「日本巫女史/総論/第六章」を編集中
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建国の当初より応神朝までを斯く称するのである。年表により年代的に云えば、神武帝の即位紀元より、応神帝の四十一年まで、前後九百七十年間を含んでいるのである。而して神武紀元以前の所謂「神代」なるものは、此の時代のうちにおいて併せ記すこととした。 | 建国の当初より応神朝までを斯く称するのである。年表により年代的に云えば、神武帝の即位紀元より、応神帝の四十一年まで、前後九百七十年間を含んでいるのである。而して神武紀元以前の所謂「神代」なるものは、此の時代のうちにおいて併せ記すこととした。 | ||
これは誠に曖昧なる区分法であるが、学問的に見れば、神代とは云うものの、それが記録となったのは逈に時代の降った奈良朝のことであるから、多分の追記もあるし、尠少ならぬ修飾もあると信ずるので、神代を固有法時代において記述することは、決して不当とは思われぬからである。且つ後世より上代を見るのであるから、神代は固有法時代の最も純粋なるものとして考覈すべきものと信じたからである。 | |||
'''二、習合呪法時代''' | '''二、習合呪法時代''' | ||
仁徳帝の即位紀元(紀元九七三年)から、正親町帝の天正元年(紀元二二三三年)まで、約一千百六十年間を指しているのである。これは応神朝に韓国から儒教が公然と我国に輸入され、これと前後して支那において発達せる陰陽道(五行説及び讖緯説をも含めて斯く云う)も舶載し、更に秦韓両民族の我国に投化する者も年を趁うて多くなり、是等の関係から我が巫女の呪術にも変動を来たし、固有呪法と陰陽道との習合は、案外早くから行われていた。然るに、欽明朝に仏教が公然と百済から輸入され、これが一般に普及されるようになると、今度は固有呪法は仏教の事相と習合することとなり、巫女の呪法は彌が上にも複雑を極めるようになった。而して此の複雑せる呪法は、平安朝頃の国情と相俟って、益々猖んに行われ、鎌倉期に多少の矯正を見たものの、室町期に入るや、遂に当時民間に勢力を有していた修験道と抱合して愈々迷信を鼓吹し、社会を荼毒すること実に眼を掩うばかりになった。 | |||
'''三、退化呪法時代''' | '''三、退化呪法時代''' |