「日本巫女史/第二篇/第六章/第二節」を編集中
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: '''鎮魂祭''' | : '''鎮魂祭''' | ||
: 官人以下<sub>ノ</sub>装束料。{中宮宮/主准此} | : 官人以下<sub>ノ</sub>装束料。{中宮宮/主准此} | ||
: (前略)。御巫{中宮。東宮。/御巫准此}御門<sub>ノ</sub>巫一人。生島<sub>ノ</sub>巫一人<sub>ニ</sub>。各青摺<sub>ノ</sub>袍一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。<ruby><rb>下衣</rb><rp>(</rp><rt>シタカサネ</rt><rp>)</rp></ruby>一領。{表裏別/帛三丈} | : (前略)。御巫{中宮。東宮。/御巫准此}御門<sub>ノ</sub>巫一人。生島<sub>ノ</sub>巫一人<sub>ニ</sub>。各青摺<sub>ノ</sub>袍一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。<ruby><rb>下衣</rb><rp>(</rp><rt>シタカサネ</rt><rp>)</rp></ruby>一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。単衣一領。{帛三/丈}表裙一腰。{表裏別帛/三丈。腰料一丈}綿二屯。下裾一腰。{同/上}袴一腰。{帛三丈/五尺}綿二屯。単袴一腰。{帛二/丈}<ruby><rb>帔</rb><rp>(</rp><rt>ウチカケ</rt><rp>)</rp></ruby>一條。{帛二/丈}<ruby><rb>褶</rb><rp>(</rp><rt>ヒラミ</rt><rp>)</rp></ruby>一條。{緋帛/四丈}紐一条。{錦三/丈}髻髪并襪料細布一丈。領布<sub>ノ</sub>紗七尺。櫛二枚。履一両。座摩巫一人<sub>ニ</sub>青摺袍一領{表裏別帛/二丈五尺}綿一屯。下衣一領{同/上}綿一屯。単衣一領。{帛二丈/五尺}表裙一腰。{表裏別帛三丈/腰料一丈}綿一屯。下裙一腰。{同/上}袴一腰。{帛一丈/五尺}綿一屯。単袴一腰。{帛一/丈}<ruby><rb>帔</rb><rp>(</rp><rt>ヒ</rt><rp>)</rp></ruby>一條。{帛一/丈}褶一條。{緋帛一/丈五尺}紐一条。{錦一/丈}領巾・六尺。襪<sub>ノ</sub>料細布五尺。履一両(以上。巻二。四時祭下)。 | ||
以上の祭儀を一々詳述して、御巫及び巫等の職掌を細説し、而して是等の給分の事を説明すべきであるが、そう克明に渉らずとも、大体は会得されることと信じたので省略した。而して、伊勢の両皇太神宮における物忌の定員、及び給分等は、「延喜式」巻四によると、大略左の如きものである。 | 以上の祭儀を一々詳述して、御巫及び巫等の職掌を細説し、而して是等の給分の事を説明すべきであるが、そう克明に渉らずとも、大体は会得されることと信じたので省略した。而して、伊勢の両皇太神宮における物忌の定員、及び給分等は、「延喜式」巻四によると、大略左の如きものである。 | ||
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: 補任 八乙女神人事 | : 補任 八乙女神人事 | ||
: 橘氏女 | : 橘氏女 | ||
: | : 右以彼人処補任神人八乙女等宜承知、敢以勿違失、依大衆僉議、所補任之状如件 | ||
: 延徳二年四月 日 公文在庁法印 | : 延徳二年四月 日 公文在庁法印 | ||
: 院主伝燈大法師 | : 院主伝燈大法師 | ||
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: 延応二年二月二十五日 前武蔵守(泰時) | : 延応二年二月二十五日 前武蔵守(泰時) | ||
斯うして幕府の保護のあるうちは、まだ巫女の給分も多少の確実性を有していたが、これが武家の押領が猖んになり、此の反対に神威が行われぬようになれば、巫女の生活の如きは、有るか無きかの境遇に落されたのも、又た止むを得ぬ世の帰趨であった。 | |||
更に神社を離れて村落に土着した口寄系の市子の収入であるが、之に就いては、皆目知ることが出来ぬのである。これこそ、全く私の寡聞の致すところではあるが、止むを得ない。江戸期になると、多少とも知るべき手掛りが残っているが、それ以前にあっては、その手掛りすら発見されぬ。併しながら、強いて想像すれば、その収入は決して多かったものとは考えられぬ。後世の事情を以て中世を推しても、流行ッ児とか上手とか言われる程の者であったら、生活するだけ位の収入もあったろうが、それ以外の者では、漸く糊口の料を得るのが関の山であったろう。旅を漂泊した巫女にあっても、内職の性的収入を別にしたら、その所得は必ず尠少であったに相違ない。 | 更に神社を離れて村落に土着した口寄系の市子の収入であるが、之に就いては、皆目知ることが出来ぬのである。これこそ、全く私の寡聞の致すところではあるが、止むを得ない。江戸期になると、多少とも知るべき手掛りが残っているが、それ以前にあっては、その手掛りすら発見されぬ。併しながら、強いて想像すれば、その収入は決して多かったものとは考えられぬ。後世の事情を以て中世を推しても、流行ッ児とか上手とか言われる程の者であったら、生活するだけ位の収入もあったろうが、それ以外の者では、漸く糊口の料を得るのが関の山であったろう。旅を漂泊した巫女にあっても、内職の性的収入を別にしたら、その所得は必ず尠少であったに相違ない。 |