日本巫女史/第二篇/第四章/第二節

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日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第四章 巫女の漂泊生活と其の足跡

第二節 笈伝説に隠れた巫女の漂泊と土着

我国には古くから、笈に納めて背負うて来た神体、又は仏像が遽に重量を加え、人力を以て動かすことが出来ぬままに、遂にその土地に祀ったという伝説が、各地に亘り、殆んど更僕にも堪えぬほど夥しく残っている。然も此の事たるや、明治中葉までは、その信仰が儼として生きていたのである。下総国匝瑳郡野田村大字野手には、法華宗六老僧の一なる日朗の出生地とて、朗生寺という巨刹がある。明治十五年中に、備中国後月郡高屋町の矢吹伊三郎なるもの悪疾を病み、廻国のため、佐渡身延等を経て房州に往かんとて、同寺に参詣せしに、背にせる笈急に重くなりて動かず、奈何ともする事が出来ぬので、止むを得ず、此地に足を留め、朗尊の霊に奉仕せんと決心し、日夜心身を尽して仏を念じ、病者のために祈祷を続けたとある〔一〕。此の話なども故日下部四郎太氏に聴かせたら、直ちに得意の力学を以て縦横に論じて、信仰にあらず、詐謀なりとでも言うたかも知れぬが〔二〕、兎に角に斯うした信仰が、大昔から民間に存していて、神も咎めず、仏も怒らず、又た人も怪しまなかったことだけは事実である。私はここに神体や仏像が動かぬままに、これを奉持した者が、笈と共にその地に土着し、又は奉祀したという類例を挙げ、此の笈伝説に隠れた巫女漂泊の故郷遠き旅の姿と、荒蕪の地を開拓して部落を作った経過を記述して見たいと思う。

ただ前以て一言お断りして置かねばならぬことは、時勢の降るにつれて、巫女と修験者とが余りに接近し、余りに親密となったために、記録の上においても、両者が全く雑糅されていて、巫女のことを修験者として誤り伝えたと思うものや、これに反して修験者のことを巫女として民俗に残したと思うものがあり、更にその持物などにあっても、笈は修験者の背に負うもの、巫女は外法箱を肩に(中古の絵巻物など見ると笈を背負うた女子も多く存していた)するものと、記録の書かれた後世の事相から見て、古えも斯うであったと推定したものさえあり、かなり混雑していて今からはそれを明確に判別することは出来ぬのである。殊にその頃は、民間信仰の上からは、神と仏との境界線が殆んど撤せられていた所へ、修験は神仏道の三つを一つものとしていたし、巫女も此の影響を受けて、神も仏も無差別という有様なのであるから、神とあるも仏のことやら、仏とあるも神のことやら、これも極端に混淆していて、到底その一々を截然と識別することが出来ぬのである。それで止むなく、玉石同架といおうか、巫覡一体といおうか、兎に角に、私が巫女に関係あるものと考えたものを、雑然として列挙した点である。現在の私の学問の程度では、これ以上は企て及ばぬことゆえ、取捨は読者にお任せするとして、予め賢諒を乞う次第である。

神体または仏像が重くなった為に、その場所に奉祀したという伝説は、余りに夥しく存しているので、ここにその総てを尽すことは思いもよらぬので、やや代表的のものだけを、奥羽、関東、中国、四国、九州にかけて抽出する。一は同じような事の陳列を控えるのは、読者を倦怠から救うことであるし、二はさらぬだに物識りぶると思われるのを避けるためであり、三は例証は数の多きよりも質の良いのが尊いと考えたからである。

羽後国河辺郡豊崎村大字戸嶋の戸嶋神社(祭神素尊)は、昔京都鞍馬山の林正坊なるもの不動尊を笈に入れ、諸国遍歴の途次この地に休息すると、俄に笈が重くなって動かず、遂に此地に留まって祠を建てて祀ったが、明治になってから神社と改めた〔三〕。岩代国耶摩郡月輪村大字中小松の郷社菅原神社は、俚伝に神良種という者が、此の像(高さ五寸七分の鋳物)を京都に得て、廻国の折に、此の地へ来たところ、急に重くなって動かぬので、鎮座したものである〔四〕。常陸国多賀郡松岡村大字赤浜の妙法寺の境内に、僧日弁(日蓮の俗弟という)の墓がある。法難のため、弟子達が日弁の棺を負い此処まで来ると、急に重くなったので、やむなくここに祭り寺を建てた〔五〕。千葉市の千葉神社は、古く妙見社と称していたが、領主千葉成胤の弟胤忠が家督を奪わんとして、神像を負い、往くこと数百歩にして、遽かに重くなって棄てたので、此処に社を建てて祀った〔六〕。武蔵国北埼玉郡下忍村大字下忍の薬師堂の本尊は、昔藤原秀衡の守護仏で、奥州信夫の郷に安置してあったのを、夢想により、相州鎌倉へ遷さんと同所まで来たりしに厨子重くなりて動かず、仏意なるべしとて一宇を建てた〔七〕。上野国邑楽郡羽附村大字野木前の楠木神社は、俚伝に延元二年七月四日楠氏の遺臣、小林、田部井、石井、半田、江守等が、正成の首級を笈に納め、此の地を過ぎり野中の大樹の下に到りしに、笈重くして負うこと能わず、由って此地に留り、首級を大樹の下に埋め、祠を建て野木明神と称し、遺臣も此処に土着し開村したとある〔八〕。此の話などは、下総国古河町に頼政神社を祀った縁起と、全く同巧異曲のものである〔九〕。併しながら、摘録するつもりでも、斯う書き列べて国尽しをするのでは、それこそ富士山の張りぬきを拵えるほど原稿紙を要するので、此の辺から筆を飛ばすこととする。

越後国北蒲原郡加治村大字金津新村(?)、蒲原神社の境内五社明神の社殿に、比丘比丘尼の二木像がある。昔秩父六郎重保夫婦が、源義経を慕うて此の国へ来て剃髪し、死後居宅を寺となし、白蓮寺と称した。後年寺は亡びたが、住僧は夫婦の木像を持って出羽に赴かんと、偶々此地に来たりしに、木像忽然として重きこと金石の如く、やむなくこれを五社の拝殿に置いたという〔一〇〕。能登国鳳至郡浦上村大字西円山の地蔵尊は、始め同郡鵠ノ巣村大字西大野に在ったが、或る年西円山の村民が此の地を通ると、路傍に声あって、「共に往く」と云うので、此の地蔵尊を担いて帰りしに、今まで軽かった像が、忽ち重くなって動かぬので、此処に安置した〔一一〕。越前国坂井郡棗村大字深坂に百姓半助というがあり、家に源頼光が大江山入りのとき用いたと称する、古き笈を所蔵している。此の笈の縁起二巻あるが、由来は、以前福井藩の仕士であった太田安房が、祖先の源三位頼政から伝えた此の笈と、獅子王の剣と伝えて来たのを同藩中の柳田所左衛門に譲った。所左衛門後に此の村に退いたが、半助はその玄孫である〔一二〕。これなどは、頼政がヨリマシの訛語であることを知れば、頼光大江山のもので無くして、憑り祈祷を遣った修験の物であることが直ちに釈然する。

土佐国香美郡徳王子村の若一王子神社も、永源上人という者が、紀州熊野から神体を得て厨子に入れ背負うて来たとある〔一三〕。周防国玖珂郡余田村字北迫に流恵美酒社がある。土地の伝えに、五六百年も前に、広嶋から流れ着いたもので、『ゑびす様は広い広嶋に縁が無くて、狭い田布施の田の中に』という俗謡がある〔一四〕。肥後国球摩郡上村の谷水薬師は日本七薬師の一と称されているが、此の本尊は、元奥州金華山にありしを、或る六部が背負うて廻国の途すがら、此処で像が重くなったので、祀堂を建てた〔一五〕。大隅国姶良郡牧園村大字巣窪田の熊野権現社は、大永三年の社記によると、昔異人があって、熊野三所神を笈に入れて負い来たり、岩上に安じて一夜を明し、翌朝に笈を挙げんとせしに重きこと磐石の如く、故に此の地に祀ったとある〔一六〕。

さて以上書き列ねて来た此の種の笈伝説は、一面から見れば、巫覡の徒が漂泊に労れて、その土地に居着こうとする方便として利用したのかも知れぬが、斯うして神や仏を背にして、国々を遍歴した彼等の心情を察するとき、必ずしも利用とばかり見るのは酷で、或は現今でも行われている「おもかるさん」のような信仰が伴っていたものと信ずべきである。

以上は雑然と笈伝説を並べただけであって、此の中のどれだけが、巫女に限られたものであるかさえ、判然せぬほどであるが、今度はやや明確に巫女に、関したものを検出するとする。然るに、これに就いては、夙に柳田国男先生が「郷土研究」第一巻第八号で、卓見を発表せられているので、左にこれが要点を転載する。

巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であって、見た人が無いから色々の憶説があるが(中略)、兎に角口寄の霊験は其力の源を、此箱から発していると見て宜しい(中略)。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのではないが(中略)、箱ならば其引出しや入れ底に少々の雑品を蔵って置いても、さして不体裁でもないから、結局、これ一つで天下を横行することが出来たのであろう。此点から見れば、男の修験者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の伝道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であったことは想像に難くない。
今一つ箱類の方が便利であったかと思う点は、行先々任意に樹の陰石の上などに安置して、自分も拝み人に信心させるのに手軽であったことである(中略)。やや大胆な仮想説ながら、諸国の雑神の名目にテバク(天白)サンバク(山白)ノバク(野白)などと云うのが多いのも、事によると白神の思想に影響せられた、箱の神であったかも知れぬ。中山共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥という部落があって、白拍子千寿の本尊仏を安置したという千手堂及び千寿の墓又は朝顔の墓などという怪しい古跡もある。又野筥という地名は、昔能の面を埋めたのに基くと云っている(見附次第)。
巫女の口碑が、いつの間にか、小野小町、和泉式部、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎などという古名媛の伝記に附会せられていることは、極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の霊を思い掛けない土地に祀っているのも、大磯の虎を中に置いて考えぬと分らない。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀って居た。「作陽志」には箱王は如何なる人か知らず、此辺に金丸烏帽子町などの地名があって、何か由来があるらしいとある。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだろう。「曾我物語」に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であったか。箱根に成長したから箱王だと云ってもよいが、それも亦小説であったなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王権現という祠は土佐に甚だ多い(南路志)。此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の称号から移った名であろうと思う云々(中山曰。誌上には川村杳樹の匿名になっている)。

柳田先生の研究に従うと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由来や〔一七〕、若狭国の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女関係のものを見出すことも出来るように思われるが、今はそれにも及ぶまいと考えたので省略する。

漂泊の旅をつづけた巫女の成る果は、好運の者でも、名もなき堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちのようにも考えられるが、その中には神社を興す者もあり、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土産神と仰がるる者もあった。筑前国早艮郡脇山村字子谷に一二社神社(即ち熊野一二所権現である)というがある。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分霊を奉じて此処に土着し、谷口、内野、原田、上ノ原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十余戸の産土神となっている。此の比丘尼の墓は谷口に残っているが、貞観年中に椎原の下日ノ堰(轡堤ともいう)を築き水路を通じ、脇山地内八町歩、内野地内十六町歩の田に灌漑して農利に便じたということである〔一八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舎であるが、俚伝に此村は、昔エイラミコと称す巫女が来て、耕耘機織の道を教えたので、今にそれを祀った祠堂が存している〔一九〕。讃岐国小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人がいう巫女が来て、開拓したのが村の始まりだといわれている〔二〇〕。飛騨の牛蒡種と称する憑き物の本場である双六谷の部落なども、又かかる人物が土着開拓したものと思うが、既に此の事は管見を発表したことがあるので割愛する〔二一〕。村々の開発とか産業(殊に製紙事業)の発達とかいう点と、巫女の関係を究めることも興味の多い問題ではあるが、今は此の程度にとどめるとする。

本節を終るに際し、開村の序に一言すべきことがある。それは、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安芸国安芸郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴え、里正吉凶を神意に問わんとて、同二月一同打揃って八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台において、白刃を持って舞うこと久しく(これを御託の舞と云う。猶お刃戟を持って舞うことの起源は、巫女の呪術と交渉があるのだが、それを言うと長くなるので省略する)やがて神の告げ吉なりとて衆議一決して移住した〔二二〕。越後国蒲原郡芹田村に、昔吉見御所という貴人が暫らく居住した。後に此の御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日ノ御子という者に命じ、阿気淵という所にて神託を乞わしめ、その神告により、高出村に移住し、居地には若宮を祀った〔二三〕。巫女が民間信仰に深い交渉を有していたことは、此の一言を以ても容易に知られるのである。

〔註一〕
「千葉盛衰記」。
〔註二〕
故日下部氏は、御輿荒れを力学から説いた遍痴奇論者であった。その顛末と日下部氏の謬見であったこととは「祭礼と世間」(炉辺叢書本)に詳しく載っている。
〔註三〕
「川辺郡誌」。
〔註四〕
「福島県耶摩郡誌」。
〔註五〕
「多賀郡誌」。
〔註六〕
「新撰佐倉風土記」。
〔註七〕
「身辺武蔵風土記稿」第二一六。
〔註八〕
「群馬県邑楽郡誌」。
〔註九〕
「許我志」に載せてある。これには渡辺競が頼政の首級を負うて来たとある。
〔註一〇〕
「越後野志」巻九。
〔註一一〕
「鳳至郡誌」。
〔註一二〕
「越前国名蹟考」巻一〇。
〔註一三〕
「諸神社録」。
〔註一四〕
「郷土研究」第三巻第十一号。
〔註一五〕
「球磨郡郷土誌」。
〔註一六〕
「三国名所図絵」巻四十。
〔註一七〕
「筑前続風土記」巻十八参照。
〔註一八〕
「早良郡誌」。
〔註一九〕
「美馬郡郷土誌」。
〔註二〇〕
「讃岐史」初篇。
〔註二一〕
拙著「日本民俗志」所収の「牛蒡種という憑き物の研究」参照。
〔註二二〕
「倉橋島志」。
〔註二三〕
旧会津藩領の事を書いた「新編会津風土記」巻一〇二。