春来る鬼——秋田にのこる奇習——」を編集中

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私が秋田の物語りをするのは、誠に其当らぬことではあるが、元の太平山三吉神社の社司田村氏、又故人平福百穂大人の面影を眼に浮べて話を進めることによって、多少纏ったものを作ることが出来るかも知れぬという儚い物語りに過ぎない。真に「春来る鬼」の物語りと言うべきである。真澄の此記述が世の中に知られるようになる以前に、既にこうした事実の、断片ながら彼方此方の地方に行われて居ることは聞いて居た。即ち東北地方の小正月なり、或は十四日年越しの夜に行われる行事が、かなりの程度まで一致して広く行われて居たことである。これを初めて知ったのは、大正八・九年頃の東京朝日の新年風俗に関する広告を募った時のことであった。
私が秋田の物語りをするのは、誠に其当らぬことではあるが、元の太平山三吉神社の社司田村氏、又故人平福百穂大人の面影を眼に浮べて話を進めることによって、多少纏ったものを作ることが出来るかも知れぬという儚い物語りに過ぎない。真に「春来る鬼」の物語りと言うべきである。真澄の此記述が世の中に知られるようになる以前に、既にこうした事実の、断片ながら彼方此方の地方に行われて居ることは聞いて居た。即ち東北地方の小正月なり、或は十四日年越しの夜に行われる行事が、かなりの程度まで一致して広く行われて居たことである。これを初めて知ったのは、大正八・九年頃の東京朝日の新年風俗に関する広告を募った時のことであった。


其後屡、所謂「目のよる処に珠」の譬えの通り、書物から口頭から類似の事実の多いことを知った。近年出た日本地理体系に、男鹿の何の村かの生身剝の勢揃いした写真が出ている。なんでもない小さなすけっちに過ぎないが、遉に尚古い精神の伝承がそれに漲っていた。今後もこれ以上の生きた姿を取ることは出来ないと思う。船川の町に宿ったのは、あれは盆の幾日であったか知らぬ月の円かに白い晩であった。この町が畏友故沢木梢さんの生家のある処とも知らずに逍遥していた私は、夜の更くるまで町の広場で踊り興じている人の様々の姿の上に、ふと小正月の夜の男鹿の生身剝の面影を見た。東京に帰って秋田人であるということも、沢木さんにその話をして初めて船川の人であることを知った程、この県に対する知識は迂遠なものであった。竿灯其他の誘惑を感じさせる物語りをしてくれた某沢木さんも亡くなって、もう年を経た。この縁の少い秋田について憶い出されるのは、続々として故人の姿である。実は生身剝其ものが昔の村々にとって故人だったのである。言い換えればその農村漁村の測り知れない過去の祖先の霊鬼が、時あって帰って来たことを見せている。徒然草のような手狭い古典を御覧になったらすぐ心付く、あの四季の移り変りを叙した文書にも、東国の大晦日の晩に亡き霊の来ることを記して居る。そうして其夜家々の門の戸をけたたましく叩いて通ることが書いてある。記述が頗る簡単で、そうして如何にも物の哀れの外核に感傷しているに過ぎないものだから、細やかな姿を思い浮べることも出来ないが、今は東北一帯に面影を止めるに過ぎないものが、当時は恐らく関東地方にも行われていたことを示すものではあるまいか。
其後屢、所謂「目のよる処に珠」の譬えの通り、書物から口頭から類似の事実の多いことを知った。近年出た日本地理体系に、男鹿の何の村かの生身剝の勢揃いした写真が出ている。なんでもない小さなすけっちに過ぎないが、遉に尚古い精神の伝承がそれに漲っていた。今後もこれ以上の生きた姿を取ることは出来ないと思う。船川の町に宿ったのは、あれは盆の幾日であったか知らぬ月の円かに白い晩であった。この町が畏友故沢木梢さんの生家のある処とも知らずに逍遥していた私は、夜の更くるまで町の広場で踊り興じている人の様々の姿の上に、ふと小正月の夜の男鹿の生身剝の面影を見た。東京に帰って秋田人であるということも、沢木さんにその話をして初めて船川の人であることを知った程、この県に対する知識は迂遠なものであった。竿灯其他の誘惑を感じさせる物語りをしてくれた某沢木さんも亡くなって、もう年を経た。この縁の少い秋田について憶い出されるのは、続々として故人の姿である。実は生身剝其ものが昔の村々にとって故人だったのである。言い換えればその農村漁村の測り知れない過去の祖先の霊鬼が、時あって帰って来たことを見せている。徒然草のような手狭い古典を御覧になったらすぐ心付く、あの四季の移り変りを叙した文書にも、東国の大晦日の晩に亡き霊の来ることを記して居る。そうして其夜家々の門の戸をけたたましく叩いて通ることが書いてある。記述が頗る簡単で、そうして如何にも物の哀れの外核に感傷しているに過ぎないものだから、細やかな姿を思い浮べることも出来ないが、今は東北一帯に面影を止めるに過ぎないものが、当時は恐らく関東地方にも行われていたことを示すものではあるまいか。


男鹿の村々でも、処によって生身剝の姿に多少の違いがあるように聞いている。真澄以後変化したのもあろうし、真澄の見聞の及んでいないものもあるに違いない。あれほど男鹿の春夏秋冬の海風に当って吟嘯した詩人ですらも知らない、村の寂しいひそやかな生活が、其後幾数十年残り伝えて来たのである。鬼は、我々の国の古代においては決して今人の考えるような、角がない。虎の皮の褌という、あの定型を持ったものでなかった。単に巨人を意味するものに過ぎなかったのである。その鬼が多くは常に姿を現さず、時あって霊の集中することによって巨大な姿を現すものと見られていた。その多くの鬼の中、最も原始的なものに近く、又傍ら懐しい心で眺められていたものは、村々の祖先の霊であった。日本の村の発達は海岸地方を最初と見なければならぬので、祖先の霊の集中する地として海のあなたに空想の霊地・常世の島を考えていた。その地から、春毎に来り臨む巨人があったのである。或は一人二人、時には数人数十人という形に、処によって段々と変化して来たものと思われるが、今昔を辿って行けば、南の端の琉球諸島から来た旧日本の山村海落に至るまで、これを見ることが出来る。
男鹿の村々でも、処によって生身剝の姿に多少の違いがあるように聞いている。真澄以後変化したのもあろうし、真澄の見聞の及んでいないものもあるに違いない。あれほど男鹿の春夏秋冬の海風に当って吟嘯した詩人ですらも知らない、村の寂しいひそやかな生活が、其後幾数十年残り伝えて来たのである。鬼は、我々の国の古代においては決して今人の考えるような、角がない。虎の皮の褌という、あの定型を持ったものでなかった。単に巨人を意味するものに過ぎなかったのである。その鬼が多くは常に姿を現さず、時あって霊の集中することによって巨大な姿を現すものと見られていた。その多くの鬼の中、最も原始的なものに近く、又傍ら懐しい心で眺められていたものは、村々の祖先の霊であった。日本の村の発達は海岸地方を最初と見なければならぬので、祖先の霊の集中する地として海のあなたに空想の霊地・常世の島を考えていた。その地から、春毎に来り臨む巨人があったのである。或は一人二人、時には数人数十人という形に、処によって段々と変化して来たものと思われるが、今昔を辿って行けば、南の端の琉球諸島から来た旧日本の山村海落に至るまで、これを見ることが出来る。
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