日本巫女史/第二篇/第四章/第一節」を編集中

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紀州の熊野神社は、古代に出雲の熊野から移住した民族が遷宮奉祀したものであるが、平安期に至り、朝野を通じて、熾烈なる信仰を集めるようになった。宇多帝より亀山帝に臻る九帝の行幸は、実に九十八回の多きに達し、皇后王妃の行啓もまた決して少くなかった。就中、鳥羽帝は二十一回、後白河帝は三十四回、後鳥羽帝は二十八回まで、共に御一代のうちに幸詣されている。上の好むところ下これより甚だしきのはなしの譬にもれず、皇室の尊崇が既にかくの如くであるから、権門勢家より農民商估に至るまで、総ての階級を通じて、殆んど神詣でといえば、熊野詣りが信仰の中心となっていた。俚諺に蟻群の集り走るを今に『熊野参り』というのは、当時、四方より雲集する熊野道者を形容したことから出たもので、更に後世の子守歌に熊野道中の悲劇を題材としたものが多いのは、又た当時の伝承であることが知られるのである〔一〕。
紀州の熊野神社は、古代に出雲の熊野から移住した民族が遷宮奉祀したものであるが、平安期に至り、朝野を通じて、熾烈なる信仰を集めるようになった。宇多帝より亀山帝に臻る九帝の行幸は、実に九十八回の多きに達し、皇后王妃の行啓もまた決して少くなかった。就中、鳥羽帝は二十一回、後白河帝は三十四回、後鳥羽帝は二十八回まで、共に御一代のうちに幸詣されている。上の好むところ下これより甚だしきのはなしの譬にもれず、皇室の尊崇が既にかくの如くであるから、権門勢家より農民商估に至るまで、総ての階級を通じて、殆んど神詣でといえば、熊野詣りが信仰の中心となっていた。俚諺に蟻群の集り走るを今に『熊野参り』というのは、当時、四方より雲集する熊野道者を形容したことから出たもので、更に後世の子守歌に熊野道中の悲劇を題材としたものが多いのは、又た当時の伝承であることが知られるのである〔一〕。


私はここに熊野信仰の由来や発達を記すことは、多岐に渉るので省筆するが〔二〕、既に平安朝には本地垂跡の説が大成され、神仏一如の思想も普及され、殊に熊野の地は伊弉冊尊が、有馬の花ノ窟に葬られたという伝説から導かれて古代から同地は死に由縁の深い場所とせられていた。中古、本宮を現世の極楽浄土と観じた様子は「源平盛衰記」等にも載せ、現今でも、妙法山を近郡の死人の霊が、枕飯の出来る間に必ず一度は詣るべき所とするなど、仏法渡来以前から死霊に大関係ある地として、一般に信仰されていたのである〔三〕。加之、観音信仰の隆盛になった平安朝の中頃から、熊野浦は補陀洛渡海(生身の観音を拝むとて舟に乗り、浪のまにまに自ら水葬する方法である)の解纜地として俗信を博していた〔四〕。
私はここに熊野信仰の由来や発達を記すことは、多岐に渉るので省筆するが〔二〕、既に平安期には本地垂跡の説が大成され、神仏一如の思想も普及され、殊に熊野の地は伊弉冊尊が、有馬の花ノ窟に葬られたという伝説から導かれて古代から同地は死に由縁の深い場所とせられていた。中古、本宮を現世の極楽浄土と観じた様子は「源平盛衰記」等にも載せ、現今でも、妙法山を近郡の死人の霊が、枕飯の出来る間に必ず一度は詣るべき所とするなど、仏法渡来以前から死霊に大関係ある地として、一般に信仰されていたのである〔三〕。加之、観音信仰の隆盛になった平安朝の中頃から、熊野浦は補陀洛渡海(生身の観音を拝むとて舟に乗り、浪のまにまに自ら水葬する方法である)の解纜地として俗信を博していた〔四〕。


斯うした事象だけでも、熊野神は、民間信仰を集めるのに、総ての要素を具えていた上に、更に有力なる一事象を加えていたのである。それは他事でも無く、熊野神への参詣は、伊勢の内宮・外宮と同じである——否々、熊野の祭神は、伊勢皇大神の親神であるから、これへ参詣することは、伊勢へ参詣するよりも、御利益が多いと世間が考えていたことである。勿論、世間が斯う考えるに至った理由は、伊勢神宮は国家の宗廟として、皇室の祖神として、古くから「私幣禁断」の制が厳かに施かれ、貴姓臣僚といえども濫りに奉幣することは許されず〔五〕、況んや農商漁樵輩に至っては、神官に近づくことすら警められていたのである。殊に斯うした関係から、伊勢神宮の分祠は絶対に禁ぜられ、神宮に由緒ある各地の御厨でさえ、漸く神明宮の名で祭ることを、黙許されていたという有様であった。かくて伊勢神宮に対する民間信仰は、熊野神に移るようになり、後には熊野明神と称して崇拝されることとなった。
斯うした事象だけでも、熊野神は、民間信仰を集めるのに、総ての要素を具えていた上に、更に有力なる一事象を加えていたのである。それは他事でも無く、熊野神への参詣は、伊勢の内宮・外宮と同じである——否々、熊野の祭神は、伊勢皇大神の親神であるから、これへ参詣することは、伊勢へ参詣するよりも、御利益が多いと世間が考えていたことである。勿論、世間が斯う考えるに至った理由は、伊勢神宮は国家の宗廟として、皇室の祖神として、古くから「私幣禁断」の制が厳かに施かれ、貴姓臣僚といえども濫りに奉幣することは許されず〔五〕、況んや農商漁樵輩に至っては、神官に近づくことすら警められていたのである。殊に斯うした関係から、伊勢神宮の分祠は絶対に禁ぜられ、神宮に由緒ある各地の御厨でさえ、漸く神明宮の名で祭ることを、黙許されていたという有様であった。かくて伊勢神宮に対する民間信仰は、熊野神に移るようになり、後には熊野明神と称して崇拝されることとなった。
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