日本巫女史/総論/第四章/第三節

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日本巫女史

総論

第四章 巫女史の材料と其採集方法

第三節 巫女の記録的材料

巫女史学に関する史料に就いては、前章において略述したが、ここには更に補足として、記録の材料に関して述べるとする。

一 直接的と間接的との材料

独り巫女史に限ったことではないが、史学の記録には、直接的のものと、間接的のものとが存している。これを巫女史に就いて考えて見るも、(一)直接的のものとしては、前記の巫女関係の記録は言うまでもなく、更に雑誌にあっても「人類学雑誌」や「風俗書報」や、その他「郷土研究」や、「歴史と民族」や、「民族」などに掲載されたものの中には、かなり多数の材料が存している。(二)間接的のものにあっては、古くは令義解や集解に収めてある巫覡に関する法令、及び歴代の是等に対する取締の条文などを始めとし、新しいものでは西村真次氏の「万葉集の文化的研究」中の土俗学的考察と題する一章や、武田祐吉氏の「神と神を祭る者との文学」や、坂野健氏の「記紀時代歌謡の呪的宗教的要素に就て」や、更に加藤玄智中村古峡氏共著の「予言者と憑依」や、南方熊楠氏の「詛言に就いて」などは、又相当に材料が載せてある。私は以上の直接間接の材料を按排して、本史の骨子を組み立てたのであるが、此の点に関しては、深く先輩の研究に敬意を払う者である。

二 巫女に関する新聞記事

新聞の記事は、日々の社会現象を報道するにとどまるものであって、それが直ちに、学問の資料として幾何の価値を有しているかに就いては、異論もあることと思うが、私が本史に引用した新聞記事は、その性質において、単純なる報道記事とは多少とも趣を異にしているものと考えたので、私は何の躊躇もなく(勿論その内容を厳重に批判して)これを採用することとした。

新聞は概して日刊であるだけに、雑誌に比較すると、紙面が多いので、かなり詳細に、委曲に、幾日かに亘って、連載する便宜を有している。記事が学問的で無い欠点はあるけれども、眼前の事象を書くものゆえ、作為の加わらぬところに長所がある。主要記録とはならぬまでも、補助記録として重要なものがある。私が採用した「都新聞」連載の「巫女の話」や、更に「長野新聞」連載の「巫女の話」などは、これ以外には殆ど絶対的に知ることの出来ぬ内容が盛られているので、実に尊むべき記録であると信じている。

三 学友から集めた資料

これは私が今回試みて見た一種の便法であって、自分ながら、やや非学術的である事は承知していたが、材料の不足を補うためと、広く各地の状態を知りたいと思うて、余儀なく此の窮策に出た次第である。私は敢て弁解をするのではないが、巫女に関しては、長い年月を要して絶えず材料を集めていたが、遂に思う十分の一も集めることが出来なかった。

併しこれは、その集まらぬのが当然であって、集めようとした私に無理のあることを自覚した。従来の文献学者の弊は、何事でも書物さえ見れば釈然するという、誤った態度である。換言すれば、書物に書いてない事は、悉く信用出来ぬという、書物万能論であり、文献過重主義の短見である。実は、私も此の僻見に捉われていて、巫女に関することも、書物さえ読めば判明するものと盲信して、自ら老体に鞭うちつつ、日頃手から書物を釈く閑も無いほどに読みつづけて来たのであるが、さて、その結果は如何であったかと云うと、巫女の地方称すら、完全に集め得ぬという結果であった。私は自分の態度の誤っていることに、遅まきながら気が付いたので、各地方に現存している巫女の材料を集めようと企てたが、併し私には、マルコポーロや、弘法大師ほどの大旅行家たる資格はなく、よし資格があったとしても、一々実地に就いて調査する事など行われぬことと考えたので、余儀なく各地に在る未見及び曾識の学友に訴えて、

一、貴地方では巫女のことを方言で何と云うか。
二、巫女は盲人か晴眼者か、土着の者か漂泊の者か。
三、巫女の神降しの文句、及び呪術の作法。
四、巫女の修業と師匠との関係。
五、民家で巫女を頼むのは如何なる場合か。
六、巫女の生活及び社会的地位。

等の設問を発して、これが報告を煩した次第なのである。

私の此の不躾なる質問に対し、微意のあるところを高諒されてか、多くの未見及び曾識の学友が、多忙の間を割いて詳細なる報告を寄せられたことは、私として寔に感謝に堪えぬ次第である。就中、磐城国石城郡上遠野村の上遠野小学校長佐坂通孝氏は、大正十五年の初夏五月というに、私のために三里余もある山路を二度までも巫女を訪ねて、貴重なる材料を恵与された。信州上田中学に在職中の角田千里氏は、同じく私のために数里を隔てた小県郡禰津村まで出張されて、委曲を盡した報告を二回まで恵投された。そして筑前国嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏は、数回に及んで巫女を尋ね、私としては到底手に入れることの出来ぬ有益なる材料を恵送された。私は唯々、感涙に唳ぶより外に御礼の言葉も無いのである。

併しながら、友情と学問とは、全然区別しなければならぬ。学友から寄せられた報告であっても、それが学術的で無いと信じたものは、断乎として排拒するに吝なるものではない。好意に反くの罪は大なるも、学問のためには代えられぬので、私としては材料を批判し、厳選するに就いて、充分の注意を払ったことは勿論である。此の点に関しては、遍えに学友各位の賢諒を冀う次第である。