日本巫女史/第二篇/第四章/第二節」を編集中

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以上は雑然と笈伝説を並べただけであって、此の中のどれだけが、巫女に限られたものであるかさえ、判然せぬほどであるが、今度はやや明確に巫女に、関したものを検出するとする。然るに、これに就いては、夙に柳田国男先生が「郷土研究」第一巻第八号で、卓見を発表せられているので、左にこれが要点を転載する。
以上は雑然と笈伝説を並べただけであって、此の中のどれだけが、巫女に限られたものであるかさえ、判然せぬほどであるが、今度はやや明確に巫女に、関したものを検出するとする。然るに、これに就いては、夙に柳田国男先生が「郷土研究」第一巻第八号で、卓見を発表せられているので、左にこれが要点を転載する。


: 巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であって、見た人が無いから色々の臆説があるが(中略)、兎に角口寄の霊験は其力の源を、此箱から発していると見て宜しい(中略)。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのではないが(中略)、箱ならば其引出しや入れ底に少々の雑品を蔵って置いても、さして不体裁でもないから、結局、これ一つで天下を横行することが出来たのであろう。此点から見れば、男の修験者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の伝道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であったことは想像に難くない。
: 巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であって、見た人が無いから色々の憶説があるが(中略)、兎に角口寄の霊験は其力の源を、此箱から発していると見て宜しい(中略)。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのではないが(中略)、箱ならば其引出しや入れ底に少々の雑品を蔵って置いても、さして不体裁でもないから、結局、これ一つで天下を横行することが出来たのであろう。此点から見れば、男の修験者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の伝道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であったことは想像に難くない。
: 今一つ箱類の方が便利であったかと思う点は、行先々任意に樹の陰石の上などに安置して、自分も拝み人に信心させるのに手軽であったことである(中略)。やや大胆な仮想説ながら、諸国の雑神の名目にテバク(天白)サンバク(山白)ノバク(野白)などと云うのが多いのも、事によると<ruby><rb>白神</rb><rp>(</rp><rt>シラカミ</rt><rp>)</rp></ruby>の思想に影響せられた、箱の神であったかも知れぬ。中山共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥という部落があって、白拍子千寿の本尊仏を安置したという千手堂及び千寿の墓又は朝顔の墓などという怪しい古跡もある。又野筥という地名は、昔能の面を埋めたのに基くと云っている(見附次第)。
: 今一つ箱類の方が便利であったかと思う点は、行先々任意に樹の陰石の上などに安置して、自分も拝み人に信心させるのに手軽であったことである(中略)。やや大胆な仮想説ながら、諸国の雑神の名目にテバク(天白)サンバク(山白)ノバク(野白)などと云うのが多いのも、事によると白神の思想に影響せられた、箱の神であったかも知れぬ。中山共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥という部落があって、白拍子千寿の本尊仏を安置したという千手堂及び千寿の墓又は朝顔の墓などという怪しい古跡もある。又野筥という地名は、昔能の面を埋めたのに基くと云っている(見附次第)。
: 巫女の口碑が、いつの間にか、小野小町、和泉式部、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎などという古名媛の伝記に附会せられていることは、極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の霊を思い掛けない土地に祀っているのも、大磯の虎を中に置いて考えぬと分らない。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀って居た。「作陽志」には箱王は如何なる人か知らず、此辺に金丸烏帽子町などの地名があって、何か由来があるらしいとある。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだろう。「曾我物語」に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であったか。箱根に成長したから箱王だと云ってもよいが、それも亦小説であったなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王権現という祠は土佐に甚だ多い(南路志)。此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の称号から移った名であろうと思う云々(中山曰。誌上には川村杳樹の匿名になっている)。
: 巫女の口碑が、いつの間にか、小野小町、和泉式部、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎などという古名媛の伝記に附会せられていることは、極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の霊を思い掛けない土地に祀っているのも、大磯の虎を中に置いて考えぬと分らない。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀って居た。「作陽志」には箱王は如何なる人か知らず、此辺に金丸烏帽子町などの地名があって、何か由来があるらしいとある。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだろう。「曾我物語」に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であったか。箱根に成長したから箱王だと云ってもよいが、それも亦小説であったなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王権現という祠は土佐に甚だ多い(南路志)。此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の称号から移った名であろうと思う云々(中山曰。誌上には川村杳樹の匿名になっている)。


柳田先生の研究に従うと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由来や〔一七〕、若狭国の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女関係のものを見出すことも出来るように思われるが、今はそれにも及ぶまいと考えたので省略する。
柳田先生の研究に従うと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由来や〔一七〕、若狭国の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女関係のものを見出すことも出来るように思われるが、今はそれにも及ぶまいと考えたので省略する。


漂泊の旅をつづけた巫女の成る果は、好運の者でも、名もなき堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちのようにも考えられるが、その中には神社を興す者もあり、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土産神と仰がるる者もあった。筑前国早艮郡脇山村字子谷に十二社神社(即ち熊野十二所権現である)というがある。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分霊を奉じて此処に土着し、谷口、内野、原田、上ノ原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十余戸の産土神となっている。此の比丘尼の墓は谷口に残っているが、貞観年中に椎原の下日ノ堰(轡堤ともいう)を築き水路を通じ、脇山地内八町歩、内野地内十六町歩の田に灌漑して農利に便じたということである〔一八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舎であるが、俚伝に此村は、昔エイラミコと称す巫女が来て、耕耘機織の道を教えたので、今にそれを祀った祠堂が存している〔一九〕。讃岐国小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人がいう巫女が来て、開拓したのが村の始まりだといわれている〔二〇〕。飛騨の牛蒡種と称する憑き物の本場である双六谷の部落なども、又かかる人物が土着開拓したものと思うが、既に此の事は管見を発表したことがあるので割愛する〔二一〕。村々の開発とか産業(殊に製紙事業)の発達とかいう点と、巫女の関係を究めることも興味の多い問題ではあるが、今は此の程度にとどめるとする。
漂泊の旅をつづけた巫女の成る果は、好運の者でも、名もなき堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちのようにも考えられるが、その中には神社を興す者もあり、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土産神と仰がるる者もあった。筑前国早艮郡脇山村字子谷に一二社神社(即ち熊野一二所権現である)というがある。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分霊を奉じて此処に土着し、谷口、内野、原田、上ノ原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十余戸の産土神となっている。此の比丘尼の墓は谷口に残っているが、貞観年中に椎原の下日ノ堰(轡堤ともいう)を築き水路を通じ、脇山地内八町歩、内野地内十六町歩の田に灌漑して農利に便じたということである〔一八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舎であるが、俚伝に此村は、昔エイラミコと称す巫女が来て、耕耘機織の道を教えたので、今にそれを祀った祠堂が存している〔一九〕。讃岐国小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人がいう巫女が来て、開拓したのが村の始まりだといわれている〔二〇〕。飛騨の牛蒡種と称する憑き物の本場である双六谷の部落なども、又かかる人物が土着開拓したものと思うが、既に此の事は管見を発表したことがあるので割愛する〔二一〕。村々の開発とか産業(殊に製紙事業)の発達とかいう点と、巫女の関係を究めることも興味の多い問題ではあるが、今は此の程度にとどめるとする。


本節を終るに際し、開村の序に一言すべきことがある。それは、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安芸国安芸郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴え、里正吉凶を神意に問わんとて、同二月一同打揃って八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台において、白刃を持って舞うこと久しく(これを御託の舞と云う。猶お刃戟を持って舞うことの起源は、巫女の呪術と交渉があるのだが、それを言うと長くなるので省略する)やがて神の告げ吉なりとて衆議一決して移住した〔二二〕。越後国蒲原郡芹田村に、昔吉見御所という貴人が暫らく居住した。後に此の御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日ノ御子という者に命じ、阿気淵という所にて神託を乞わしめ、その神告により、高出村に移住し、居地には若宮を祀った〔二三〕。巫女が民間信仰に深い交渉を有していたことは、此の一言を以ても容易に知られるのである。
本節を終るに際し、開村の序に一言すべきことがある。それは、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安芸国安芸郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴え、里正吉凶を神意に問わんとて、同二月一同打揃って八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台において、白刃を持って舞うこと久しく(これを御託の舞と云う。猶お刃戟を持って舞うことの起源は、巫女の呪術と交渉があるのだが、それを言うと長くなるので省略する)やがて神の告げ吉なりとて衆議一決して移住した〔二二〕。越後国蒲原郡芹田村に、昔吉見御所という貴人が暫らく居住した。後に此の御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日ノ御子という者に命じ、阿気淵という所にて神託を乞わしめ、その神告により、高出村に移住し、居地には若宮を祀った〔二三〕。巫女が民間信仰に深い交渉を有していたことは、此の一言を以ても容易に知られるのである。
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; 〔註一〕 : 「千葉盛衰記」。
; 〔註一〕 : 「千葉盛衰記」。
; 〔註二〕 : 故日下部氏は、御輿荒れを力学から説いた遍痴奇論者であった。その顛末と日下部氏の謬見であったこととは「祭礼と世間」(炉辺叢書本)に詳しく載っている。
; 〔註二〕 : 故日下部氏は、御輿荒れを力学から説いた遍痴奇論者であった。その顛末と日下部氏の謬見であったこととは「祭礼と世間」(炉辺叢書本)に詳しく載っている。
; 〔註三〕 : 「河辺郡誌」。
; 〔註三〕 : 「川辺郡誌」。
; 〔註四〕 : 「福島県耶摩郡誌」。
; 〔註四〕 : 「福島県耶摩郡誌」。
; 〔註五〕 : 「多賀郡誌」。
; 〔註五〕 : 「多賀郡誌」。
; 〔註六〕 : 「新撰佐倉風土記」。
; 〔註六〕 : 「新撰佐倉風土記」。
; 〔註七〕 : 「新編武蔵風土記稿」巻二一六。
; 〔註七〕 : 「身辺武蔵風土記稿」第二一六。
; 〔註八〕 : 「群馬県邑楽郡誌」。
; 〔註八〕 : 「群馬県邑楽郡誌」。
; 〔註九〕 : 「許我志」に載せてある。これには渡辺競が頼政の首級を負うて来たとある。
; 〔註九〕 : 「許我志」に載せてある。これには渡辺競が頼政の首級を負うて来たとある。
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