日本巫女史/第二篇/第四章/第三節」を編集中

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と載せてあるが、流布本の三才図会にはかかる記載なく、且つ若狭風土記などいう書物は寡見に入らぬ。よし又、これが記載してあったとしても、単にこれだけでは、若狭生れの証拠とはならぬ。
と載せてあるが、流布本の三才図会にはかかる記載なく、且つ若狭風土記などいう書物は寡見に入らぬ。よし又、これが記載してあったとしても、単にこれだけでは、若狭生れの証拠とはならぬ。


然るにこれに反して、若狭以外の生地に就いては、段々と各地に資料が残されている。奥州会津地方の俗伝によれば、秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して(中山曰。人魚でないことに注意されたい)長寿を保ち、八百比丘尼となった〔三〕。美濃国益田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、『漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり』と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている〔四〕。此の末節の謎のような歌は、墓所の地相を詠んだもので〔五〕、後から比丘尼に附会した話である。同国稲葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云う長者があり、娘一人を残して死んだ。娘は麻木の箸で食事をなし、その箸に付いた飯粒を池魚に施した功徳で、八百歳の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名号の碑を存している〔六〕。此の話も箸信仰に関するものを〔七〕、後人が継ぎ合せたもので、前の話とともに、八百比丘尼の伝説としては価値の少いものである。飛騨国吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れたもので、本名は道春というた。同郡上宝村大字在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち来って栽えたものである。根は一本で、六尺ばかりのところで七本に分れ、根の囲り十抱えある大杉で二本ある〔八〕。
然るにこれに反して、若狭以外の生地に就いては、段々と各地に資料が残されている。奥州会津地方の俗伝によれば、秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して(中山曰。人魚でないことに注意されたい)長寿を保ち、八百比丘尼となった〔三〕。美濃国増田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、『漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり』と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている〔四〕。此の末節の謎のような歌は、墓所の地相を詠んだもので〔五〕、後から比丘尼に附会した話である。同国稲葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云う長者があり、娘一人を残して死んだ。娘は麻木の箸で食事をなし、その箸に付いた飯粒を池魚に施した功徳で、八百歳の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名号の碑を存している〔六〕。此の話も箸信仰に関するものを〔七〕、後人が継ぎ合せたもので、前の話とともに、八百比丘尼の伝説としては価値の少いものである。飛騨国吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れたもので、本名は道春というた。同郡上宝村大字在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち来って栽えたものである。根は一本で、六尺ばかりのところで七本に分れ、根の囲り十抱えある大杉で二本ある〔八〕。


それから越後国三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女があった。妖色仙姿にして、年を経るも齢傾かず、常に十六七歳の処女に等しく、三十九度他家へ嫁し(中山曰。婚数が諸書必ずしも一致しない点に、伝説の成長という事が考えられる)、後に剃髪して諸国を巡り、若狭小浜の空印寺境内に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、処女の如かりし故に、八百比丘尼と称した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、世に八百比丘尼物語という書物がある。尼は天然に死ぬことが出来ぬと悟り、元文年中境内に入定し遺品がある。尼の生家は、高津金五郎と称し現存し、遺物とて越後の古絵図一枚ある〔九〕。此の伝説は、八百比丘尼が名の如く八百年生きたものと信じて書いたところに、古人の質朴さが窺われ、且つ尼の生家が残っているなどは、益々以て面白いことである。伝説と歴史との相違を判然と知らなかった著者には、無理もないことであるが、それにしても元文といえば僅に百五十年前ばかりのころであるのに、此の不思議な尼が生きていたと信ずるとは罪の無いことである。殊に尼が天然に死す能わずと悟って入定したとは、愈々以て伝説の世人を迷わす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所があると伝えているが〔一〇〕、これなども余り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。
それから越後国三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女があった。妖色仙姿にして、年を経るも齢傾かず、常に十六七歳の処女に等しく、三十九度他家へ嫁し(中山曰。婚数が諸書必ずしも一致しない点に、伝説の成長という事が考えられる)、後に剃髪して諸国を巡り、若狭小浜の空印寺境内に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、処女の如かりし故に、八百比丘尼と称した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、余に八百比丘尼物語という書物がある。尼は天然に死ぬことが出来ぬと悟り、元文年中境内に入定し遺品がある。尼の生家は、高津金五郎と称し現存し、遺物とて越後の古絵図一枚ある〔九〕。此の伝説は、八百比丘尼が名の如く八百年生きたものと信じて書いたところに、古人の質朴さが窺われ、且つ尼の生家が残っているなどは、益々以て面白いことである。伝説と歴史との相違を判然と知らなかった著者には、無理もないことであるが、それにしても元文といえば僅に百五十年前ばかりのころであるのに、此の不思議な尼が生きていたと信ずるとは罪の無いことである。殊に尼が天然に死す能わずと悟って入定したとは、愈々以て伝説の世人を迷わす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所があると伝えているが〔一〇〕、これなども余り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。


能登国には、何故か不思議に、八百比丘尼に関する遺跡や、伝説が多いので、茲にその総てを挙げることは出来ぬが、一つだけ掲げると、「能州名跡志」巻一に、
能登国には、何故か不思議に、八百比丘尼に関する遺跡や、伝説が多いので、茲にその総てを挙げることは出来ぬが、一つだけ掲げると、「能州名跡志」巻一に、


: 羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり(中略)。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり(中山曰。椿の枝を持つことが、尼の巫女であった一証である。注意せられたい)云々。土地の伝に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる(中略)。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。
: 羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり(中略)。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり(中山曰。椿の枝を持つことが、尼の巫女であった一証である。注意せられたい)云々。土地の称に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる(中略)。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。


とある。人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである。佐渡国佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡というがある。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせたのであると伝えている〔一一〕。因幡国岩美郡には八百比丘尼の生地を二ヶ所伝えている。前者は稲葉村大字卯垣の古城主が、河狩のとき竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、その後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人残りて長寿を保ったと云い、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持ち帰り、娘が食って八百比丘尼となったと云うている〔一二〕。父が食って娘が長生したという話も可笑しいが、更に此の事を記した著者が、『惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城など云ふは、国中所々にあり、皆毛無山の俗称なり』と論じているのも、比丘尼と称する者が漂泊し土着したことを閑却した説である。
とある。人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである。佐渡国佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡というがある。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせたのであると伝えている〔一一〕。因幡国岩美郡には八百比丘尼の生地を二ヶ所伝えている。前者は稲葉村大字卯垣の古城主が、河狩のとき竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、その後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人残りて長寿を保ったと云い、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持ち帰り、娘が食って八百比丘尼となったと云うている〔一二〕。父が食って娘が長生したという話も可笑しいが、更に此の事を記した著者が、『惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城など云ふは、国中所々にあり、皆毛無山の俗称なり』と論じているのも、比丘尼と称する者が漂泊し土着したことを閑却した説である。
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