日本巫女史/総論/第三章」を編集中

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記・紀の神代巻には、巫女の熟語は見当らぬ。それでは、我国の神代には巫女は無かったかというに、これは決してそうではない。巫女という熟語こそ見当らぬが、実質的に巫女であった神々、及びその神々が行うた呪術なるものは、立派に存在している。殊に記・紀に比較すると、記述した年代も降り、且つ官撰ではないけれども、「古語拾遺」に神代の事を記した条に「片巫、肱巫」の二種の巫女の名が挙げてあるところから推すと、巫女が神代から在ったことは明白である。然らば、これ等の巫女、又は巫女の呪術、及び巫女の生活等に関する研究は、記・紀または古語拾遺等の研究と共に、相当、先覚の間に尽されているべき筈であるのに、事実はこれに反して、一向に纏ったものが残されていぬのである。
記・紀の神代巻には、巫女の熟語は見当らぬ。それでは、我国の神代には巫女は無かったかというに、これは決してそうではない。巫女という熟語こそ見当らぬが、実質的に巫女であった神々、及びその神々が行うた呪術なるものは、立派に存在している。殊に記・紀に比較すると、記述した年代も降り、且つ官撰ではないけれども、「古語拾遺」に神代の事を記した条に「片巫、肱巫」の二種の巫女の名が挙げてあるところから推すと、巫女が神代から在ったことは明白である。然らば、これ等の巫女、又は巫女の呪術、及び巫女の生活等に関する研究は、記・紀または古語拾遺等の研究と共に、相当、先覚の間に尽されているべき筈であるのに、事実はこれに反して、一向に纏ったものが残されていぬのである。


勿論、巫女の語義とか、呪術の意味とか、又は巫女と呪術との関係とかいう、断片的の研究は相応に試みられているが、系統を立て、年代を追うて研究したものは、全く寡見に入らぬのである。果して然らば、巫女史学の考察が、何が故に斯く先覚の間に閑却されていたかというに、これには又相当の理由が在ったのである。而して、その第一の理由は、巫女によって祖述され、発達した、神道に対する解釈の変更と、第二は、神道の仏教化、及び儒教化の結果として、全く巫女を神道の圏外に放逐した為めである。第三の理由としては、出自の高かった巫女達が、信仰の推移と社会感情の消長とにつれて、段々と自身達が堕落して来たことと、これに伴うて巫女の呪術が、詐謀に悪用されるようになり、遂に代々の官憲から禁止された結果として、宮中または名神・大社に附属した僅少の公的巫女(私の所謂カンナギ系の神子)を除いた、他の多くの私的巫女(私の所謂クチヨセ系の市子)は、社会の落伍者として蔑視され、その職業は卑賤なるものとせられ、延いて一種の特種民として待遇されるようになってしまった。而して巫女の境遇が、かかる低級に置かるるようになってからは、代々の識者は、これが呪術なり、生活なりに就いて、記録することを却って恥辱とするが如き感情を養い、それが為めに、巫女の歴史は、全然黙殺さるる結果となってしまったのである。これが奈良朝の末葉から室町期の初葉までの概観である。
勿論、巫女の語義とか、呪術の意味とか、又は巫女と呪術との関係とかいう、断片的の研究は相応に試みられているが、系統を立て、年代を追うて研究したものは、全く寡見に入らぬのである。果して然らば、巫女史学の考察が、何が故に斯く先覚の間に閑却されていたかというに、これには又相当の理由が在ったのである。而して、その第一の理由は、巫女によって祖述され、発達した、神道に対する解釈の変更と、第二は、神道の仏教化、及び儒教化の結果として、全く巫女を神道の圏外に放逐した為めである。第三の理由としては、出自の高かった巫女達が、信仰の推移と社会感情の消長とにつれて、段々と自身達が堕落して来たことと、これに伴うて巫女の呪術が、詐謀に悪用されるようになり、遂に代々の官憲から禁止された結果として、宮中または名神・大社に附属した僅少の公的巫女(私の所謂カンナギ系の神子)を除いた、他の多くの私的巫女(私の所謂クチヨセ系の市子)は、社会の落伍者として蔑視され、その職業は卑賤なるものとせられ、延いて一種の特種民として待遇されるようになってしまった。而して巫女の境遇が、かかる低級に置かるるようになってからは、代々の識者は、これが呪術なり、生活なりに就いて、記録することを却って恥辱とするが如き感情を養い、それが為めに、巫女の歴史は、全然黙殺さるる結果となってしまったのである。これが奈良町の末葉から室町期の初葉までの概観である。


然るに、室町期の中葉から、五山文学の隆昌は、当時の有閑階級で且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして国学の訓詁注釈に著手させるに至った。而して此の影響は、伊勢神道に伝って研究を促進させ、更に吉田神道などにも波及して、これ亦相当の成果を挙げさせ、全く閑却されていた巫女の問題にも、極めて微温的ではあるが触れるようになったのである。
然るに、室町期の中葉から、五山文学の隆昌は、当時の有閑階級で且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして国学の訓詁注釈に著手させるに至った。而して此の影響は、伊勢神道に伝って研究を促進させ、更に吉田神道などにも波及して、これ亦相当の成果を挙げさせ、全く閑却されていた巫女の問題にも、極めて微温的ではあるが触れるようになったのである。
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