日本巫女史/第二篇/第四章/第三節

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日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第四章 巫女の漂泊生活と其の足跡

第三節 漂泊巫女の代表的人物八百比丘尼

若狭国の八百比丘尼——苟くも我国の民間伝承に興味を有った者で、更に巫女の考察に趣味を有った者で、恐らく此の名を知らぬ者は無かろうと思われるほどの有名な人物であるが、さてその正体はと云うと、恐らく誰でも突き留めた者は無いというほどの厄介な人物なのである。これに関しては、古く山崎美成翁も記述を残し、近くは西川玉壺翁も考証を試みたが〔一〕、前者は断片的で報告にとどまり、後者は言筌に落ちて、失敗に終った。私は此の怪談に包まれた八百比丘尼こそ、漂泊巫女の代表的人物と考えているので、茲にやや詳しく短見を述べるとする。

八百比丘尼の伝説は、室町期に大成されたものであるが、その出自が、怪奇を極めている上に、此の伝説を運搬したものが、漂泊をつづけた巫女だけに、殆んど全国に分布されている。加之、運搬の際に、幾らづつか語りゆがめたものも見え、時により、処により、話の筋に多少の出入があって、頗る複雑なものとなってしまった。さればと言うて、その伝説を一々挙げて、これが異同を究めるのは、容易なことではないし、又それ迄に広く探す必要もあるまいと信ずるので、先ず伝説の本筋とも見るべきものを示し、これを基調として、二三の異説を対照して、次に私見を述べるとする。

林道春の「本朝神社考」巻六都良香の条に、

余が先考嘗て語りて曰く、伝へ聞く、若狭の国に白比丘尼と号するものあり、其父一旦山に入りて異人に遇ふ、与に倶に一処に到る殆ど一天地にして、別世界なり。其の人一物を与えて曰く、是れ人魚なり、之を食するときは年を延で老いずと、父携へて家に帰る、その女子、迎へ歓んで衣帯を取る、因りて人魚を袖に得て乃ち之を食ふ{蓋し肉芝/の類か}女子寿四百余歳、所謂る白比丘尼是なり、余幼齢にして此事を聞きて忘れず云々〔二〕。

とあるのが、先ず伝説の本筋である。若者道春が幼齢で此事を聞くとあるのは、室町期の末葉天正十五六年の交と思われるので、此の頃は既に立派に伝説は完成されていたのであろう。尤も八百比丘尼が京都へ来て俗信を集めたことは、信用すべき史料なる「康富紀」及び「臥雲日件録」の文安六年五月から七月までの記事に見えているので、此の比丘尼の出没は、天正頃よりは更に百五六十年も前のことであるのは疑いないが、その伝説がやや纏って物の本に記されたのは、神社考が最古のように考えたので、先ずこれを典拠として説を試みる次第なのである。而してこれに由ると、(一)若狭国の生れであって、(二)白比丘尼と称したこと、(三)人魚を食うて長寿を保ち、(四)四百歳を生存したことが知られるのであるが、然るに是等に就ては、その一々に異説があるので、それを掲げて見ようと思う。元々、巫女が持ち歩いた伝説に過ぎぬものを、力瘤を入れて詮議するのも心無いことのように考える者もあるかも知れぬが、巫女の漂泊者が、極めて小さな意味の文化ではあるが、伝説や歌謡や物語などを、足跡のとどまる所に植えつけて往ったことを知る上に、相当の意義が潜んでいると信ずるので、敢て此の態度を執るとした。

第一の生地に就いては、若狭というのが通説となっているが、併し「若狭郡県志」にも「向若録」(同国の地誌)にも、八百比丘尼は遠敷郡の後瀬山麓の空印寺にある洞窟に隠栖したとは記してあるが、決して同国で生れたとは載せてない。「勢陽五鈴遺響」鈴鹿郡平野村八百比丘尼塚の条に、

白比丘尼俗に八百比丘尼と称す、若狭に神に祭りて八百姫神明と崇めたり、和漢三才図会引若狭国風土記云、昔此国有男女、為夫婦共長寿、人不知其年齢、容貌若如少年、後為神今一宮是也、因称若狭国云々。

と載せてあるが、流布本の三才図会にはかかる記載なく、且つ若狭風土記などいう書物は寡見に入らぬ。よし又、これが記載してあったとしても、単にこれだけでは、若狭生れの証拠とはならぬ。

然るにこれに反して、若狭以外の生地に就いては、段々と各地に資料が残されている。奥州会津地方の俗伝によれば、秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して(中山曰。人魚でないことに注意されたい)長寿を保ち、八百比丘尼となった〔三〕。美濃国増田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、『漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり』と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている〔四〕。此の末節の謎のような歌は、墓所の地相を詠んだもので〔五〕、後から比丘尼に附会した話である。同国稲葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云う長者があり、娘一人を残して死んだ。娘は麻木の箸で食事をなし、その箸に付いた飯粒を池魚に施した功徳で、八百歳の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名号の碑を存している〔六〕。此の話も箸信仰に関するものを〔七〕、後人が継ぎ合せたもので、前の話とともに、八百比丘尼の伝説としては価値の少いものである。飛騨国吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れたもので、本名は道春というた。同郡上宝村大字在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち来って栽えたものである。根は一本で、六尺ばかりのところで七本に分れ、根の囲り十抱えある大杉で二本ある〔八〕。

それから越後国三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女があった。妖色仙姿にして、年を経るも齢傾かず、常に十六七歳の処女に等しく、三十九度他家へ嫁し(中山曰。婚数が諸書必ずしも一致しない点に、伝説の成長という事が考えられる)、後に剃髪して諸国を巡り、若狭小浜の空印寺境内に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、処女の如かりし故に、八百比丘尼と称した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、余に八百比丘尼物語という書物がある。尼は天然に死ぬことが出来ぬと悟り、元文年中境内に入定し遺品がある。尼の生家は、高津金五郎と称し現存し、遺物とて越後の古絵図一枚ある〔九〕。此の伝説は、八百比丘尼が名の如く八百年生きたものと信じて書いたところに、古人の質朴さが窺われ、且つ尼の生家が残っているなどは、益々以て面白いことである。伝説と歴史との相違を判然と知らなかった著者には、無理もないことであるが、それにしても元文といえば僅に百五十年前ばかりのころであるのに、此の不思議な尼が生きていたと信ずるとは罪の無いことである。殊に尼が天然に死す能わずと悟って入定したとは、愈々以て伝説の世人を迷わす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所があると伝えているが〔一〇〕、これなども余り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。

能登国には、何故か不思議に、八百比丘尼に関する遺跡や、伝説が多いので、茲にその総てを挙げることは出来ぬが、一つだけ掲げると、「能州名跡志」巻一に、

羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり(中略)。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり(中山曰。椿の枝を持つことが、尼の巫女であった一証である。注意せられたい)云々。土地の称に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる(中略)。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。

とある。人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである。佐渡国佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡というがある。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせたのであると伝えている〔一一〕。因幡国岩美郡には八百比丘尼の生地を二ヶ所伝えている。前者は稲葉村大字卯垣の古城主が、河狩のとき竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、その後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人残りて長寿を保ったと云い、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持ち帰り、娘が食って八百比丘尼となったと云うている〔一二〕。父が食って娘が長生したという話も可笑しいが、更に此の事を記した著者が、『惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城など云ふは、国中所々にあり、皆毛無山の俗称なり』と論じているのも、比丘尼と称する者が漂泊し土着したことを閑却した説である。

紀伊国那賀郡丸栖村大字丸栖の村老相伝えて、八百比丘尼は、此の村の産と云うている。今その証拠となるべきは何も無いが、此の事は若狭でも信じていると云う〔一三〕。土佐国高岡郡須崎村多之郷の鴨神社の華表の傍に、八百比丘尼の塔というがある。白鳳年間の事であるが、漁人が大坊海で人魚を獲て娘が食い、長寿を享け、諸国を遍歴し、若狭に留りしが、後に帰郷して死んだ〔一四〕。筑後国山門郡東山村字本吉の俚伝に、奈良朝頃に唐人竹本翁というが住み、その娘が同郡舞鶴城主牡丹長者に仕えた。或る時、肥後の桑原長者から稀有の螺貝の肉を贈ったのを、娘盗み食って長寿を保ち、一良人に二三十年。又は六七十年仕えしも、合計二十余人の多きに達したという〔一五〕。此の話は「仙女物語」の骨子となっているのであるが、それを言い出すと長くなるので割愛する。猶お筑前遠賀郡芦屋町庄ノ浦にも、長寿貝を食った八百比丘尼系の伝説を載せているが〔一六〕、これも埒外に出るので省略した。

第二の白比丘尼と称した事は、既載のうち伊勢、若狭、能登の記事にも見えているが、まだ此外にも存している。相模国足柄下郡元箱根塞ノ河原に白比丘尼の墓がある。文字数十字を鐫れど漫滅して読めぬ。武蔵国足立郡植田谷領にも白比丘尼の旧蹟が残っているそうだ〔一七〕。伊勢国鈴鹿郡関町の地蔵堂に、白比丘尼が宝蔵寺と自筆した額が什物として残っている〔一八〕。詮索したら、猶お幾らでも出て来ると思うが、此の事は八百比丘尼の一名を白比丘尼と称したという点が明確になりさえすれば、宜しいのであるから、今は詮索の手を余り延さぬ事とする。

第三の人魚を食ったという点であるが、これは既記の如く、多数はこれに一致し、僅に九穴貝と螺貝を食ったというのが一二あるだけゆえ、これも深い詮索は差控えるとする。殊に伝説の本筋から言えば、人魚でも長寿貝でも、更に林道春の考えた如く肉芝であっても差支はなく、要するに、長命を合理化させんために、異物を食したことに仮托したまでのことである。

第四は尼の長寿の年数であるが、神社考には四百歳と云い、他は概して八百歳と云い、然も八百比丘尼の名の起りは、此の年寿に由るものだと称している。此の問題も、武内宿禰の三百六十歳や、浦嶋の年の数と同じく、四百歳というも、八百歳と云うも、伝説のことゆえどうでも宜しいのであるが、更に考えて見なければならぬ事は、八百比丘尼の名の由来が、果して年寿から負うたものか否かという点である。曾て南方熊楠氏は、これに就いて、

八百比丘尼ということ、劉宋天竺三蔵求那跋陀羅訳「菩薩方便境界神通変化経」中巻に、世尊説是経時、八百比丘尼脱優多羅僧衣以奉上仏云々。文字麁なる時代には、こんな事を説解して、八百人を八百歳と合点し伝説出来しかとも覚ゆ。しめじが原のさしもぐさは衆生の事なるを(中山曰。此の歌は新古今集に清水観音の詠としてある)、しめじが原の艾は名産と心得、例の瀉をなみから片男波も名所となり、蜀山人の書きしものに、松年という女郎にきかばやという舞妓も出来し由の類か〔一九〕。

南方氏一流の考察を試みられているが、私は別に稚見を有しているので、後で纏めて述べる事とする。

而して尼の在世時代に就いては、諸説全く区々としている。遠く奈良朝の白鳳年間というのがあるかと思えば、或は近く江戸期の元文年中というのもあり、更に越後柏崎町の十字街路にある石仏には、「大同二年八百比丘尼建之」と彫刻して、今に文字鮮明なりと云っている〔二〇〕。殊に馬鹿げたものには、尼が若狭に居るとき、源義経主従が山伏姿となって、奥州へ落ちて行くのを、目撃したという話の伝えられていることであるが〔二一〕、これ等は共に、伝説が持ち運ぶ人により、移し植えられた所により、如何ようにも変化し、成長するものであるということを示唆する以外には、学問上、さして価値のある問題ではない。要するに此の伝説は、室町期において大成されたものと思えば、間違いないのである。

私案を記す前に、猶お八百比丘尼の足跡が、如何に広汎に印されているかに就いて、極めて大略だけを(前載の地方と重複するものは省筆して)述べて置きたい。これは中古の巫女が、漂泊生活を送った旁証として、多少の参考となるものと信ずるからである。武蔵国には、此の尼の由縁の地が数十ヶ所ほどあるが、殊に有名なのは、北豊嶋郡瀧野川町大字中里に庚申ノ碑三基あるが、その中央に建てるは、尼の建てし古碑と称し、高さ四尺ほどある。又これより東北十丁余の田の中に、雑木の茂れる森があるが、俗に比丘尼山と云い、八百比丘尼の屋敷跡と伝えている〔二二〕。北足立郡新郷村大字峰の八幡宮の境内に、銀杏の老樹がある。尼の手植えと云い、更に尼は同郡貝塚村の人とも云うている〔二三〕。猶お此の外に、尼の守護仏であった寿地蔵を祀った土地もあるが省略する。下総国海上郡椎柴村大字猿田に、比丘杉とて樹齢一千年以上を経た老木がある。八百比丘尼が植えた物と伝えていたが、明治三十八年六月に伐採された〔二四〕。駿河国沼津市に八百姫明神というがある。来由未詳だが、一説には尼と関係あるとも云う〔二五〕。隠岐国には尼の手植えの杉が三本あったが、その中一本大風に吹き折られ、その木だけで一宮の本社拝殿の普請が出来たと云われている〔二六〕。まだ各地に残っているが、概略にとどめて、愈々結論に入るとする。

さて長々と書きつづけて来た八百比丘尼の正体は、聡明なる読者は既に気付かれたことと思うが、一言にして云えば、オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬのである。オシラ神の発生や、分布に就いては、後に述べるが、此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以するのである。それを白の字を充て嵌めたために、伊勢の白子で生れたとか、更に白ッ子と称する女性で、何年たっても処女の如しとか云う伝説を生むようになったのである。

尼が長寿を保ったと云うのに就いては、室町期において発生した他の長寿譚を併せ考えて見る必要がある。これに関しては、既に柳田国男先生が説かれた如く、常陸坊海尊、残夢和尚、鬼三太等が、三百年五百年の長命をしたという物語が、一般民衆の間に歓迎されていたことである〔二七〕。然るに、オシラ神を持って諸国を漂泊した白比丘尼が若狭国の八百姫神社に附会されるようになった。「塩尻」巻五に、

俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり、これ何人ぞ。曰く八百姫明神の事なり、祠若州小浜に有り、姫の歌に「若狭路や白玉椿八千代へて、またも越しなむ矢田坂ママかは」その縁起は実に妖妄の事なり。

とある如く、これに附会されると同時に、一方長寿譚の影響を受けて、ここに八百姫から思いついた八百歳説が唱えられるようになり、更に長寿を合理的に考えさせるために人魚や九穴貝のことが〔二八〕、段々と工夫され、追加されるようになったのである。

室町期は、暗黒時代と云われるだけに、民衆は政治的にも、経済的にも、塗炭の苦杯を続けざまに満喫させられた。それだけに迷信が猖んであって、巫覡の徒はその間隙に乗じて跋扈跳梁した。江戸期から明治期の後半まで民間に行われていた有らゆる迷信は、殆んど室町期に大成されたものであって、我国の迷信史においては、平安期と対立して重要なる位置を占め、殊に前者が貴族的であるに反して、後者が民衆的であっただけに、一段と関心すべき内容を有しているのである。斯うした世相において、巫覡の徒が、民間信仰に培われた八百比丘尼を利用し、これを言い立てて、漂泊と収入の便としたことは見易いことである。「康富紀」文安六年五月の条に『若狭白比丘尼上洛、又東国比丘尼於洛中致談議事』と記し(中山曰。目録のみ本文は欠けている)、更に「臥雲日件録」文安六年七月二十六日の条に『近時八百歳老尼、若州より洛に入る。洛中のもの争ひ観んとす。堅く居るところの門戸を閉て、人に容易く看せしめず、かかれば貴者は百銭を出し、賎者は十銭を出す、然らざれば門に入ることを許さず』とあるのは〔二九〕、全く伝説を利用した計画の図星に当ったものと云えるのである。

而して此の尼が手にした椿(又尼が植えたという椿山は既記の能登の外にも各地にある)こそ、古き熊野神が諾尊の唾液ツバキから化生した事を象徴したものであって、然も此の椿が(我国のと支那のと同字異木である事は既述した)嘉樹瑞木としてよりは、更に我国における生命の木とまで信仰されるようになったので、これを持つことが、彼女の巫女であったことを物語っているのである。猶お、八百比丘尼と対立して考うべきものに、七難の揃毛ソソゲを有した巫女の在ったことである。これは後段に述べるが、彼之を参照するとき、此の種の巫女が室町期に出現するのも、決して偶然でないことが知られるのである。

〔註一〕
山崎翁の説は「海録」に、西川翁の説は「上毛及び上毛人」に連載された。西川翁には、生前二三度お目にかかったこともあるが、私の所謂ブルジョア神道の、更に化石したような説の持主であった。
〔註二〕
「本朝神社考」は、原本は漢文であるが、ここに「大日本風教叢書」本の訳文を引用した。
〔註三〕
「新編会津風土記」巻五十五。
〔註四〕
「岐阜県益田郡誌」。
〔註五〕
朝日夕日の歌が、墓所の地相を詠じたものであることは、故坪井正五郎氏が夙に「東京人類学会雑誌」で論じている。
〔註六〕
「美濃国稲葉郡誌」。
〔註七〕
青萱の箸、竹の箸、南天の箸など、箸に関する俗信は多く存している。併し今はそれを言わぬこととする。
〔註八〕
「飛騨遺乗合府」。
〔註九〕
「温故の栞」第十八篇。
〔註一〇〕
「増補播陽俚翁説」。
〔註一一〕
「日本伝説叢書」佐渡之巻。
〔註一二〕
「因幡志」。
〔註一三〕
「紀伊続風土記」巻三十五。
〔註一四〕
「土佐古跡巡覧録」。
〔註一五〕
「耶馬台探見記」。
〔註一六〕
「諸家随筆集」(鼠璞十種本)。
〔註一七〕
「新編相模風土記稿」巻二十七。
〔註一八〕
「参宮図絵」巻上。
〔註一九〕
「南方来書」巻十(明治四十五年四月十二日附)。
〔註二〇〕
「笈埃随筆」巻八(日本随筆大成本)。
〔註二一〕
「提醒紀談」巻四(同上)。
〔註二二〕
「十方庵遊歴雑記」四編下(江戸叢書本)。
〔註二三〕
「新編武蔵風土記稿」巻一三八。
〔註二四〕
「千葉県海上郡誌」。
〔註二五〕
「駿河志料」巻六十二。
〔註二六〕
「西遊記続篇」巻一(帝国文庫本)。
〔註二七〕
「雪国の春」の附録「東北文学の研究」に見えている。
〔註二八〕
九穴貝の俗信も古くからあった。「雲陽秘事記」によると、出雲大社の御神体もこれだとある。元より信用すべき限りでないが、こうした俗信のあったという証拠だけにはなる。
〔註二九〕
「臥雲日件録」の分は、カードを蔵いなくしたので、前載の「提醒紀談」巻八から転載した。