日本巫女史/第二篇/第五章/第二節」を編集中

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[[画像:古相オシラ.gif|thumb|古き相を伝えたオシラ神(人類学雑誌所載)]]
[[画像:古相オシラ.gif|thumb|古き相を伝えたオシラ神(人類学雑誌所載)]]
此の神を何故にオシラと言うかに就いては、相当学界に異説もあるが、ここにその大略を摘記すれば、第一説は、前掲の折口信夫氏の云われたように、元はオヒラと称して、ヒナ(雛)を意味していたのが、斯く転訛したのであると云うのである。第二説は、加賀の<ruby><rb>白山神社</rb><rp>(</rp><rt>シラヤマジンジャ</rt><rp>)</rp></ruby>に仕えた巫女が、古く此の神体を呪術に用いたのが、東北の巫女に伝り、その名を負うてオシラ神となったのであろうと云うのである。第三説は、此の神は元々アイヌ民族の持っていたもので、同民族では守り本尊とも云うべき神のことを、シラツキカムイと称しているので、その転訛であろうというのである。第四説は、此の神は蚕の神であって、蚕のオシラ(白彊蚕)を舎利と称して尊敬した俗信があったので、それに由来するのだろうというのである。第五説は、オシラ神はお知らせ神の転訛であるというのである。第六説は、ネフスキー氏の主張するシベリヤからの輸入説(この事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後段]]に述べる)などが存している。
此の神を何故にオシラと言うかに就いては、相当学会に異説もあるが、ここにその大略を摘記すれば、第一説は、前掲の折口信夫氏の云われたように、元はオヒラと称して、ヒナ(雛)を意味していたのが、斯く転訛したのであると云うのである。第二説は、加賀の<ruby><rb>白山神社</rb><rp>(</rp><rt>シラヤマジンジャ</rt><rp>)</rp></ruby>に仕えた巫女が、古く此の神体を呪術に用いたのが、東北の巫女に伝り、その名を負うてオシラ神となったのであろうと云うのである。第三説は、此の神は元々アイヌ民族の持っていたもので、同民族では守り本尊とも云うべき神のことを、シラツキカムイと称しているので、その転訛であろうというのである。第四説は、此の神は蚕の神であって、蚕のオシラ(白彊蚕)を舎利と称して尊敬した俗信があったので、それに由来するのだろうというのである。第五説は、オシラ神はお知らせ神の転訛であるというのである。第六説は、ネフスキー氏の主張するシベリヤからの輸入説(この事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後段]]に述べる)などが存している。


私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。
私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。


併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野国勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。
併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野郡勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。


更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の<ruby><rb>白髪</rb><rp>(</rp><rt>シラカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社も、後には祭神清寧天皇と伝えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髪であったという故事から、白髪に附会した<u>さかしら</u>で、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穏当であって、然もオシラカミに関係があったのかも知れぬ。美作国苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲国大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稲田姫との二柱で、素尊の髪が白いので、斯く称すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚伝も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附会したものであることは言うまでもない。紀伊国有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「万葉集」に『由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ』とあるのがそれである〔一三〕。安芸の広島市の国泰寺の附近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挟んで、海中瀬のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海辺に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に関して、想い起されることは、下総銚子町の歯櫛神社の由来である。「利根川図誌」などによると、歯櫛の二字から構想して、長者の娘が失恋して入水し、歯と櫛が漂着したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を伝えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を当てたのを、更にハクシと訓み過って、歯櫛の伝説となったことが知られるのであって、何か海辺に此の神が由縁を有していたこと、前記の紀州や安芸のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき点である。阿波国美馬郡口山村宮内の白人神社や〔一五〕、「筑後国神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を当てたものと見るべきである。
更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の<ruby><rb>白髪</rb><rp>(</rp><rt>シラカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社も、後には祭神清寧天皇と伝えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髪であったという故事から、白髪に附会した<u>さかしら</u>で、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穏当であって、然もオシラカミに関係があったのかも知れぬ。美作国苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲国大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稲田姫との二柱で、素尊の髪が白いので、斯く称すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚伝も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附会したものであることは言うまでもない。紀伊国有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「万葉集」に『由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ』とあるのがそれである〔一三〕。安芸の広島市の国泰寺の付近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挟んで、海中瀬のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海辺に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に関して、想い起されることは、下総銚子町の歯櫛神社の由来である。「利根川図誌」などによると、歯櫛の二字から構想して、長者の娘が失恋して入水し、歯と櫛が漂着したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を伝えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を当てたのを、更にハクシと訓み過って、歯櫛の伝説となったことが知られるのであって、何か海辺に此の神が由縁を有していたこと、前記の紀州や安芸のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき点である。阿波国美馬郡口山村宮内の白人神社や〔一五〕、「筑後国神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を当てたものと見るべきである。


以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ(雛)の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。
以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ(雛)の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。
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'''五 オシラ神は呪神で無い'''
'''五 オシラ神は呪神で無い'''


斯う考えて来ると、オシラ神は、その始めは巫女が行う所の呪力を授ける神ではなくして、恰も<ruby><rb>傀儡女</rb><rp>(</rp><rt>クグツメ</rt><rp>)</rp></ruby>の持てる木偶、遊女の信仰した百太夫の<ruby><rb>形代</rb><rp>(</rp><rt>カタシロ</rt><rp>)</rp></ruby>の如きものであったと見るべきである。殊に現在でも、此の神を持っている<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>イタコ</rt><rp>)</rp></ruby>が呪術を行う時とは、昔の守袋に似た円筒形の筒と、イラタカの珠数とを大切に取扱い、オシラ神はただ舞わせるだけだと云う事からも、その間の事情を察知し得るのである。折口信夫氏は、[[日本巫女史/第二篇/第四章/第一節|既記]]の如く、オシラ神は熊野明神の<ruby><rb>使令</rb><rp>(</rp><rt>ツカワシメ</rt><rp>)</rp></ruby>だと云われているが、私の信ずる所では、我国の用例として、動物以外に<ruby><rb>使令</rb><rp>(</rp><rt>ツカワシメ</rt><rp>)</rp></ruby>の意義を有たせたもののある事を発見せぬので、これを直ちに使令と見る説に賛成しかねるのである。折口氏は、抽象的の仮定で推論する天才であるが、動物以外の使令の類例を示してくれぬ以上は、氏の説は困難だと信ずるのである。猶おオシラ神の舞わせ方、その折に唱える祭文の如きは、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べる考えであるから、これとそれと参照されん事を希望する。
斯う考えて来ると、オシラ神は、その始めは巫女が行う所の呪力を授ける神ではなくして、恰も<ruby><rb>傀儡女</rb><rp>(</rp><rt>ツグツメ</rt><rp>)</rp></ruby>の持てる木偶、遊女の信仰した百太夫の<ruby><rb>形代</rb><rp>(</rp><rt>カタシロ</rt><rp>)</rp></ruby>の如きものであったと見るべきである。殊に現在でも、此の神を持っている<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>イタコ</rt><rp>)</rp></ruby>が呪術を行う時とは、昔の守袋に似た円筒形の筒と、イラタカの珠数とを大切に取扱い、オシラ神はただ舞わせるだけだと云う事からも、その間の事情を察知し得るのである。折口信夫氏は、[[日本巫女史/第二篇/第四章/第一節|既記]]の如く、オシラ神は熊野明神の<ruby><rb>使令</rb><rp>(</rp><rt>ツカワシメ</rt><rp>)</rp></ruby>だと云われているが、私の信ずる所では、我国の用例として、動物以外に<ruby><rb>使令</rb><rp>(</rp><rt>ツカワシメ</rt><rp>)</rp></ruby>の意義を有たせたもののある事を発見せぬので、これを直ちに使令と見る説に賛成しかねるのである。折口氏は、抽象的の仮定で推論する天才であるが、動物以外の使令の類例を示してくれぬ以上は、氏の説は困難だと信ずるのである。猶おオシラ神の舞わせ方、その折に唱える祭文の如きは、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べる考えであるから、これとそれと参照されん事を希望する。


; 〔註一〕 : 「遠野物語」は、柳田国男先生が、遠野町に近き陸中国上閉伊郡土淵村大字山口生れの佐々木吉善(当時は繁と云った)の話を記されたもので、我国の民俗学上には意義の深い著述である。
; 〔註一〕 : 「遠野物語」は、柳田国男先生が、遠野町に近き陸中国上閉伊郡土淵村大字山口生れの佐々木吉善(当時は繁と云った)の話を記されたもので、我国の民俗学上には意義の深い著述である。
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