「日本巫女史/総論/第二章」を編集中
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史論の構成は、演繹的よりは帰納的にする方が安全である。想像と推理は、史論を試みる上には禁物であって、その一々が悉く史料の上に立脚していなければならぬ。併しながら、史料を総合する事によって、関聨を把握し、或る程度の飛躍を試みることは必要である。ただその飛躍が、史料を閑却して、徒に想像に流るることは慎しむべきである。而して、史料を縦横に駆使して、史料の有てる価値を充分に発揮させるのは、全く歴史家たる者の全人格の力に依存しているのである。 | 史論の構成は、演繹的よりは帰納的にする方が安全である。想像と推理は、史論を試みる上には禁物であって、その一々が悉く史料の上に立脚していなければならぬ。併しながら、史料を総合する事によって、関聨を把握し、或る程度の飛躍を試みることは必要である。ただその飛躍が、史料を閑却して、徒に想像に流るることは慎しむべきである。而して、史料を縦横に駆使して、史料の有てる価値を充分に発揮させるのは、全く歴史家たる者の全人格の力に依存しているのである。 | ||
史家の認識は、純然たる科学であるが、その表現——即ち史論の記述は、明かに一種の芸術である。ここに於いて歴史家は創作家と同じ程度の技術を有する者でなければならぬ。併しながら、歴史の記述には制限がある。即ち認識の正確を目的とする範疇で許された創作であるから、此の埒外に出ることは注意しなければならぬ。殊に、文体に思いを凝らし、借辞に心を苦しめて、史料を損ずるが如きは邪道である。達意にして、明晰であれば、それで充分である。好んで耳遠き古語を用い、又は生硬なる熟語を陳ねて得たりとするが如きは、史論の表現法としては、与することの出来ぬ点である。 | |||
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