日本巫女史/第二篇/第五章/第二節」を編集中

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私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。
私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。


併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野国勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。
併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野郡勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。


更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の<ruby><rb>白髪</rb><rp>(</rp><rt>シラカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社も、後には祭神清寧天皇と伝えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髪であったという故事から、白髪に附会した<u>さかしら</u>で、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穏当であって、然もオシラカミに関係があったのかも知れぬ。美作国苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲国大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稲田姫との二柱で、素尊の髪が白いので、斯く称すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚伝も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附会したものであることは言うまでもない。紀伊国有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「万葉集」に『由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ』とあるのがそれである〔一三〕。安芸の広島市の国泰寺の附近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挟んで、海中瀬のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海辺に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に関して、想い起されることは、下総銚子町の歯櫛神社の由来である。「利根川図誌」などによると、歯櫛の二字から構想して、長者の娘が失恋して入水し、歯と櫛が漂着したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を伝えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を当てたのを、更にハクシと訓み過って、歯櫛の伝説となったことが知られるのであって、何か海辺に此の神が由縁を有していたこと、前記の紀州や安芸のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき点である。阿波国美馬郡口山村宮内の白人神社や〔一五〕、「筑後国神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を当てたものと見るべきである。
更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の<ruby><rb>白髪</rb><rp>(</rp><rt>シラカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社も、後には祭神清寧天皇と伝えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髪であったという故事から、白髪に附会した<u>さかしら</u>で、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穏当であって、然もオシラカミに関係があったのかも知れぬ。美作国苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲国大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稲田姫との二柱で、素尊の髪が白いので、斯く称すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚伝も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附会したものであることは言うまでもない。紀伊国有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「万葉集」に『由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ』とあるのがそれである〔一三〕。安芸の広島市の国泰寺の付近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挟んで、海中瀬のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海辺に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に関して、想い起されることは、下総銚子町の歯櫛神社の由来である。「利根川図誌」などによると、歯櫛の二字から構想して、長者の娘が失恋して入水し、歯と櫛が漂着したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を伝えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を当てたのを、更にハクシと訓み過って、歯櫛の伝説となったことが知られるのであって、何か海辺に此の神が由縁を有していたこと、前記の紀州や安芸のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき点である。阿波国美馬郡口山村宮内の白人神社や〔一五〕、「筑後国神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を当てたものと見るべきである。


以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ(雛)の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。
以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ(雛)の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。
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