、そのことは年占の竹伐りの行事に引続いて挙げられる点からも知れるのである。次に載せる憑り祈祷なども、又それが脱落しているが、ただ面白半分にかかる祈祷が行わるる筈がないので、古意が失われて、行事だけが残ったものと見るべきである。「福島県耶麻郡誌」に、

岩代国耶麻郡月輪村大字関脇の麓山ハヤマ神社、旧記に毎年九月十五日民家を掃い清め、注連を引いて大幣二本を安じ、村民の祭りに与る者宿斎し、此家に集会し、大なる炉に薪を焚き、衆人「月山ツキヤマ麓山ハヤマ、羽黒の大権現、並びに稲荷トウカの大明神」と一と口に出る如く唱うること数十反、神これに憑る者一人或は二三人、互いに起って幣を執り狂躍し、遂に炉中に入り火上に坐す。或は火を擢み、或は火を踏み、幣にて火を探れども燃ゆることなし。少間ありて神去れば、其人酔の醒めたるが如し。十五日より二十七日まで毎夜かくの如く、二十九日の朝麓山社に詣て神事に交る。これを火祭りと云う(以上摘要)。

以上の憑り祈祷に比較すると、竹崎嘉通翁が「郷土研究」第三巻第九号に寄せたものは、よく古俗を伝えているものと考えるので採録する。

石見国邑智郡高原村大字原村の氏神社では、例祭の折に「託舞タクマイ」という神楽が行われる。託とは神託のことで、一人の審神サニワ(中山曰。審神は既記の如く神意を判ずる者であるから、此の場合は憑座とか幣持とか云うのが穏当であるが、今は原文に従うとした)を立て、神おろしをなし、種々の問答を試みるのである。託太夫、即ち審神となる神職は、自然世襲の有様で、又それに属する腰抱コシダきという役もあるが、これも亦た世襲の姿であった。託舞の設備としては、大きな注連縄の端を龍頭に似せて造ったものを、神前の左右の柱から相対する方面の柱に引渡す。深更の刻、審神者を上座とし、多数の神官その縄に取付き、幣を持ち、歌をうたい、祝詞を読む。そうすると、暫時にして、審神者に顔色変り、大声を発して、村の某は云々の罪悪がある。某は不信者、本年某の方面に火災があるなど口走り、又た祭主たる神職と種々の問答をする事もある。時によっては神怒を発し、太刀を抜いて荒れ廻り、或は桟敷に飛び込み、怪我人を生ずる事もある。その時腰抱きなる者がこれを抱き鎮める。自分(即ち竹崎翁、因に云うが翁は神職である)は三四度その席に列した事があるが、何時いつも余りの恐しさに、片隅に打伏していた(以上摘要)。

ここまで記事をすすめて来ると、猶お此の種の行事に類する吉野金峯山の蛙飛び(一人の僧を蛙の如く扮装させ、これを鞍馬寺の如く祈り殺し祈り活す)の神事、奥州羽黒山の松聖マツヒジリの行事、近江の比良八荒の伝説、尾張国府宮宮で旅人を捕えて気絶させる直会祭、筑前観音寺の同じく旅人を搦めて松葉燻しにする行事や、その他各地の修験者が好んで行うた「笈渡しの神事」まで説明せぬと、些か徹底を欠くように思われるが、それでは余りに長文になるし、まだ此外に子供を憑座とした憑り祈祷も挙げたいとも考えているので、是等は悉く省略に従うこととし、筆路を護因坊に移すとした。而して護因坊に就いては「近江輿地志略」巻二〇に「日吉記」を引用して、下の如く載せてある。

護因坊、僧形有觜、樹下僧行力巨多也、後身誕生、後二条院勅賜愛智上庄三千石内陣御供料、当社、神位崇敬之社、辻護因坊跡也、奥護因廟所、浄之勝也、内井之護因、比谷川大洪水時、流自大行事迄内井、如此止処建社、号流護因云々(日本地誌大系本)。

美作の護法実にせよ、鞍馬の護法附にせよ、憑代となる者は、或る限られた人物であったにせよ、それでもまだ私達と同じき横目縦鼻の人間であったが、此の護因坊となると、僧形有觜とある如く、全くの天狗と成り了うせている〔三〕。かく人間から天狗に遷り変って行くところが、やがて修験道が道教や仏教を巧みに取り入れて、民間信仰を支配するに至った過程なのである。而して此の憑り祈祷と同じような目的で、憑座に子供を用いた神事も多数に存しているが、茲には僅に二三だけ挙げるとする。

岩代国耶麻郡猪苗代町字新町の麓山ハヤマ神社の祭日には、火剣の神事とて、生木を焚いて薪とし、塩を多く振りかけて火をしめし、村民等呪文を唱え、幣帛を振って清め、祈願ある者参詣すれば、火中を渡らせる。又た乗童ノリワラと号けて、祈願する者の吉凶を託宣する。昔は子供が此の事を行ったが、今では老壮の者が遣るようになった〔四〕。飛騨国益田郡下呂村大字森の八幡宮の例祭は、古風を伝えているが、正月十日に、氏子の中から、十二三歳の子供を集め、神前にて籤を取らせ十人を選み、又その中より一人を選み、禰宜と称し、折烏帽子直垂を着し、神事の祭主とする。祭典の十四日になると、祭主の子供が細き竹を長さ二尺一寸に切り携え、これを己以波之コイバシと名づけ、祭礼が済むと、此の竹を群集の間に投げる。拾い得たものは嘉瑞とする〔五〕。これは口で言う託宣を竹に代表させたものである。常陸の鹿島神宮で、旧四月九日に行う斎頭祭なども、私が親しく拝観したところによると、左右の大将となる者は子供であって、今では祭神振武の故事を演ずるといっているが、古くは左右の勝敗によって年占を行ったものだと考えられる〔六〕。類例は限りがないから、此の程度にとどめて、今度は此の修験道の憑り祈祷と巫女の呪術との関係に就き一瞥を投ずるとする。

我国の古代の巫女が、神を己れの身に憑らせて託宣したことは、畏くも既述の神功皇后がその範を示された如く、全く固有の呪法と言うべきものであって、代々の巫女も又この呪法を伝えて変るところが無かったのである。ただそれが、道教が輸入され、仏教が弘通されてからは、巫女も是等に導かれて、固有の呪法に幾多の変化を来たすようになったが、それでも此の固有の所作だけは保持していたのである。此の立場から見れば、修験者の行うた憑り祈祷なるものは、巫女のそれを学んで、然も纔に方法を変えて——即ち巫女自身に憑らせべき神を、仲座と称する第三者に憑らせて、修験者は審神者の地位に立ったと云うに過ぎぬのである。従って、巫道と、修験道との、呪術の関係は、前者の所有していたものを後者が奪い、男性であっただけにそれを拡張したに外ならぬとも言えるようである。殊に子供が託宣することも、既述の如く、これ又た古代からの事象であって、これとても修験者の発明とは見られぬのである。修験道が宗教界の寄生虫と云われるのも、決して故なしとせぬのである。

併しながら、修験道の表道具であった憑り祈祷は、如何にも神怪であっただけに、深く民間信仰を維いでいたことは、争うべからざる事実であった。加之、彼等が此の呪術を自在に為し得るまでには、筆舌にも尽せぬほどの難行苦行を積んだものである。「元亨釈書」の忍行篇に載せてある彼等の行法や、謡曲「谷行」に現われた彼等の作法などは、私のような気の弱い者には、実に卒読にも堪えぬほどである。絶食、絶水、不眠、不臥、手燈、倒懸、刻骨、捨肉、火定というが如き、有りと有らゆる惨酷を忍ぶばかりか、更に加賀の白山禅定、紀州熊野の補陀落渡海の如き、聴くだに戦慄を覚えるような事を、恰も尋常茶飯事のように実行して恐れなかった彼等の心理状態は、よしそれが迷信にもせよ、神や仏に縋ろうとする懸命の信仰を外にしては、遂に解釈し能わぬ問題である。かく詮じ来たれば、修験の徒が、永く民心を支配したのも、決して偶然のことではなく、且つ後世になると巫覡と並び称せられて、覡は直ちに修験者を意味するまでになったのも、又た偶然ではなかったのである。

〔註一〕
修験道を役ノ小角が開いたというのは、彼等の徒の主張であって、必ずしも正しい記録に見えている訳ではない。かかる信仰上の問題は、追々に大成されるものであって、役ノ小角は単にこれに似たことをした位に過ぎぬ者と見るべきである。
〔註二〕
修験道に関する書籍は少くないが、纏ったものでは「木の葉衣」「踏雲録」など(共に続々群書類従宗教部所収)で、此の外にも、江戸期の随筆にかなり多く記されている。
〔註三〕
我国における天狗信仰は、かなり複雑しているだけに、又た厄介な問題であるが、一言にして言えば、修験道で創作した俗信の対象である。更に砂から工夫した飯綱信仰とか、狼を中心とした三峯信仰とか言うものも、修験者が宣伝したものである。
〔註四〕
「新編会津風土記」巻四九。
〔註五〕
「飛州志」巻五。
〔註六〕
此の事は曾て「国学院雑誌」で拙考を発表したことがある。猶お「元亨釈書」の行尊伝(有名な修験者で、小倉百人一首で、諸共にあはれと思へ山桜、花より外に知るものもなしの和歌で知られている)に小女を憑座としたことが詳しく載せてある。特志のお方の御参照を望む。