日本巫女史/総論/第一章/第一節」を編集中

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姉子(アネコ) 松屋筆記
姉子(アネコ) 松屋筆記
: 同書(巻七十四)に『曾禰好忠家集冬十首の中に「神まつる冬は半に成にけり、<u>あねこ</u>かねやに榊をりしき」云々。新撰六帖(第一帖)に冬夜知家「冬来ては<u>あねこ</u>か閨のたかすかき幾夜すき間の風そさむけき」云々。按に<u>あねご</u>は<ruby><rb>巫祝</rb><rp>(</rp><rt>キネ</rt><rp>)</rp></ruby>を云ふ。催馬楽酒殿歌に「あまの原ふりさけ見ればやへ雲の、雲の中なる雲の中との中臣の、あまの小菅を<ruby><rb>割</rb><rp>(</rp><rt>サキ</rt><rp>)</rp></ruby>はらひ、祈りし事は今日の日のため、<u>あなご</u>や<ruby><rb>吾皇</rb><rp>(</rp><rt>ワカスベ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の神ろぎのよさこ」とある。「あなご」は「あねご」の通音也云々。「あねご」の「あ」は<ruby><rb>吾</rb><rp>(</rp><rt>ア</rt><rp>)</rp></ruby>にて、<ruby><rb>吾君吾児</rb><rp>(</rp><rt>アギアゴ</rt><rp>)</rp></ruby>などの如く親みの詞也。「ねご」は「ねぎ」の通音なるべし』とある。
: 同書(巻七十四)に『曾禰好忠家集冬十首の中に「神まつる冬は半に成にけり、<u>あねこ</u>かねやに榊をりしき」云々。新撰六帖(第一帖)に冬夜知家「冬来ては<u>あねこ</u>か閨のたかすかき幾夜すき間の風そさむけき」云々。按に<u>あねご</u>は<ruby><rb>巫祝</rb><rp>(</rp><rt>キネ</rt><rp>)</rp></ruby>を云ふ。催馬楽酒殿歌に「あまの原ふりさけ見ればやへ雲の、雲の中なる雲の中との中臣の、あまの小菅を<ruby><rb>割</rb><rp>(</rp><rt>サキ</rt><rp>)</rp></ruby>はらひ、祈りし事は今日の日のため、<u>あなご</u>や<ruby><rb>吾皇</rb><rp>(</rp><rt>ワカスベ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の神ろぎのよさこ」とある。「あなご」は「あねご」の通音也云々。「あねご」の「あ」は<ruby><rb>吾</rb><rp>(</rp><rt>ア</rt><rp>)</rp></ruby>にて、<ruby><rb>吾君吾児</rb><rp>(</rp><rt>アギアゴ</rt><rp>)</rp></ruby>などの如く親みの詞也。「ねご」は「ねぎ」の通音なるべし』とある。
: 中山曰。「あねこ」の語は、熱田縁起(此の書が従来一部の間に称えられているように価値あるものか否かに就いては私見があるも今は略す)に、倭尊の御歌として『愛知かた氷上姉子は我来むと、床避くらむや、あはれ姉子は』と載せてあり、古く用いられていた語ではあるが、此の語を巫女の義に解釈したのは、寡見の及ぶ限りでは「松屋筆記」以外には無いようである。而して私は、此の解釈は、高田与清翁の卓見であって、それは家族的巫女(職業的巫女の生れる以前)の遠い昔を偲ばせる手掛りとして納得される。猶おこれに就いては、本文の「をなり神」の条に詳記する考えである。而して、キネも、アネコも、又カンナギの如く、神社に奉仕した一般の巫女を称したものであろう。
: 中山曰。「あねこ」の語は、熱田縁起(此の書が従来一部の間に称えられているように価値あるものか否かに就いては私見があるも今は略す)に、倭尊の御歌として『愛知かた氷上姉子は我来むと、床避くらむや、あれは姉子は』と載せてあり、古く用いられていた語ではあるが、此の語を巫女の義に解釈したのは、寡見の及ぶ限りでは「松屋筆記」以外には無いようである。而して私は、此の解釈は、高田与清翁の卓見であって、それは家族的巫女(職業的巫女の生れる以前)の遠い昔を偲ばせる手掛りとして納得される。猶おこれに就いては、本文の「をなり神」の条に詳記する考えである。而して、キネも、アネコも、又カンナギの如く、神社に奉仕した一般の巫女を称したものであろう。


古曾(コソ) 日本書紀
古曾(コソ) 日本書紀
: 「孝徳記」大化元年春二月の条に『<ruby><rb>神社福草</rb><rp>(</rp><rt>カミコソノサキクサ</rt><rp>)</rp></ruby>』の名が見え、「続日本紀」和銅三年正月の条に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>忌寸河内、授従五位下』と載せ、万葉集巻六に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>老麻呂』の名があり、「延喜神名帳」に『近江国浅井郡上許曾神社』を挙げ、此の外にも、古曾の用例は、諸書に散見している。これに就き「書紀通証」には『天武紀、社戸訓古曾倍、万葉集、乞字亦訓古曾、盖神社則人之所為祈願、故訓社為古曾』云々とあるが、私に言わせると、少しく物足りぬ気がする。
: 「孝徳記」大化元年春二月の条に『<ruby><rb>神社福草</rb><rp>(</rp><rt>カミコソノサキクサ</rt><rp>)</rp></ruby>』の名が見え、「続日本紀」和銅三年正月の条に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>忌河内、授従五位下』と載せ、万葉集巻六に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>老麻呂』の名があり、「延喜神名帳」に『近江国浅井郡上許曾神社』を挙げ、此の外にも、古曾の用例は、諸書に散見している。これに就き「書紀通証」には『天武紀、社戸訓古曾倍、万葉集、乞字亦訓古曾、盖神社則人之所為祈願、故訓社為古曾』云々とあるが、私に言わせると、少しく物足りぬ気がする。
: 私は、古曾は、巫女の意に用いたものであって、巫女が神社に属していて、祈願を乞うとき之を煩わしたので、後に神社を古曾と云うようになったのであると考えている。伊勢斎宮の寮頭藤原通高の妻が、古木古曾と称して詐巫を行い(此の事は本文中に述べた)しこと、宇津保物語に古曾女の名あることなどを思い合せると、古曾は巫女の一称と考えても大過ないようである。
: 私は、古曾は、巫女の意に用いたものであって、巫女が神社に属していて、祈願を乞うとき之を煩わしたので、後に神社を古曾と云うようになったのであると考えている。伊勢斎宮の寮頭藤原通高の妻が、古木古曾と称して詐巫を行い(此の事は本文中に述べた)しこと、宇津保物語に古曾女の名あることなどを思い合せると、古曾は巫女の一称と考えても大過ないようである。


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斎子(イツキコ) 松尾神社 伊呂波字類抄
斎子(イツキコ) 松尾神社 伊呂波字類抄
: 同書、松尾条の細註に『本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、立阿礼居斎子供奉』とある。
: 同書、松尾条の細註に『本朝文集云、大宝元秦都理始建立神殿、立阿礼居斎子供奉』とある。
: 中山曰。従来、巫女をイチコと称せる語原説は、概してイツキコの転訛(他にも一説ある)であると言われているが、私には左袒することが出来ぬ。イチコの語原に関する私見は、後段に述べるが、読者は予め此の事に留意してもらいたい。
: 中山曰。従来、巫女をイチコと称せる語原説は、概してイツキコの転訛(他にも一説ある)であると言われているが、私には左袒することが出来ぬ。イチコの語原に関する私見は、後段に述べるが、読者は予め此の事に留意してもらいたい。


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市子(イチコ) 殆ど全国に行わる 吾妻鏡
市子(イチコ) 殆ど全国に行わる 吾妻鏡
: 同書(巻二)治承五年七月八日の条に、『相模国大庭厨等<u>一古</u>娘依召参上、奉行遷宮事』云々。
: 同書(巻二)治承五年七月八日の条に、『相模国大庭厨等<u>一古</u>娘依召参上、奉行遷宮事』云々。
: 中山曰。イチコの名称の文献に現われたのは、寡見の及ぶ限りでは、吾妻鏡が最初のように思われる。而してイチコの語原に就いては、二説ある。(一)は前に載せたイツキコ転訛説で、(二)は「新編常陸国誌」巻十二に記してある中山信名の考証である。ここにその要を摘むに、『市子と云ふは、元市に出て此事を為せし故なり。其証は日本後紀に延暦十五年七月二十二日辛亥、生江臣家道女、逓送本国、家道女越前国足羽郡人、常於市鄽妄説罪福、眩惑百姓、世に号曰越優婆夷とあり。市子の事を市殿と云ひしことは義残後覚にも見えたり』云々。
: 中山曰。イチコの名称の文献に現われたのは、寡見の及ぶ限りでは、吾妻鏡が最初のように思われる。而してイチコの語原に就いては、二説ある。(一)は前に載せたイツキコ転訛説で、(二)は「新編常陸国誌」巻十二に記してある中山信名の考証である。ここにその要を摘むに、『市子と云ふは、元市に出て此事を為せし故なり。其証は日本後紀に延暦十五年七月二十二日辛亥、生江臣家道女、逓送本国、家道女越前国足羽郡人、当於市鄽妄説罪福、眩惑百姓、世に号曰越優婆夷とあり。市子の事を市殿と云ひしことは義残後覚にも見えたり』云々。
: 中山曰。私には此の考証も承認することが出来ぬのである。而して、私案を簡単に言えば、イチとは琉球語のイチジャマ(呪詛する人の意)のイチと同じ語根に属するもので、古くはイチの語に呪詛の意の在りしものと考えている(朝鮮巫俗考に由れば、朝鮮の古代に神市氏というが在ったと記している。或はイチの語は北方系の古語ではあるまいか)。武蔵及び信濃の一部で、巫女をイチイと呼んだは、偶々此の古語の残存せる事を思わしめ、更に九州の大部分で、巫女をイチジョウと称しているのは、同じく琉球語と交渉あることを考えさせるものがある。敢て異を樹てるに急なるものではないが、記して高批を仰ぐとする。
: 中山曰。私には此の考証も承認することが出来ぬのである。而して、私案を簡単に言えば、イチとは琉球語のイチジャマ(呪詛する人の意)のイチと同じ語根に属するもので、古くはイチの語に呪詛の意の在りしものと考えている(朝鮮巫俗考に由れば、朝鮮の古代に神市氏というが在ったと記している。或はイチの語は北方系の古語ではあるまいか)。武蔵及び信濃の一部で、巫女をイチイと呼んだは、偶々此の古語の残存せる事を思わしめ、更に九州の大部分で、巫女をイチジョウと称しているのは、同じく琉球語と交渉あることを考えさせるものがある。敢て異を樹てるに急なるものではないが、記して高批を仰ぐとする。


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