「日本巫女史/総論/第四章/第一節」を編集中
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'''一 集団生活地たる巫女村''' | '''一 集団生活地たる巫女村''' | ||
江戸期に編纂された地誌類を繙くと、各地に<ruby><rb>巫女村</rb><rp>(</rp><rt>ミコムラ</rt><rp>)</rp></ruby> | 江戸期に編纂された地誌類を繙くと、各地に<ruby><rb>巫女村</rb><rp>(</rp><rt>ミコムラ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する部落の存したことが載せてある。就中、信濃国小県郡禰津村には、四十八戸の巫女の親分ともいうべき者が家を並べて住んでいた。俚称は此の所をノノウ小路と呼んでいた。紀伊国西牟婁郡田辺町にも巫女が多く、近郊の西ノ谷字中西の下から西へ十五六軒、港村字小泉、三栖村字岡、萬呂村(以上同郡)などを数えると、四十軒以上も在ったという。壱岐国などでも、あの猫の額ほどのところで、イチジョウと称する巫女が、四十八竈あったと称している。更に大阪天王寺の<ruby><rb>巫女町</rb><rp>(</rp><rt>ミコマチ</rt><rp>)</rp></ruby>や、東京亀井戸の巫女町なども、共に軒を並べて営業していたのである。こうして、巫女が集団的に生活を営んでいたことに就いては、段々と説明すべき理由も存しているが、それは後の機会に譲るとして、兎に角にかく密集していた土地は、先ず遺跡として、巫女に関する幾多の材料が残されているのである。 | ||
'''二 巫女が開拓した村落''' | '''二 巫女が開拓した村落''' |