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: 年を経て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ(同上。古今集)。
: 年を経て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ(同上。古今集)。
: 末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ(同上。新古今集)。
: 末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ(同上。新古今集)。
: ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のはあまをき(同上。蒐玖波集)。
: ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のははまをき(同上。蒐玖波集)。
: 鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず(同上。万葉集長歌の一節)。
: 鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず(同上。万葉集長歌の一節)。
: 千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音(同上。出所不明)。
: 千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音(同上。出所不明)。

2010年3月7日 (日) 09:22時点における最新版

日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第六章 巫女の社会的地位と其の生活

第一節 歌舞音楽の保存者としての巫女[編集]

神懸りにおいて舞踊を発明し、歌謡の源流である叙事詩を生んだ巫女が、更に是等を発達に導き、併せてその保存者となるべき地位に置かれるのは、寧ろ当然の帰結である。神遊び(後の神楽)は、時勢の降ると共に、漸く複雑化せるも〔一〕、猶お遊びの前後に阿知女アチメの作法を行うほどの用意を忘れず、歌謡も神楽歌より、催馬楽、今様、風俗と多くの種目を加えたけれども、その歌手は概して巫女か、それでなければ巫女から出た歌女カメと称するものであった。併しながら、時勢の発達は、舞踊や、歌謡を、いつ迄も巫女の手に委ねては置かず、それぞれ専門の者を出すようになったが、茲にはその過程に就いて記述する。

一 歌占の発達と巫女の詩人的素養

古代における巫女の託宣が、俗談平語を離れて、律語的に、且つ叙事詩的に発せられるのを常としたが、此の傾向は、漸次に歌占と称する歌謡の形式を以て行われるようになった。前載の、恵心僧都が金峯山に巫女を訪ねたときに答えたるものが、その一例であるが、更に「平治物語」に鳥羽法皇が熊野へ参詣し、

権現を勧請し奉らばやと思召て、まさしき巫女やあると仰せければ、山中無双の巫女を思召す、御不審の事あり、占申せと仰せありければ、権現すでにおりさせたまへりと云へるところのことを(中略)半井本には、巫、法皇に向進らせて、歌占を出したり、「手にむすぶ水に宿れる月影は、あるかなきかの世にはありけり」とありて、下文にさて云々と申たてば、巫女取あへず「夏はつる扇と秋の白露と、いづれかさきに置まさるべき」、夏の終秋の始とぞ仰せられける。

とあるのも、又それである〔二〕。更に「安居院神道集」に、「和歌抄」を引用して、左の如き記事がある。

白河院御時、御両所市阿波ト云御子を召、御紙魚不明云事ハ何様ナル事アラント、銀ノ壺ニ乳ヲ入テ、此ヲ亦物ニ入ツ、蓋ヲシテ、帝ト后トノ二人御心ニテ、亦人ニ不知之、サテ此中ナル物ヲ占ヘト、御子ノ前ニ差出ケレバ、シバラク計跟蹡ナル歌占ニ、「シロカネノツホヲナラヘテ水ヲ入ハ、フタシテカタク見ルヘクモナシ」ト、□出、御涙ヲ流給テ□勇事哉ト思食サレタリケリ、□銀共ヲ賜ハリケリ(宮内省図書寮本)。

斯く巫女が、託宣を歌謡の形式を以て表現するようになったのは、巫女の伝統的因襲の外に、歌謡の流行したことを併せ考えなければならぬ。私は曾て自ら揣らず「我国の神詠の考察」と題する剪劣なる管見を発表したことがあるが〔三〕、代々の勅撰歌集を読んで見て、平安朝以降において、神々の詠歌と称するものの遽かに増加した事は、注意すべき点である。熱田、賀茂、住吉、大神ミワの各神を始めとして、神託の形式を殆んど和歌に仮りているのである。而して此の流行?は、仏教方面にも取り入れられて、又た盛んにこれが利用されているのである〔四〕。勿論、私は是等の神詠なるものが、巫女によって仮作されたものであるなどとは、夢にも考えていぬ所であるが、斯うした和歌流行の世相は、巫女を駆って歌人的素養を深からしめた事だけは言い得るものと信じている。更に一口に、巫女と云っても、その中には自から階級があり、名神大社に仕える者と、叢祠藪神に仕える者との間に、出自、品性、素養の相違あることは言う迄もないから、高級者にあっては、短歌や、今様ぐらいは、平生の嗜みとしても、作り得らるるだけの用意はあったろうが、それにしても巫女をして詩人たらしめる世相の存したことは看取される。

然るに、此の託宣を歌謡を以てすることが、固定するようになれば、その歌謡を以て直ちに神意を占うことに利用されるに至った。換言すれば、曾て巫女によって制作された歌謡、又は神詠と称する歌謡、若しくはその他の歌謡の或る数を限り、此のうちの何れかを取り当てたもの(即ち後世の御籤に似たもの)に由って、吉凶を判ずるという信仰を生むようになった。「長秋記」長承二年七月六日の条に、

自女院被仰云、七月七日当庚申時、於乞巧奠前、不論男女、七人会同、各書旧歌百首、都合為一巻、用歌占、如指不違云々。

とあるのは、即ちその一例で、然も是が民間に移されて、七夕の星祭に、歌占を以て男女の縁を結ぶ(神判成婚の意)民俗にまでなったのである〔五〕。而して更に此の信仰の最も通俗化したものが、謡曲の「歌占」と称する方法である。これに関しては、「参宮名所図会」巻下にも記載があるので、彼之を参酌要約すると、概ね左の如きものであったことが知られるのである。

伊勢国度会郡二見郷三津村に、度会家次(謡曲にある歌占の発明者という)の子孫なる者があって、家号を北村と称し、此の者が歌占の弓という物を持ち伝えていた。即ち長さ三尺ばかりの丸木弓の握り柄を赤絹にて纏き、上を糸で巻き、その弓の本末に短冊一枚づつ付けて、本には『神心たねとこそなれ歌占の』と書き、末には『ひくもしらきのたつか弓かな』と記し、別に弓弦に短冊八枚を付け、これに下の如き歌一首づつ書きつけてある。

増鏡そこなる影に向ひゐて、しらぬ翁にあふここちする(中山曰。拾遺集の歌なり)。
年を経て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ(同上。古今集)。
末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ(同上。新古今集)。
ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のははまをき(同上。蒐玖波集)。
鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず(同上。万葉集長歌の一節)。
千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音(同上。出所不明)。
北は黄に南は青くひがし白、にしくれなゐにそめ色の山(同上。同上)。
ぬれて乾す山路の菊の露の間に、散そめながら千代にも経にけり(同上。古今集)。

斯うした短冊の一枚を依頼者にとらせ、その歌の文句によって判断するのであって、後世の御籤というものと、全く同じ方法に過ぎぬのである〔六〕。謡曲の「歌占」には、父を尋ねる子方が、鶯のかいこの中の時鳥という短冊をひき、さては親を尋ねるのだなと占うている所を見ると、その方法も、解説も、極めて浅薄なものであると同時に、如何にも室町期の中頃に行われそうなものであったことが知られるのである。

二 複雑せる巫女と傀儡女との交渉

巫女の工夫した神体としての木偶を、巫女の手から奪って、木偶を舞わせることを独立的に発達させ、傍ら売笑を兼ねた者が、即ち傀儡女クグツメである。従って古代に遡り、源流を究むるほど、巫女と傀儡女との境界は朦朧として、一身か異体か、全く区別する事の出来ぬほどの親密さを有しているのである。前述の東北地方の一部で、今に巫女を傀儡と称しているのは、よく古俗を残したものであって、又その親密さを、よく明らめているのである。藤原明衡の「新猿楽記」の左の一節の如きは、明白に此の間の消息を伝えているのである。

四ノ御許者覡女也。卜占、神遊、寄弦ヨリツル口寄クチヨセ之上手也。舞袖瓢トテ颻如仙人ノ遊。歌声和雅ニテ如頻鳥ノ鳴。非調子ノ琴ノ音。而天神地祇垂影向。無拍子ノ皷ノ声。而□□紙魚不明野干必傾耳。仍天下ノ男女継テ踵来。遠近ノ貴賤為市挙ル。熊米クマシネ積テ無所納。幣紙集不遑数。尋レハ其夫則右馬寮史生。七条已南ノ保長也。姓ハ金集カナツメ。名百成。鍛冶鋳物師〔七〕。并銀金ノ細工也云々。(以上。群書類従本)。

同書は、人も知る如く、藤明衡が、当時(平安期の中葉)西京の猿楽師右衛門尉一家の、三妻、十六女、九男に託して、世相の一端を記したものであるから、直ちにその悉くが事実なりとは断ぜられぬけれども、内容は明衡が耳聞目堵したしたものと思われるので、大体において信用することが出来るようである。而して此の記事に由れば、卜占、神遊、寄弦、口寄等の呪術を行うに際し、舞袖は仙人の遊びの如く、歌声は頻鳥の鳴くに似て、琴の音は神祇を影向させ、皷の声は野干の耳を傾けさせるとは、かなり形容が誇張に過ぎているようではあるが、殆んど巫女か、舞伎か、更に傀儡女であるか、寔にその識別に苦しむほどのものが存するのである。試みに、下に大江匡房の「傀儡子記」の一節を抄録して、如何に両者の内的生活が近似していたかを証示する。

傀儡子者、無定居、無当家、穹廬氈帳、逐水草以移住(中略)。女則為愁眉啼、粧折腰歩齲歯咲、施朱伝粉、唱歌滛楽、以求妖媚(中略)。夜則祭百神、鼓舞喧嘩以祈福助(中略)。動韓峨之塵、余音繞梁周者、霑襟{人偏{{⺕⺕}下女}}不能自休、今様、古川様、足柄片下アシガラカタオロシ(中山曰。是に関しては後に述べる)、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周、風俗、呪師、別法士之類、不可勝計、即是天下之一物也云々(以上。群書類従本)。

彼と之とを比較するとき、巫女は神事を表面の職業とし、傀儡女は唱歌滛楽を世渡りの職業としただけの区別はあるが、その内的生活に至っては、殆ど相択むものなきまでの交渉を有している。殊に、傀儡女が得意とした今様、足柄片下、催馬楽、田歌、辻歌等の総ての歌謡は、悉く元は巫女の得意とし、且つ歌い出したものであるのを、後に傀儡女がこれを以て独立した職業に移したまでなのである。それ故に、巫娼史の観点より言うときは、巫女と傀儡女とは同根の者であったのが、巫女は神に仕える古き信仰を言い立てて糊口の料とし、傀儡女は神を離れ(併し全く離れきれぬ事は百神を祭る点からも察せられる)、信仰を棄てて、倡歌と売笑とを、渡世の業とした区別にしか過ぎぬのである。「和訓栞」に『まひまい虫(中山曰。東京辺の水すまし虫)を備前美作にミコマヒ、東四国にてイタコ虫と云ふ』とあり、更に備前邑久郡にては、巫女の事をコンガラサマと云うのは、同じく水すまし虫のことを、コンガラと称するより出でし方言で〔八〕、共に、巫女が此の虫の如く跳ねたり、踊ったりするので、その動作より形容したものである。併し此の一事は、巫女の古き呪法にシャマニズムの跳躍方面を多分に存していたことを想わせると同時に、後には此の方面と、是れに伴うた歌謡とを傀儡女に持ち去られ、纔に仏法や修験道に寄生して、残喘を保つようになったのである。

三 巫女と遊女と傀儡女と

我国には、古く神々が、定期または臨時に、人里に天降アモりして、氏子の間に神意を啓示する民俗があった。琉球では近年まで此の事が克明に行われていた。曲亭馬琴の「椿説弓張月」に引用した「琉球事略」に載せてある所謂キミテスリの祭は、必ず十月であって、七年に一回の荒神、又は十二年に一回の荒神があり、遠国島々一時に出現す。その年八九月の頃から、前兆として山々の峯にアヲリ(天降アモりの意?)という雲気が現われ、十月に神が出現すれば、託女王臣各々鼓を打ち、歌うたいて神を迎う。王宮の庭を以て神の至る処となし、大なる傘二十余を立つとある。更に「徳之島小史」には、此の光景を一段と精細に記述して、祭典にはカンギヤナシ(内地の巫女と同じ)が各々珍絹を頭に被り、筒袖の白衣を著し、珠玉(内地の曲玉と同じ)を纏い、恰も天神の天降りに擬す。これに随属せる少女をアラホレ(見習巫女とも云うべき者)と称して、十二歳乃至十六歳の無垢神聖の者を以て充つ。アラホレも亦、振袖の白衣を着し、袴を穿ち、頭には鴛鴦の思い羽、或は鷺の寸羽を翳し、日陰蔓を以て鉢巻きなし、大小五色に編みなせる曲玉粒玉の襷をかけ、手には或は軍配団扇の如き物(檳榔葉製)を持ち、或は長刀を携えて舞をなす。此の時一種異様の鈴の響き(琉球本島では鉦)が微かに聞ゆるかと思えば、これぞ神の出現する時だと云っている。而して此の民俗に共通した神事の、我が古代に在ったことは、誠に微弱ながらも、推知し得べき資料が存しているのである〔九〕。これ即ち「賓神マロウドカミ」であって、人里に大事が起る前とか、又は祭典の折などには、天降りますのが常であった。殊に、歳旦とか、田植とか、刈上げとかいう節々(我国の節供の起原はこれである)には、氏子を祝福し、作物を豊穣にするために「寿詞ヨゴト」を下すのを習いとした。而して此の寿詞を伝誦していて、或る場合には、神々の代理者(古代はこれを神その者と考えていた)として述べるのが、巫女の聖職の一つであった。

此の信仰と神事とは、国初期から奈良朝までは厳存していたのであるが、奈良朝の中頃からは、神々の正体が知られて来ると同時に、漸く衰え始めて〔一〇〕、此の寿詞の言い立てをする一種の営業者ともいうべきものが生れるようになった。これが「万葉集」に見えている「乞食者ホカイビト」であって、彼等は年の始めの吉慶に、家屋の新築の棟祝いに、更に旅行の無事を祈る餞別、或は災危を払う呪願などを、当時の美辞麗句で綴りあげて、それを旋律的リズミカルの調子で歌い歩いて、世過ぎの料とした〔一一〕。後世の、千秋万歳、ものよし、大黒舞などは、悉く此の賓神と祝言人との系統に属しているのである。

古く我国の巫女が、好んで鼓を携えていたのは、此の寿詞を唱える折に必要であったためである。鈴も、琴も、鼓も、その古き用法の意味は、神の御声としての象徴であった。曾て鳥居龍蔵氏から承った所によると、我国のツヅミという語は、ウラルアルタイの語系に属し、蒙古、満洲、朝鮮、我国とも、同語原であるとの事である〔一二〕。そうすれば、鼓はシャマニズムと共に北方から輸入されたものであって、巫女の神を降ろすに欠くことの出来ぬ楽器であったとも考えられる。「梁塵秘抄」には、巫女と鼓との関係を詠じたものが尠からず載せてある。

金峰山カネノミタケにある巫女ミコの打つ鼓。打ち上げ打ち下げ面白や。我等も参らばや。ていとんとうとも響き鳴れ。如何に打てばか此の音の。絶えせざるらん。
東北院職人歌合所載の巫女

殊に、ここに挙げたものなどは、両者の交渉をよく説明しているものである。更に「東北院職人歌合」の巫女の条に、嫗の双手に鼓を持てる絵に対して『君とわが口を寄せても寝まほしき、鼓も腹も打たたきつつ』とあるのもその一例であって、巫女と鼓とは離るることの出来ぬ間柄であった。然るに、此の巫女と深甚なる関係を有している——即ち巫娼一体の境地に在った遊女が、やがて、此の鼓を巫女の手から奪って自分の物としてしまい、同じく「梁塵秘抄」にある如く、

アソビ女の好むも雑芸(中山曰。後世の今様)鼓、小端船コハシブネ、大傘かざし艫取女トモトリメ、男の愛祈アイノる百太夫。

となるのである。かくて巫女は、歌謡を傀儡女に持ち去られ、鼓(楽器としての)を遊女に委ねばならぬようになったのである。古い信仰が世の降ると共に影が薄くなり、曾て存したものが様々に分化して、世に推し移って行く有様が偲ばれるのである。巫女が社会の落伍者として、生存の競争場裡から置いてきぼりにされたのも、決して偶然ではなかったのである。

併しながら、傀儡女や遊女に、歌謡や楽器を渡す以前にあっては、音楽と歌舞との保存者は巫女であった。前掲の「傀儡子記」にある足柄片下アシガラカタオロシとは、即ち足柄{○相/模国}明神の伝えた神歌なのである。「郢曲抄」によれば、

足柄は神歌にて、風俗といへども其の品替るなり(中略)。足柄明神の神歌故に、風俗といへども其の音あり。

と記し、更に高源光行の「海道記」には、

山祇ヤマズミの昔の歌を、遊女(中山曰。巫娼の意)が口に伝へ、嶺猿の夕の啼は、行人の心を痛ましむ、昔青墓{○美/濃国}の宿の君女、この山を越えけるとき、山神翁に化して歌を教へたり、足柄といふ是なり。

とあるように、神歌を伝えたものは巫女であった。これを後に残したものが遊女なのであった〔一三〕。かく考えて来ると、巫女と、傀儡女と、遊女とは、一元から出発したもので、然も此の三角関係が意外に複雑しているのも道理であることが知られるのである。

〔註一〕
神遊びの後身が直ちに神楽であるという説には、多少の疑義があることと思うが、私は屢記の如く、神楽は古く葬礼にのみ限って行われたものと考えているので、姑らく此の説を支持したいと思う。
〔註二〕
伴信友翁の「正卜考」後附に拠った。流布本の「平治物語」にもあるが、半井本と多少の出入があるので、今はこれに従った。
〔註三〕
国学院大学の郷土会で講演したことがある。誠に拙きものではあるが、神詠なるものが、平安朝になってから、急に増加したことは、我国の託宣史上、注意すべき点である。
〔註四〕
「野守鏡」の序文に、神仏の詠まれた和歌の多くが載せてあるが、更に「新古今集」の神祇部と、釈教部とにも多く載せてある。
〔註五〕
拙著「日本婚姻史」に、神判成婚の一例として挙げて置いた。敢て参照を望む。
〔註六〕
我国の御籤なるものも相当に古いもので、「斉明紀」四年十一月の条に「短籍」とあるのがそれで、降っては「吾妻鏡」脱漏元仁二年三月卅一日の条、及び「明月記」貞永二年正月廿一日の条などに見えている。
〔註七〕
シャーマン教における巫女と、鍛冶職との関係に就いては、有賀右衛門氏が「民族」誌上に高見を発表されている。我国には、是等の関係を考覈すべき資料が残っていぬが、偶々「新猿楽記」に此の一事が見えている。これは遇然のことであろうが、参考までに言うとした。
〔註八〕
これは総論第一章第一節に挙げて置いたので、報告者の氏名は略すが、兎に角に、昔の巫女は甚だしく跳ねたり踊たりしたものと見える。今に見る神楽巫女の動作だけでは、かかる俚称は起ろうとも思われぬ。
〔註九〕
折口信夫の談によると、鈴木重胤翁の「祝詞講義」の大殿祭の条に引用した文献に、それを考えさせるものがあるとの事である。
〔註一〇〕
「山原の土俗」に神を捕える話が二つ載せてある。そして捕えた神は巫女であって、殊にその一つには、捕えた男の母が神の中に加っていたとのことである。
〔註一一〕
此の条は折口信夫氏の研究をそのまま拝借し、且つ祖述したものである。明記して敬意を表す。
〔註一二〕
星野輝興氏が主催されていた祭祀研究会の講演で承ったものである。
〔註一三〕
「更級日記」に、足柄山で遊女が歌を謡ったことが載せてあるが、或はこれは神歌の面影を伝えたものではなかろうかと思われる。全文は有名なものゆえ、態と省略した。