日本巫女史/総論/第三章」を編集中

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室町期の三百年間は、歴史的には闇黒時代であり、民衆には煉獄時代であった。幕府の威信が地に墜ち、海内は挙げて戦乱の巷と化し、群雄は各地に割拠し、山海の賊盗が出没するというのであるから、民衆にとっては、此の上のない受難時代であり、且つ苦患時代でもあった。然るに、迷信は失望の時代に猖んになり、空想は失望の時に羽を広げるとあるように、此の時代に処した民衆は、驚くほど迷信的であり、空想的であった。我国の迷信は、全く此の室町期において集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我国の迷信黄金時代とも云えるのである。従って、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、当然の帰結であった。
室町期の三百年間は、歴史的には闇黒時代であり、民衆には煉獄時代であった。幕府の威信が地に墜ち、海内は挙げて戦乱の巷と化し、群雄は各地に割拠し、山海の賊盗が出没するというのであるから、民衆にとっては、此の上のない受難時代であり、且つ苦患時代でもあった。然るに、迷信は失望の時代に猖んになり、空想は失望の時に羽を広げるとあるように、此の時代に処した民衆は、驚くほど迷信的であり、空想的であった。我国の迷信は、全く此の室町期において集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我国の迷信黄金時代とも云えるのである。従って、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、当然の帰結であった。


巫覡の猖獗は甚だしきものがあったが、これ等の生活なり、巫術なりに関して、記録したものは、前期に比して、更に尠いことを、嘆ぜずにはいられぬのである。由来、室町期は、総ての歴史を通じて、殊に文献も記録も欠乏している時代である。馬蹄の響きに、吚唔の声は打ち消され、戦乱の為めに古き図書は失われ、その反対に新しき図書は出でず、文字を解する者は僅に特権階級であった僧侶に限られるという有様であった。然るに、此の文教を握っていた五山の僧徒が、漸く文学を振興したので、当時の有閑階級で、且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして、国学の訓詁注釈に著手させるに至った。
巫覡の猖獗は甚だしきものがあったが、これ等の生活なり、巫術なりに関して、記録したものは、前期に比して、更に尠いことを、嘆ぜずにはいられぬのである。由来、室町期は、総ての歴史を通じて、殊に文献も記録も欠乏している時代である。馬蹄の響きに、{口偏伊旁}唔の声は打ち消され、戦乱の為めに古き図書は失われ、その反対に新しき図書は出でず、文字を解する者は僅に特権階級であった僧侶に限られるという有様であった。然るに、此の文教を握っていた五山の僧徒が、漸く文学を振興したので、当時の有閑階級で、且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして、国学の訓詁注釈に著手させるに至った。


就中、一条兼良は稀に見る篤学者で、源氏物語に就いては、花鳥余情、千鳥抄、源語秘訣、源氏物語年立、源氏和秘抄など、極めて多くの研究を残し、更に、日本紀纂疏、伊勢物語愚見抄、歌林良材集等の著述をなし、当代の和学は殆ど兼良一人——又は兼良一家において総合されたかの観がある。後世、村田春海が和学の復興発達は一条兼良に始まるとして、その業績を称えたのも、決して過褒ではないと考える。而して兼良によって投じられた一石は、国学の研究に大なる波紋を生じ、堂上家にあっては、飛鳥井雅親、三条西実隆等の好学者を出し、武家にあっては、今川了俊、東常縁、降っては細川幽斎の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文学者としては、正徹、心敬、世阿弥、宗祇、松永貞徳等の研究者を見るに至った。
就中、一条兼良は稀に見る篤学者で、源氏物語に就いては、花鳥余情、千鳥抄、源語秘訣、源氏物語年立、源氏和秘抄など、極めて多くの研究を残し、更に、日本紀纂疏、伊勢物語愚見抄、歌林良材集等の著述をなし、当代の和学は殆ど兼良一人——又は兼良一家において総合されたかの観がある。後世、村田春海が和学の復興発達は一条兼良に始まるとして、その業績を称えたのも、決して過褒ではないと考える。而して兼良によって投じられた一石は、国学の研究に大なる波紋を生じ、堂上家にあっては、飛鳥井雅親、三条西実隆等の好学者を出し、武家にあっては、今川了俊、東常縁、降っては細川幽斎の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文学者としては、正徹、心敬、世阿弥、宗祇、松永貞徳等の研究者を見るに至った。
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こうした国学の復興的発達は、神道の方面にも、影響せずには置かなかった。そして、それを第一に受けたのは伊勢神道であった。伊勢神道とは、言うまでもなく、外宮神官の間に発生した特種の神道説であって、その思想は内外両宮を中心として発展して来たのであるが、就中外宮の祭神である豊受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せんことを一つの目的としたものである。少くも、伊勢神道初期の経典であって、長く此の神道を支配した五部書(一天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、二伊勢皇太神宮御鎮座伝記、三豊受皇太神宮御鎮座本紀、四造伊勢二所太神宮宝基本紀、五倭姫命世記)は、明かに、此の目的の下に、擬作されたものと見られるのである。
こうした国学の復興的発達は、神道の方面にも、影響せずには置かなかった。そして、それを第一に受けたのは伊勢神道であった。伊勢神道とは、言うまでもなく、外宮神官の間に発生した特種の神道説であって、その思想は内外両宮を中心として発展して来たのであるが、就中外宮の祭神である豊受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せんことを一つの目的としたものである。少くも、伊勢神道初期の経典であって、長く此の神道を支配した五部書(一天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、二伊勢皇太神宮御鎮座伝記、三豊受皇太神宮御鎮座本紀、四造伊勢二所太神宮宝基本紀、五倭姫命世記)は、明かに、此の目的の下に、擬作されたものと見られるのである。


由来、伊勢神道は、南北朝の交に度会家行が出でて、類聚神祇本源(序に元応二年とある)十五篇を著わして、これを大成した。同書の第十二は、神宣篇であって、その内容は、神々の託宣を以て満たされているのであるが、例の或種の目的の下に記されたものだけあって、徒らに、牽強附会にあらざれば、奇怪雑駁の文字を陳ねただけである。従って、我国の神道の本義に触れることは極めて尠く、その神宜篇においても、巫女の神道史上における地位の如きは、全く見ることが出来ぬのである。而して、家行には、此の外に「瑚璉集」「神道簡要」「神祇秘抄」等の著述があるが、咸な伊勢神道の衒学にあらざれば、彼れ特自の捏造哲学の愚劣なるものに過ぎぬ。されば、此の流れを汲める伊勢神道の人々は、室町期において二三の文献を残しているが、悉く大同小異のものであって、巫女等に就いては遂に何らの記すところもないのである。
由来、伊勢神道は、南北朝の交に度会家行が出でて、類聚神祇本源(序に元応二年とある)一五篇を著わして、これを大成した。同書の第一二は、神宣篇であって、その内容は、神々の託宣を以て満たされているのであるが、例の或種の目的の下に記されたものだけあって、徒らに、牽強附会にあらざれば、奇怪雑駁の文字を陳ねただけである。従って、我国の神道の本義に触れることは極めて尠く、その神宜篇においても、巫女の神道史上における地位の如きは、全く見ることが出来ぬのである。而して、家行には、此の外に「瑚璉集」「神道簡要」「神祇秘抄」等の著述があるが、咸な伊勢神道の衒学にあらざれば、彼れ特自の捏造哲学の愚劣なるものに過ぎぬ。されば、此の流れを汲める伊勢神道の人々は、室町期において二三の文献を残しているが、悉く大同小異のものであって、巫女等に就いては遂に何らの記すところもないのである。


伊勢神道と同じような影響を受けたのは、吉田神道(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道ともいう)である。此の神道で、一派の組織をなしたのは、室町期の中葉から末葉にかけ、即ち吉田兼倶にあると伝えられている。元来、此の吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の伝統を持つ家柄であって、既に兼倶以前においても多くの好学者が此の一家から現われている。「徒然草」の作者である兼好法師の如きも、此の家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懐賢の「釈日本紀」は、中世における日本書紀研究の上に、一つの時期を劃すべき文献であるとまで言われている。こうした家の学問は、兼倶を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道説を唱えるように導かれて来た。そして伊勢神道の故智を学んで、遂に吉田神道を建設するに至ったのである。而して厳格なる考察によれば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上においても、教義の点に就いても、かなり濃厚に受け容れているのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考えることが出来ぬのである。そして、それは吉田家の出であって、外宮の神官——即ち伊勢神道の祖述者となった度会常昌と親交のあった僧慈遍(天台宗の学僧)が楔子となっていたことを発見するのである。
伊勢神道と同じような影響を受けたのは、吉田神道(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道ともいう)である。此の神道で、一派の組織をなしたのは、室町期の中葉から末葉にかけ、即ち吉田兼倶にあると伝えられている。元来、此の吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の伝統を持つ家柄であって、既に兼倶以前においても多くの好学者が此の一家から現われている。「徒然草」の作者である兼好法師の如きも、此の家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懐賢の「釈日本紀」は、中世における日本書紀研究の上に、一つの時期を劃すべき文献であるとまで言われている。こうした家の学問は、兼倶を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道説を唱えるように導かれて来た。そして伊勢神道の故智を学んで、遂に吉田神道を建設するに至ったのである。而して厳格なる考察によれば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上においても、教義の点に就いても、かなり濃厚に受け容れているのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考えることが出来ぬのである。そして、それは吉田家の出であって、外宮の神官——即ち伊勢神道の祖述者となった度会常昌と親交のあった僧慈遍(天台宗の学僧)が楔子となっていたことを発見するのである。


僧慈遍の神道史学における位置は、彼の自伝によるも、『抑慈遍、聊神道に赴き、殊に霊験を憑み奉る起りは、去る元徳の年、夢の中に神勅を承るに依て、先神懐論三巻を選み、仏神の冥顯を理り、真佶の興廃を明らむ』に発し、後醍醐帝の上覧に備えるために、旧事本紀玄義(十巻)、大宗秘府(六巻)、神祇玄用図(三巻)、神皇略文図(一巻)、古語類要集(五十巻)を著し、別に『国母の詔を承けて』豊葦原神風和記(三巻)を作っている。此のうちで、私の見たものは、旧事本紀玄義(続々群書類従神祇部所収)と、豊葦原神風和記(同上)の二部だけであるが、併し是等の書籍によって知り得た慈遍の神道観は、全く伊勢神道そのままとも言うべきもので、殊に旧事本紀玄義のうちには、伊勢神道の経典である五部書を始め、神皇実録、神皇系図、天口事書等を盛んに引用して自説を立てている。試みに巫女に関係ある託宣を記した「尊神霊験事」と題せる条(豊葦原神風和記巻中所載)を見ても、五部書中の宝基本紀の一節を丸どりにして、これの終りに自説を添加したまでである。而して伊勢神道の教義が、僧慈遍の手によって、吉田神道に移されてから、約百三十年を経て、吉田神道を大成した兼倶の全盛時代が開けたのである。
僧慈遍の神道史学における位置は、彼の自伝によるも、『抑慈遍、聊神道に赴き、殊に霊験を憑み奉る起りは、去る元徳の年、夢の中に神勅を承るに依て、先神懐論三巻を選み、仏神の冥顯を理り、真佶の興廃を明らむ』に発し、後醍醐帝の上覧に備えるために、旧事本紀玄義(十巻)、大宗秘府(六巻)、神祇玄用図(三巻)、神皇略文図(一巻)、古語類要集(五十巻)を著し、別に『国母の詔を承けて』豊葦原神風和記(三巻)を作っている。此のうちで、私の見たものは、旧事本紀玄義(続々群書類従神祇部所収)と、豊葦原神風和記(同上)の二部だけであるが、併し是等の書籍によって知り得た慈遍の神道観は、全く伊勢神道そのままとも言うべきもので、殊に旧事本紀玄義のうちには、伊勢神道の経典である五部書を始め、神皇実録、神皇系図、天口事書等を盛んに引用して自説を立てている。試みに巫女に関係ある託宣を記した「尊神霊験事」と題せる条(豊葦原神風和記巻中所載)を見ても、五部書中の実基本紀の一節を丸どりにして、これの終りに自説を添加したまでである。而して伊勢神道の教義が、僧慈遍の手によって、吉田神道に移されてから、約百三十年を経て、吉田神道を大成した兼倶の全盛時代が開けたのである。


吉田神道の特色は、その教義よりは、寧ろ祭祀の儀礼に関する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の経典として、伊勢神道の「類聚神祇本源」に比敵すべき「唯一神道名法要集」の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼倶が万寿元年吉田兼延に仮託して偽作したものだと考えている。而して更に兼倶の著として疑いなき「神道大意」(神道叢説所収本)に現われたる巫女関係の託神を解して『神に三種の位あり、一には元神、二には託神、三には鬼神なり』とあるのは、僧慈遍の「尊神霊験事」の条に『凡そ冥衆に於て大に三の道あり、一には法性神、謂る法身如来と同体、今の宗廟の内証是也(中略)。二には有覚の神、謂る諸の権現にて、仏菩薩の本を隠して万の神とあらはれ玉ふ是也。三には実迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益なく愚なる物を悩し、偽れる託宣のみ多き類是也』云々とあるのを、換骨して記述したまでに過ぎぬのである。従って、巫覡に関する史学的の記載を是等の文献より発見することは極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至るまで巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴ふり神道」の総本家であったのである。
吉田神道の特色は、その教義よりは、寧ろ祭祀の儀礼に関する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の経典として、伊勢神道の「類聚神祇本源」に比敵すべき「唯一神道名法要集」の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼倶が万寿元年吉田兼延に仮託して偽作したものだと考えている。而して更に兼倶の著として疑いなき「神道大意」(神道叢説所収本)に現われたる巫女関係の託神を解して『神に三種の位あり、一には元神、二には託神、三には鬼神なり』とあるのは、僧慈遍の「尊神霊験事」の条に『凡そ冥衆に於て大に三の道あり、一には法性神、謂る法身如来と同体、今の宗廟の内証是也(中略)。二には有覚の神、謂る諸の権現にて、仏菩薩の本を隠して万の神とあらはれ玉ふ是也。三には実迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益なく愚なる物を悩し、偽れる託宣のみ多き類是也』云々とあるのを、換骨して記述したまでに過ぎぬのである。従って、巫覡に関する史学的の記載を是等の文献より発見することは極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至るまで巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴ふり神道」の総本家であったのである。
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