日本巫女史/第二篇/第五章/第三節」を編集中

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ここに二三の類例を挙げれば、妊婦の横生逆産を安産せしめるには、良人の陰毛十四本を焼研し、猪膏に和して、大豆大に丸めて呑ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、その人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入ることはない〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病にかかったときは、三人の女子の陰毛をもらい集め、これを黒焼にして服すと、奇功があると云うている。これなどは、広く尋ねて見たら、更に他地方にも行われていることと思う。それから、芝居の興行師や、茶屋女などが、来客が少くって困るときは、陰毛三本をぬき、一文膏へ貼り、人に知れぬよう他の繁昌する店頭へ貼って来ると、必ずその店の客を引くことが出来ると信じていた〔六〕。
ここに二三の類例を挙げれば、妊婦の横生逆産を安産せしめるには、良人の陰毛十四本を焼研し、猪膏に和して、大豆大に丸めて呑ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、その人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入ることはない〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病にかかったときは、三人の女子の陰毛をもらい集め、これを黒焼にして服すと、奇功があると云うている。これなどは、広く尋ねて見たら、更に他地方にも行われていることと思う。それから、芝居の興行師や、茶屋女などが、来客が少くって困るときは、陰毛三本をぬき、一文膏へ貼り、人に知れぬよう他の繁昌する店頭へ貼って来ると、必ずその店の客を引くことが出来ると信じていた〔六〕。


而して以上は、専ら男女の陰毛に関したものであるが、これ以外の毛髪に就いても、又た深甚なる俗信が伴っていたのである。播州飾磨郡地方では、悪疫流行の際に、袂の底に毛髪を二三本入れて置くと、悪疫にかからぬと云っている〔七〕。山城国葛野郡小倉山の二尊院の門前に、<ruby><rb>長</rb><rp>(</rp><rt>タケ</rt><rp>)</rp></ruby>明神というがある。社伝によると、檀林皇后の落ち髪を祀ったものだと云うている〔八〕。記述した称徳女帝の御髪を盗んで、犬養姉女等が呪詛したとあるのも、髪に生命の宿ることを信じていたからである。京都市外の双ヶ岡の長泉寺には、吉田の兼好法師の木像があり、外に辞世の『契りをく花と双びの岡の辺に、あはれ幾代の春をへぬらむ』の歌を、兼行が剃髪の毛で文字を綴って作った掛幅がある〔九〕。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中将姫の髪の毛で、祢陀三尊の種子を作った掛幅がある〔一〇〕。これと似たものが、上野国邑楽郡六郷大字新宿の遍照寺にもある。これも中将姫の毛で、弥陀三尊の梵字を一字づつ織り出しているが、俗に頭髪の曼荼羅と称している〔一一〕。
而して以上は、専ら男女の陰毛に関したものであるが、これ以外の毛髪に就いても、又た深甚なる俗信が伴っていたのである。播州飾磨郡地方では、悪疫流行の際に、袂の底に毛髪を二三本入れて置くと、悪疫にかからぬと云っている〔七〕。山城国葛野郡小倉山の二尊院の門前に、<ruby><rb>長</rb><rp>(</rp><rt>タケ</rt><rp>)</rp></ruby>明神というがある。社伝によると、檀林皇后の落ち髪を祀ったものだと云うている〔八〕。記述した称徳女帝の御髪を盗んで、犬養姉女等が呪詛したとあるのも、髪に生命の宿ることを信じていたからである。京都市外の双ヶ岡の長泉寺には、吉田の兼好法師の木像があり、外に辞世の『契りをく花と双びの岡の辺に、あはれ幾代の春をへぬらむ』の歌を、兼行が剃髪の毛で文字を綴って作った掛幅がある〔一〇〕。これと似たものが、上野国邑楽郡六郷大字新宿の遍照寺にもある。これも中将姫の毛で、弥陀三尊の梵字を一字づつ織り出しているが、俗に頭髪の曼荼羅と称している〔一一〕。


それから、甲州御嶽の蔵王権現の宝物中に、北条時頼剃髪の毛というがある。その毛は、綰ねて捲子の中に納め、その外に『最明寺殿御髪毛、愛宕山へ納め候を、当将軍様{○家/光?}御申下し、愚僧方へ参り候を、当山へ奉納候、寛永一六年正月吉日、納主不明』と記してあるそうだ〔一二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立虫神社は、社家の伝に素尊の毛髪を納めたところだと云っている〔一三〕。そして薩摩国日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向のとき、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀ったものと伝えられている〔一四〕。こうした毛髪信仰はまだ各地に存しているが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰児の<u>うぶ</u>毛を保存して置くのは、此の古い信仰の名残りであると言うことが出来るのである。
それから、甲州御嶽の蔵王権現の宝物中に、北条時頼剃髪の毛というがある。その毛は、綰ねて捲子の中に納め、その外に『最明寺殿御髪毛、愛宕山へ納め候を、当将軍様{○家/光?}御申下し、愚僧方へ参り候を、当山へ奉納候、寛永一六年正月吉日、納主不明』と記してあるそうだ〔一二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立虫神社は、社家の伝に素尊の毛髪を納めたところだと云っている〔一三〕。そして薩摩国日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向のとき、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀ったものと伝えられている〔一四〕。こうした毛髪信仰はまだ各地に存しているが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰児の<u>うぶ</u>毛を保存して置くのは、此の古い信仰の名残りであると言うことが出来るのである。
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