日本巫女史/総論/第一章/第一節」を編集中

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巫女史の研究には、先ずその主体となっている巫女の種類、及び巫女の名称を掲げ、これが概念だけでも与えて置くことが、これから後の記述をすすめる上に必要であり、且つ便利が多いと考えるので、ここにそれ等を列挙し、併せて、その語原等に就き、先学の考察と、私見とを、簡単に加えるとする。
巫女史の研究には、先ずその主体となっている巫女の種類、及び巫女の名称を掲げ、これが概念だけでも与えて置くことが、これから後の記述をすすめる上に必要であり、且つ便利が多いと考えるので、ここにそれ等を列挙し、併せて、その語原等に就き、先学の考察と、私見とを、簡単に加えるとする。


私は便宜上、巫女を分類して、<ruby><rb>神和</rb><rp>(</rp><rt>かんなぎ</rt><rp>)</rp></ruby>系の<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>と、<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>くちよせ</rt><rp>)</rp></ruby>系の<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>との二種とする。勿論、巫女の発生した当時にあっては、かかる種類の存すべき筈はないが、時勢の起伏と、信仰の推移とは、巫女の呪術的職掌や、社会的地位にも変動を来たし、その結果は、遂に幾多の分化を見るようになったのである。而して私は、宮中及び各地の名神・大社に附属して、一定の給分を受けた公的の者を神和系の神子とし、これに反して、神社を離れて町村に土着し、又は各地を漂泊して、一回の呪術に対して、一回の報酬を得た私的の者を口寄系の巫女とする。更に、記述の混雑を防ぐために、前者の総称を<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>と呼び、後者の汎称を<ruby><rb>市子</rb><rp>(</rp><rt>いちこ</rt><rp>)</rp></ruby>と呼ぶこととした。
私は便宜上、巫女を分別して、<ruby><rb>神和</rb><rp>(</rp><rt>かんなぎ</rt><rp>)</rp></ruby>系の<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>と、<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>くちよせ</rt><rp>)</rp></ruby>系の<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>との二種とする。勿論、巫女の発生した当時にあっては、かかる種類の存すべき筈はないが、時勢の起伏と、信仰の推移とは、巫女の呪術的職掌や、社会的地位にも変動を来たし、その結果は、遂に幾多の分化を見るようになったのである。而して私は、宮中及び各地の名神・大社に附属して、一定の給分を受けた公的の者を神和系の神子とし、これに反して、神社を離れて町村に土着し、又は各地を漂泊して、一回の呪術に対して、一回の報酬を得た私的の者を口寄系の巫女とする。更に、記述の混雑を防ぐために、前者の総称を<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>と呼び、後者の汎称を<ruby><rb>市子</rb><rp>(</rp><rt>いちこ</rt><rp>)</rp></ruby>と呼ぶこととした。


'''第一 神和系に属する神子の名称'''
'''第一 神和系に属する神子の名称'''
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巫覡(カンナギ、ヲノコカンナギ) 倭名類聚抄
巫覡(カンナギ、ヲノコカンナギ) 倭名類聚抄
: 和名抄(巻二)に云う。『説文<sub>ニ</sub>云巫{無ノ反和名/加牟奈岐}祝女也、文字集略<sub>ニ</sub>云覡<sub>ハ</sub>{乎乃古加/牟奈岐}男祝也』倭訓栞に「かんなぎ」神<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ナギ</rt><rp>)</rp></ruby>の義也、神慮をなごむる意也云々。
: 和名抄(巻二)に云う。『説文<sub>ニ</sub>云巫{無ノ反和名/加牟奈岐}祝女也、文字集略<sub>ニ</sub>云覡<sub>ハ</sub>{乎乃古加/牟奈岐}男祝也』倭訓栞に「かんなぎ」神<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ナギ</rt><rp>)</rp></ruby>の義也、神慮をなごむる意也云々。
: 中山曰。源氏物語(四五)橋姫の条に『あやしく夢かたり<u>かむなぎ</u>やうのものの、とはず語りするやうに、めづらかにおぼさる』云々とあるより推せば、古くから巫女を斯く呼んだものと見える。祝女に就いては、普通の巫女とは異るものがあると考えるので、本文の後段に詳述する。而してカンナギは神社に奉仕する巫女を通称したものである。
: 中山曰。源氏物語(四五)橋姫の条に『あやしく夢かたり<u>かむなぎ</u>やうのものゝ、とはず語りするやうに、めづらかにおぼさる』云々とあるより推せば、古くから巫女を斯く呼んだものと見える。祝女に就いては、普通の巫女とは異るものがあると考えるので、本文の後段に詳述する。而してカンナギは神社に奉仕する巫女を通称したものである。


キネ 古今和歌集
キネ 古今和歌集
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姉子(アネコ) 松屋筆記
姉子(アネコ) 松屋筆記
: 同書(巻七十四)に『曾禰好忠家集冬十首の中に「神まつる冬は半に成にけり、<u>あねこ</u>かねやに榊をりしき」云々。新撰六帖(第一帖)に冬夜知家「冬来ては<u>あねこ</u>か閨のたかすかき幾夜すき間の風そさむけき」云々。按に<u>あねご</u>は<ruby><rb>巫祝</rb><rp>(</rp><rt>キネ</rt><rp>)</rp></ruby>を云ふ。催馬楽酒殿歌に「あまの原ふりさけ見ればやへ雲の、雲の中なる雲の中との中臣の、あまの小菅を<ruby><rb>割</rb><rp>(</rp><rt>サキ</rt><rp>)</rp></ruby>はらひ、祈りし事は今日の日のため、<u>あなご</u>や<ruby><rb>吾皇</rb><rp>(</rp><rt>ワカスベ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の神ろぎのよさこ」とある。「あなご」は「あねご」の通音也云々。「あねご」の「あ」は<ruby><rb>吾</rb><rp>(</rp><rt>ア</rt><rp>)</rp></ruby>にて、<ruby><rb>吾君吾児</rb><rp>(</rp><rt>アギアゴ</rt><rp>)</rp></ruby>などの如く親みの詞也。「ねご」は「ねぎ」の通音なるべし』とある。
: 同書(巻七十四)に『曾禰好忠家集冬十首の中に「神まつる冬は半に成にけり、<u>あねこ</u>かねやに榊をりしき」云々。新撰六帖(第一帖)に冬夜知家「冬来ては<u>あねこ</u>か閨のたかすかき幾夜すき間の風そさむけき」云々。按に<u>あねご</u>は<ruby><rb>巫祝</rb><rp>(</rp><rt>キネ</rt><rp>)</rp></ruby>を云ふ。催馬楽酒殿歌に「あまの原ふりさけ見ればやへ雲の、雲の中なる雲の中との中臣の、あまの小菅を<ruby><rb>割</rb><rp>(</rp><rt>サキ</rt><rp>)</rp></ruby>はらひ、祈りし事は今日の日のため、<u>あなご</u>や<ruby><rb>吾皇</rb><rp>(</rp><rt>ワカスベ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の神ろぎのよさこ」とある。「あなご」は「あねご」の通音也云々。「あねご」の「あ」は<ruby><rb>吾</rb><rp>(</rp><rt>ア</rt><rp>)</rp></ruby>にて、<ruby><rb>吾君吾児</rb><rp>(</rp><rt>アギアゴ</rt><rp>)</rp></ruby>などの如く親みの詞也。「ねご」は「ねぎ」の通音なるべし』とある。
: 中山曰。「あねこ」の語は、熱田縁起(此の書が従来一部の間に称えられているように価値あるものか否かに就いては私見があるも今は略す)に、倭尊の御歌として『愛知かた氷上姉子は我来むと、床避くらむや、あはれ姉子は』と載せてあり、古く用いられていた語ではあるが、此の語を巫女の義に解釈したのは、寡見の及ぶ限りでは「松屋筆記」以外には無いようである。而して私は、此の解釈は、高田与清翁の卓見であって、それは家族的巫女(職業的巫女の生れる以前)の遠い昔を偲ばせる手掛りとして納得される。猶おこれに就いては、本文の「をなり神」の条に詳記する考えである。而して、キネも、アネコも、又カンナギの如く、神社に奉仕した一般の巫女を称したものであろう。
: 中山曰。「あねこ」の語は、熱田縁起(此の書が従来一部の間に称えられているように価値あるものか否かに就いては私見があるも今は略す)に、倭尊の御歌として『愛知かた氷上姉子は我来むと、床避くらむや、あれは姉子は』と載せてあり、古く用いられていた語ではあるが、此の語を巫女の義に解釈したのは、寡見の及ぶ限りでは「松屋筆記」以外には無いようである。而して私は、此の解釈は、高田与清翁の卓見であって、それは家族的巫女(職業的巫女の生れる以前)の遠い昔を偲ばせる手掛りとして納得される。猶おこれに就いては、本文の「をなり神」の条に詳記する考えである。而して、キネも、アネコも、又カンナギの如く、神社に奉仕した一般の巫女を称したものであろう。


古曾(コソ) 日本書紀
古曾(コソ) 日本書紀
: 「孝徳記」大化元年春二月の条に『<ruby><rb>神社福草</rb><rp>(</rp><rt>カミコソノサキクサ</rt><rp>)</rp></ruby>』の名が見え、「続日本紀」和銅三年正月の条に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>忌寸河内、授従五位下』と載せ、万葉集巻六に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>老麻呂』の名があり、「延喜神名帳」に『近江国浅井郡上許曾神社』を挙げ、此の外にも、古曾の用例は、諸書に散見している。これに就き「書紀通証」には『天武紀、社戸訓古曾倍、万葉集、乞字亦訓古曾、盖神社則人之所為祈願、故訓社為古曾』云々とあるが、私に言わせると、少しく物足りぬ気がする。
: 「孝徳記」大化元年春二月の条に『<ruby><rb>神社福草</rb><rp>(</rp><rt>カミコソノサキクサ</rt><rp>)</rp></ruby>』の名が見え、「続日本紀」和銅三年正月の条に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>忌河内、授従五位下』と載せ、万葉集巻六に『<ruby><rb>神社</rb><rp>(</rp><rt>カミコソ</rt><rp>)</rp></ruby>老麻呂』の名があり、「延喜神名帳」に『近江国浅井郡上許曾神社』を挙げ、此の外にも、古曾の用例は、諸書に散見している。これに就き「書紀通証」には『天武紀、社戸訓古曾倍、万葉集、乞字亦訓古曾、盖神社則人之所為祈願、故訓社為古曾』云々とあるが、私に言わせると、少しく物足りぬ気がする。
: 私は、古曾は、巫女の意に用いたものであって、巫女が神社に属していて、祈願を乞うとき之を煩わしたので、後に神社を古曾と云うようになったのであると考えている。伊勢斎宮の寮頭藤原通高の妻が、古木古曾と称して詐巫を行い(此の事は本文中に述べた)しこと、宇津保物語に古曾女の名あることなどを思い合せると、古曾は巫女の一称と考えても大過ないようである。
: 私は、古曾は、巫女の意に用いたものであって、巫女が神社に属していて、祈願を乞うとき之を煩わしたので、後に神社を古曾と云うようになったのであると考えている。伊勢斎宮の寮頭藤原通高の妻が、小木古曾と称して詐巫を行い(此の事は本文中に述べた)しこと、宇津保物語に古曾女の名あることなどを思い合せると、古曾は巫女の一称と考えても大過ないようである。


物忌(モノイミ) 伊勢皇大神宮 大神宮儀式帳
物忌(モノイミ) 伊勢皇大神宮 大神宮儀式帳
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宮能売(ミヤノメ) 三輪神社 大三輪神三社鎮座次第
宮能売(ミヤノメ) 三輪神社 大三輪神三社鎮座次第
: 同書に『磐余甕栗宮御宇天皇(清寧)、勅大伴室屋大連、奉幣帛於大三輪神社、祈祷無皇子之儀、時神明憑<u>宮能売</u>曰、天皇勿慮之、何非絶天津日嗣哉』云々。
: 同書に『磐余甕栗宮御宇天皇(清寧)、勅大伴室屋大連、奉幣帛於大三輪神社、祈禱無皇子之儀、時神明憑<u>宮能売</u>曰、天皇勿慮之、何非絶天津日嗣哉』云々。
: 中山曰、巫女の祖神である天鈿女命は、一に大宮能売命とも呼ばれていたので、宮能売は巫女の一般称とも考えられ、敢て三輪社に限られたものではないと思われるのであるが、他社で巫女を斯く呼んだことが寡見に入らぬので、姑らく同社に限ったものにして載せるとする。
: 中山曰、巫女の祖神である天鈿女命は、一に大宮能売命とも呼ばれていたので、宮能売は巫女の一般称とも考えられ、敢て三輪社に限られたものではないと思われるのであるが、他社で巫女を斯く呼んだことが寡見に入らぬので、姑らく同社に限ったものにして載せるとする。


玉依媛(タマヨリヒメ) 賀茂神社 秦氏本系帳
玉依媛(タマヨリヒメ) 賀茂神社 秦氏本系帳
: 柳田国男先生の玉依媛考(郷土研究四巻十二号所載)の一節に『玉依姫と云ふ名は、其自身に於て、神の寵幸を専らにすることを意味してゐる。親しく神に仕へ、祭りに与った貴女が、屡々此名を帯びて居たとても、ちつとも不思議は無い。と言ふよりも、寧ろ最初は高級の巫女を意味する普通名詞であつたと見る方が正しいのかも知れぬ』云々と論じ、更に進んで『玉依姫は<ruby><rb>魂憑媛</rb><rp>(</rp><rt>タマヨリヒメ</rt><rp>)</rp></ruby>なり』と断定せられている。実に前人未発の卓見であって、然も後世規範の至言である。
: 柳田国男先生の玉依媛考(郷土研究四巻十二号所載)の一節に『玉依姫と云ふ名は、其自身に於て、神の寵幸を専らにすることを意味してゐる。親しく神に仕へ、祭りに与った貴女が、屢々此名を帯びて居たとても、ちつとも不思議は無い。と言ふよりも、寧ろ最初は高級の巫女を意味する普通名詞であつたと見る方が正しいのかも知れぬ』云々と論じ、更に進んで『玉依姫は<ruby><rb>魂憑媛</rb><rp>(</rp><rt>タマヨリヒメ</rt><rp>)</rp></ruby>なり』と断定せられている。実に前人未発の卓見であって、然も後世規範の至言である。


惣ノ市(サウノイチ) 熱田神宮 塩尻
惣ノ市(サウノイチ) 熱田神宮 塩尻
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斎子(イツキコ) 松尾神社 伊呂波字類抄
斎子(イツキコ) 松尾神社 伊呂波字類抄
: 同書、松尾条の細註に『本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、立阿礼居斎子供奉』とある。
: 同書、松尾条の細註に『本朝文集云、大宝元秦都理始建立神殿、立阿礼居斎子供奉』とある。
: 中山曰。従来、巫女をイチコと称せる語原説は、概してイツキコの転訛(他にも一説ある)であると言われているが、私には左袒することが出来ぬ。イチコの語原に関する私見は、後段に述べるが、読者は予め此の事に留意してもらいたい。
: 中山曰。従来、巫女をイチコと称せる語原説は、概してイツキコの転訛(他にも一説ある)であると言われているが、私には左袒することが出来ぬ。イチコの語原に関する私見は、後段に述べるが、読者は予め此の事に留意してもらいたい。


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女別当(オンナベッタウ) 羽黒神社 出羽国風土略記
女別当(オンナベッタウ) 羽黒神社 出羽国風土略記
: 同書(巻二)に『雅集(私註。三山雅集なり)に云、女別当職といふもの有て、諸国の巫女を司り、神託勘弁の家業也(原註。最上郡新庄七所明神に、女にて奉仕する者有り、又土俗是を<u>鶴子のかみ</u>といふ。秋田城内の<u>いなり</u>に女にて奉仕する者あり、五十石領す、女別当と称するは此類にや)今も信州には智憲院より許状を得て、羽黒派の<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>とて神託する者ありとぞ。寛文年中聖護院の宮ならびに神祇長上より被仰出たる書付、又公儀より着添被仰出たる書付の趣にも、神託宣等する神子は、寺家の手に属するものとは見えず、荘内には羽黒派の神子とて神託するもの、千早舞衣等着する者あり』云々。
: 同書(巻二)に『雅集(私註。三山雅集なり)に云、女別当職といふもの有て、諸国の巫女を司り、神託勘弁の家業也(原註。最上郡新庄七所明神に、女にて奉仕する者有り、又土俗是を<u>鶴子のかみ</u>といふ。秋田城内の<u>いなり</u>に女にて奉仕する者あり、五十石領す、女別当と称するは此類にや)今も信州には智憲院より許状を得て、羽黒派の<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>とて神託する者ありとぞ。寛文年中聖護院の宮ならびに神祇長上より被仰出たる書付、又公儀より着添被仰出たる書付の趣にも、神託宣等する神子は、寺家の手に属するものとは見えず、荘内には羽黒派の神子とて神託するもの、千早舞衣等着する者あり』云々。
: 更に同書(同巻)に『神子、左(鶴岡七日町に在り)寄木(仙道に在り)とて、両女は料六石三斗づつ、羽源記に云ふ、仙道の寄木大梵寺の左なといふ神子共、一生不犯の行体にて加持しけるにとあり』云々。
: 更に同書(同巻)に『神子、左(鶴岡七日町に在り)寄木(仙道に在り)とて、両女は料六石三斗づゝ、羽源記に云ふ、仙道の寄木大梵寺の左なといふ神子共、一生不犯の行体にて加持しけるにとあり』云々。
: 中山曰。左は、ヒダリと訓むか、アテラと訓むか、判然せぬ。後考を俟つ。寄木はヨリキで、尸坐(ヨリマシ)の意に外ならぬ。「三山雅集」に、寄木の文字に囚われて、霊木漂着の奇談を以て、これが説明を試みているのは附会であって、採るに足らぬ。
: 中山曰。左は、ヒダリと訓むか、アテラと訓むか、判然せぬ。後考を俟つ。寄木はヨリキで、尸坐(ヨリマシ)の意に外ならぬ。「三山雅集」に、寄木の文字に囚われて、霊木漂着の奇談を以て、これが説明を試みているのは附会であって、採るに足らぬ。


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市子(イチコ) 殆ど全国に行わる 吾妻鏡
市子(イチコ) 殆ど全国に行わる 吾妻鏡
: 同書(巻二)治承五年七月八日の条に、『相模国大庭厨等<u>一古</u>娘依召参上、奉行遷宮事』云々。
: 同書(巻二)治承五年七月八日の条に、『相模国大庭厨等<u>一古</u>娘依召参上、奉行遷宮事』云々。
: 中山曰。イチコの名称の文献に現われたのは、寡見の及ぶ限りでは、吾妻鏡が最初のように思われる。而してイチコの語原に就いては、二説ある。(一)は前に載せたイツキコ転訛説で、(二)は「新編常陸国誌」巻十二に記してある中山信名の考証である。ここにその要を摘むに、『市子と云ふは、元市に出て此事を為せし故なり。其証は日本後紀に延暦十五年七月二十二日辛亥、生江臣家道女、逓送本国、家道女越前国足羽郡人、常於市鄽妄説罪福、眩惑百姓、世に号曰越優婆夷とあり。市子の事を市殿と云ひしことは義残後覚にも見えたり』云々。
: 中山曰。イチコの名称の文献に現われたのは、寡見の及ぶ限りでは、吾妻鏡が最初のように思われる。而してイチコの語原に就いては、二説ある。(一)は前に載せたイツキコ転訛説で、(二)は「新編常陸国誌」巻十二に記してある中山信名の考証である。ここにその要を摘むに、『市子と云ふは、元市に出て此事を為せし故なり。其証は日本後紀に延暦十五年七月二十二日辛亥、生江臣家道女、逓送本国、家道女越前国足羽郡人、当於市鄽妄説罪福、眩惑百姓、世に号曰越優婆夷とあり。市子の事を市殿と云ひしことは義残後覚にも見えたり』云々。
: 中山曰。私には此の考証も承認することが出来ぬのである。而して、私案を簡単に言えば、イチとは琉球語のイチジャマ(呪詛する人の意)のイチと同じ語根に属するもので、古くはイチの語に呪詛の意の在りしものと考えている(朝鮮巫俗考に由れば、朝鮮の古代に神市氏というが在ったと記している。或はイチの語は北方系の古語ではあるまいか)。武蔵及び信濃の一部で、巫女をイチイと呼んだは、偶々此の古語の残存せる事を思わしめ、更に九州の大部分で、巫女をイチジョウと称しているのは、同じく琉球語と交渉あることを考えさせるものがある。敢て異を樹てるに急なるものではないが、記して高批を仰ぐとする。
: 中山曰。私には此の考証も承認することが出来ぬのである。而して、私案を簡単に言えば、イチとは琉球語のイチジャマ(呪詛する人の意)のイチと同じ語根に属するもので、古くはイチの語に呪詛の意の在りしものと考えている(朝鮮巫俗考に由れば、朝鮮の古代に神市氏というが在ったと記している。或はイチの語は北方系の古語ではあるまいか)。武蔵及び信濃の一部で、巫女をイチイと呼んだは、偶々此の古語の残存せる事を思わしめ、更に九州の大部分で、巫女をイチジョウと称しているのは、同じく琉球語と交渉あることを考えさせるものがある。敢て異を樹てるに急なるものではないが、記して高批を仰ぐとする。


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: 中山曰。東北人は、清濁の発音に往々明確を欠き、前掲のイタコなども、大半は濁ってイダコと云うている。これから見ても、此の語がイチコの延言訛語なることは、深く言うまでもあるまい。
: 中山曰。東北人は、清濁の発音に往々明確を欠き、前掲のイタコなども、大半は濁ってイダコと云うている。これから見ても、此の語がイチコの延言訛語なることは、深く言うまでもあるまい。


座頭嬶(ザトカカ) 同国仙北郡 郷土研究(四巻四号)
座頭嬶(ザトカヽ) 同国仙北郡 郷土研究(四巻四号)
: 中山曰。東北地方に於ける座頭は、一にボサマとも称して、古き盲僧の面影を濃厚に伝えている。而して是等の妻女は、概して巫女であったので、遂にかかる俚称を負うようになったのであろうと考える。
: 中山曰。東北地方に於ける座頭は、一にボサマとも称して、古き盲僧の面影を濃厚に伝えている。而して是等の妻女は、概して巫女であったので、遂にかかる俚称を負うようになったのであろうと考える。


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盲女僧(マウジョソウ) 陸中国一部 東磐井郡誌
盲女僧(マウジョソウ) 陸中国一部 東磐井郡誌
: 同誌に『天台宗に属したる盲女僧郡中の各村にあり、是は信者の依頼に応じ、祈祷或は卜筮をなし、亡者ある家にては親族婦女子挙りて此の盲女僧に凴りて亡者の幽言を聞くを常とす。之を「口寄」と云ふ』とある。
: 同誌に『天台宗に属したる盲女僧郡中の各村にあり、是は信者の依頼に応じ、祈禱或は卜筮をなし、亡者ある家にては親族婦女子挙りて此の盲女僧に凴りて亡者の幽言を聞くを常とす。之を「口寄」と云ふ』とある。
: 中山曰。天台宗に属したのは、明治以後取締が厳重になったためで、昔は普通の市子であったことは言うまでもない。
: 中山曰。天台宗に属したのは、明治以後取締が厳重になったためで、昔は普通の市子であったことは言うまでもない。


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: 中山曰。前記の「アガタカタリ」の下略であることは、言うまでもないが、ただ斯かる古語が、今に残っているところが、珍重すべきである。
: 中山曰。前記の「アガタカタリ」の下略であることは、言うまでもないが、ただ斯かる古語が、今に残っているところが、珍重すべきである。


笹帚き(ササハタキ) 常陸国久慈郡の一部 栗ノ木三次氏
笹帚き(サヽハタキ) 常陸国久慈郡の一部 栗ノ木三次氏
: 中山曰。大正五年八月に、ネフスキー氏と同地方に旅行した折に、同郡天下野村の小学校長である栗木氏から聴いたものである。「新編常陸国誌」巻十二にもササハタキの名称が載せてある所から推すと、此の話は信用して差支ないようである。而して此の名は、呪術の作法から負うたもので、巫女が自己催眠の状態に入るには、その師承の流儀により、種々なる方法と、種々なる器具を要するのであるが、両手に小笹の枝を持ち、それで自分の顔をはたきながら(湯立巫女の笹で全身をたたくのと交渉あることは勿論である)呪術をすすめるのも一方法であって、ササハタキの称えは、これに由来するのである。猶お、巫女の持物や、笹はたきの呪法に就いては、本文後段に詳述する。
: 中山曰。大正五年八月に、ネフスキー氏と同地方に旅行した折に、同郡天下野村の小学校長である栗木氏から聴いたものである。「新編常陸国誌」巻十二にもサヽハタキの名称が載せてある所から推すと、此の話は信用して差支ないようである。而して此の名は、呪術の作法から負うたもので、巫女が自己催眠の状態に入るには、その師承の流儀により、種々なる方法と、種々なる器具を要するのであるが、両手に小笹の枝を持ち、それで自分の顔をはたきながら(湯立巫女の笹で全身をたたくのと交渉あることは勿論である)呪術をすすめるのも一方法であって、サヽハタキの称えは、これに由来するのである。猶お、巫女の持物や、笹はたきの呪法に就いては、本文後段に詳述する。


モリコ 同国新治郡地方 浜田徳太郎氏
モリコ 同国新治郡地方 浜田徳太郎氏
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ノノウ 信濃国小県郡地方 角田千里氏
ノノウ 信濃国小県郡地方 角田千里氏
: 中山曰。巫女をノノウと言うのは、或は子供達が神や仏をノノサンと呼ぶほどの敬語から来たのではないかと思うが、併しこれだけでは、何となく物足らぬ気がする。敢えて後賢を俟つ。但し同地方では、巫女を陰で賤しめて言うときはボッポㇰと称している。
: 中山曰。巫女をノノウと言うのは、或は子供達が神や仏をノヽサンと呼ぶほどの敬語から来たのではないかと思うが、併しこれだけでは、何となく物足らぬ気がする。敢えて後賢を俟つ。但し同地方では、巫女を陰で賤しめて言うときはボッポㇰと称している。


旅女郎(タビジョラウ) 長野市附近 長野新聞
旅女郎(タビジョラウ) 長野市附近 長野新聞
: 中山曰。巫女が性的職業婦人を兼ねていた事には、段々と説明すべき資料が残されているが、その古い<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>は、即ち巫娼である。下に載せた甲斐で巫女を白湯文字と呼ぶのも、又此の意味に外ならぬのである。猶お、この事に就いては、本文中に[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|詳述]]する。
: 中山曰。巫女が性的職業婦人を兼ねていた事には、段々と説明すべき資料が残されているが、その古い<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>は、即ち巫娼である。下に載せた甲斐で巫女を白湯文字と呼ぶのも、又此の意味に外ならぬのである。猶お、この事に就いては、本文中に詳述する。


イチイ 同国松本市地方 胡桃沢勘内氏
イチイ 同国松本市地方 胡桃沢勘内氏
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白湯文字(シロユモヂ) 甲斐国の一部 内藤文吉氏
白湯文字(シロユモヂ) 甲斐国の一部 内藤文吉氏
: 中山曰。甲斐国で古く巫女を白湯文字と称したことを、同国の地誌である「裏見寒話」(宝暦頃の写本)で見た記憶があるが、同書が座右にないので、参照することが出来ぬ。ここには内藤氏の教示のままを載せるとする。而して此の語原は、甲斐の隣国である信濃は、<ruby><rb>歩</rb><rp>(</rp><rt>アル</rt><rp>)</rp></ruby>き<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の本場(この詳細は本文に記述する)とて、関八州は勿論のこと、遠くは近畿地方まで出かけたものである。信濃巫女は常に二三人づつ連れ立ち、一人の荷物を伴うているが、道中する時、着衣の裾を褰げ、白湯文字を出して歩くので、遂に此の名で呼ばれるようになったのである。「郷土研究」一巻四号の記事によると、紀州の田辺地方でも、信濃巫女の特徴は白湯文字であったと載せてある。此の名は、巫女の風俗から負うたものであるが、更に土娼の白湯文字の俚称のある次第と、巫女との関係は、本文中に[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|詳記]]する考えである。
: 中山曰。甲斐国で古く巫女を白湯文字と称したことを、同国の地誌である「裏見寒話」(宝暦頃の写本)で見た記憶があるが、同書が座右にないので、参照することが出来ぬ。ここには内藤氏の教示のままを載せるとする。而して此の語原は、甲斐の隣国である信濃は、<ruby><rb>歩</rb><rp>(</rp><rt>アル</rt><rp>)</rp></ruby>き<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の本場(この詳細は本文に記述する)とて、関八州は勿論のこと、遠くは近畿地方まで出かけたものである。信濃巫女は常に二三人づつ連れ立ち、一人の荷物を伴うているが、道中する時、着衣の裾を褰げ、白湯文字を出して歩くので、遂に此の名で呼ばれるようになったのである。「郷土研究」一巻四号の記事によると、紀州の田辺地方でも、信濃巫女の特徴は白湯文字であったと載せてある。此の名は、巫女の風俗から負うたものであるが、更に土娼の白湯文字の俚称のある次第と、巫女との関係は、本文中に詳記する考えである。


寄せ巫女(ヨセミコ) 三河国苅谷郡地方 加藤巌氏<br/>
寄せ巫女(ヨセミコ) 三河国苅谷郡地方 加藤巌氏<br/>
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: 中山曰。此の二称は、改めて説明するまでもなく、前に記したところで、解釈が出来ようと思う。
: 中山曰。此の二称は、改めて説明するまでもなく、前に記したところで、解釈が出来ようと思う。


叩き巫女(タタキミコ) 播磨国 物類称呼(巻一)
叩き巫女(タヽキミコ) 播磨国 物類称呼(巻一)
: 中山曰。弓をたたきて呪術を行いしより負うた名である。而して此の俚称を用いている所は、紀州田辺町を始めとして、各地にあるが、今は煩を避けて省略する。
: 中山曰。弓をたたきて呪術を行いしより負うた名である。而して此の俚称を用いている所は、紀州田辺町を始めとして、各地にあるが、今は煩を避けて省略する。


歩き巫女(アルキミコ) 大和奈良地方 大乗院雑事記
歩き巫女(アルキミコ) 大和奈良地方 大乗院雑事記
: 同書、寛正四年十一月二十三日の条に「七道者」と題し『猿楽、アルキ白拍子、<u>アルキ御子</u>、金タタキ、本タタキ、アルキ横行、猿飼』の七者が挙げてある。
: 同書、寛正四年十一月二十三日の条に「七道者」と題し『猿楽、アルキ白拍子、<u>アルキ御子</u>、金タヽキ、本タヽキ、アルキ横行、猿飼』の七者が挙げてある。
: 中山曰。巫女には、土着者と、漂泊者の二種があったが、大和のは、後者のそれが時を定めて廻って来たので、かく称したものである。
: 中山曰。巫女には、土着者と、漂泊者の二種があったが、大和のは、後者のそれが時を定めて廻って来たので、かく称したものである。


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佾(イツ) 土佐国 郷土研究
佾(イツ) 土佐国 郷土研究
: 同誌(壱巻壱号)に、諸神社録を引用して『土佐で多くの社に佾と云ふ者が居るのも、亦是で(中山曰。巫女の意)であらう。其住所を佾屋敷と云ひ、或は男の神主を佾太夫などとも云ふ』云々。
: 同誌(壱巻壱号)に、諸神社録を引用して『土佐で多くの社に佾と云ふ者が居るのも、亦是で(中山曰。巫女の意)であらう。其住所を佾屋敷と云ひ、或は男の神主を佾太夫などゝも云ふ』云々。
: 更に富岡町志(阿波国那賀郡)所載の延宝二年学原村棟付帳に『いち神子に入むこ、太次兵衛、此者渭津(中山曰。イツと訓む)籠屋町しやくわん(左官)次兵衛いとこ寛文拾年に参居申候』とある。巫覡をイツと称したのは、独り土佐ばかりでなく、広く四国に及んでいたのではあるまいか。
: 更に富岡町志(阿波国那賀郡)所載の延宝二年学原村棟付帳に『いち神子に入むこ、太次兵衛、此者渭津(中山曰。イツと訓む)籠屋町しやくわん(左官)次兵衛いとこ寛文拾年に参居申候』とある。巫覡をイツと称したのは、独り土佐ばかりでなく、広く四国に及んでいたのではあるまいか。
: 猶お「土佐国職人歌合」に、博士(呪師)とあるのは、外法箱ようの物に弓を置き、左手に幣を、右手に棒を持っているのは、尋常の神道者ではない。恐らく佾太夫の一種ではあるまいかと思う。
: 猶お「土佐国職人歌合」に、博士(呪師)とあるのは、外法箱ようの物に弓を置き、左手に幣を、右手に棒を持っているのは、尋常の神道者ではない。恐らく佾太夫の一種ではあるまいかと思う。
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: 中山曰。語原は改めて説明するまでもないほど明瞭のものであるが、使用された地方の判然しないのは物足らぬが、敢て掲げるとした。一殿に就いて、神道名目類聚抄の著者は「神楽みこ」なりと云うているが、私はイチの語原から推して、単なる「神楽みこ」とは考えられぬので、ここに挙げることとした。
: 中山曰。語原は改めて説明するまでもないほど明瞭のものであるが、使用された地方の判然しないのは物足らぬが、敢て掲げるとした。一殿に就いて、神道名目類聚抄の著者は「神楽みこ」なりと云うているが、私はイチの語原から推して、単なる「神楽みこ」とは考えられぬので、ここに挙げることとした。


猶お、此の他に、<ruby><rb>里巫女</rb><rp>(</rp><rt>サトミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>村巫女</rb><rp>(</rp><rt>ムラミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、熊野巫女、<ruby><rb>上原</rb><rp>(</rp><rt>カンバラ</rt><rp>)</rp></ruby>太夫、<ruby><rb>白山相人</rb><rp>(</rp><rt>ハクサンザウニン</rt><rp>)</rp></ruby>など記すべき者もあるが、今は大体を尽すにとどめて、他は必要の機会のあるごとに本文中に記述するとした。
猶お、此の他に、<ruby><rb>里巫女</rb><rp>(</rp><rt>サトミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>村巫女</rb><rp>(</rp><rt>ムラミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、熊野巫女、<ruby><rb>上原</rb><rp>(</rp><rt>カンバラ</rt><rp>)</rp></ruby>巫女、<ruby><rb>白山相人</rb><rp>(</rp><rt>ハクサンザウニン</rt><rp>)</rp></ruby>など記すべき者もあるが、今は大体を尽すにとどめて、他は必要の機会のあるごとに本文中に記述するとした。


[[Category:中山太郎]]
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