日本巫女史/第三篇/第三章/第一節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第三章 巫女の社会的地位と其の生活

第一節 歌謡の伝統者としての巫女[編集]

先年、慶応義塾大学で開かれた「地人会」の例会で、その年に壱岐の民俗採集に赴かれた、折口信夫氏の採集談を承ったことがある。席上には、柳田国男先生、金田一京助氏、小沢愛圀氏の外に、数十名の学生がいた。私も席末を汚して拝聴した。

折口氏の講演が終ってから、苦茗をすすりながら、氏の講演に関しての、批評やら、質問やらが続けられた、いつも斯うした場合に、話の中心者となるのは柳田先生であって、私などは折口氏の講演が高遠であって了解せぬところの多いのを、柳田先生のお話により会得することが出来ると云う有様であった。その時、折口氏の話に、壱岐のイチジョウと称する市子は、神降ろしの祭文として、ユリ若説経を語るのを常とし、然もそれを語る時は、ユリと称する曲物まげものを弓に載せる(此の事の詳細は既述した)との一節があった。

私は此の話を聴いて、我国の百合若伝説の名はこれから起り〔一〕、然も巫女が説経を語ることが、同じ九州にいる盲僧が、琵琶に合せて地神経を読み、祈祷が済んでから、望まれればくずれを語る風を起したものであろうと言うたところ〔二〕、柳田先生は即座に『それは近頃の発見だ』と言われたことがある。

現在、壱岐のイチジョウが語るユリ若説経には、新古の二種あって、共にその内容はユリセスの影響を受けて、全くの英雄物語となっているというが、その遠い昔の説経が単なる英雄譚でなかったことは想像される。折口氏から借用したノートブックには左の如く記されてある。

壱岐には、百合若説経を書いた書物が、尠くとも二本ある。一本は、イチジョウの話では、箱崎渚津の或る家にあると云うたが、諸吉南触(中山曰。地名)の松永熊雄氏の家の八十老翁は、八幡の馬場氏が持っていると言うた。今一本は、後藤正足氏の家にある本である。此方は借覧したが、イチジョウから聞きとった筋とは、幾分違うようである。
此説経は、宇佐・由須原両八幡の本地物である。万能まんのう長者と朝日長者との、宝比たからくらべの段から始まって、宝多くて子の無い万能長者は、貧窮で子十人も持った朝日長者に、「百の倉より子が宝」と負けてしまう。それから申し子の段になる。その次がくらまんだん(原註。鞍馬の段か)、忍びの段となって、王様のお姫様を盗んだ咎で、百合若は嶋流しになる。その後が鬼攻めの段で、あくどこお(原註。悪路王か)と云う鬼の目に、百合若の姿が見えないで、退治られると云う話。最後が末の段である。緑丸その他の件は、此の段に出て来るのである。トドの詰りは、百合若の妻たる王の姫は、豊後の宇佐八幡、百合若は由須原八幡になるのである。外の段は遣る事も遣らぬ事もあるらしいが、「宝比べの段」は大事故、イチジョウのお勤めには、必ず唱える事になっている。説経の間は、例の竹で弓を叩いているのである云々〔三〕。

此の折口氏のノートによって、誰にでも知られるように、市子が唱えた古い説経の筋は、万能長者と朝日長者との交渉を語っていたものである。そして、百合若が嶋流しになる以下は、ユリセスの影響を受けたものであることが明確に認められる。即ち此の説経は、折口氏が言われたように本地物であって、古く巫女が歌謡者であったことを証示しているものである。

本地物は、室町期の中頃から、巫女によって隆んに謡われ(その起原は、古く平安朝まで遡り得ると思うが)るようになった。そして故荻野由之氏によって蒐集された「お伽草子」に載せてあるものだけでも、信州諏訪明神の本地である物臭太郎、厳島本地などを始めとして、決して少いものではない。伴信友翁が「此の書はすべて漫語を記せるもの」として斥けた「安居院神道集」には、殆んど各神社の本地物を集成したのではないかと思われるまでに、おびただしく採集してある。

而して、此の本地物を謡って、各地を歩いた者が、巫女であることは、勿論である。同じ諏訪本地でありながら、物臭太郎よりは、更に一段と古いものと思われる甲賀三郎伝説が、殆んど全国的に行き亘っているなどは、諏訪を守り神とした巫女の、漂泊の結果に外ならぬのである。単にこれだけの事を論拠として、此の上の推測を逞うするのは慎しむべきことではあるが、私をして真に思う所を言わしむれば、室町期の初葉において、関東で発達した曾我物語なども、古くは箱根権現の本地物を、巫女が謡い歩いたのに端を発していると思う。而してこれが、好事家によって、文字に写される時に、大成されたのではないかと言いたいのである。柳田先生が、その高著「雪国の春」で説かれた、奥州文学の発生に、巫女の偉大なる力が潜んでいたように、歌謡者としての巫女の面影は、微かながらも当代の初期までは残っていたのである。

然るに三味線が渡来してからは、これの発達が専ら男子の手によってなされ、且つ諸種の謡い物が三絃を伴奏楽とすることを条件としたので、巫女は古き伝統者でありながら、遂に謡い物を棄てなければならぬようになり、漸く呪法一つで世に処すこととなったのである。熊野比丘尼が歌を謡い、瞽女ごぜと称する者が生れたのも、共に在りし昔の巫女の一端を偲ばせるものである。

〔註一〕
百合若伝説に就いては、曾て坪内雄蔵氏が「早稲田文学」において、ギリシャのユリセスの伝説が輸入されたものであると考証されてから、此の考証が殆んど定説の如くなっているが、私は遂に首肯することが出来ぬ。百合若の文献に現われた初見は、「言継郷記」であるが、京都の公家である山科言継の日記に書かれる以前に、更に幾十年か幾百年か民間に行われていたと思われるので、日欧交通の始期がズッと引き上げられぬ限りは、ユリセス説は成立せぬと考えている。私は九州の巫女が古くユリ(ユリと称する物を叩きながらやるので此の名ありと思う)の説経を固有しているところへ、後にユリセスの伝説が附会したものだと考えている。
〔註二〕
九州の盲僧が、地神経を琵琶に合せて読むことは、「平家音楽史」、「三国名勝図会」等によると、頗る古いことのように記してあるが、その新古は姑らく別とするも、これを巫女の故智に学んだことは、疑いないようである。そして後世の薩摩琵琶とか、筑前琵琶とかいうものが、此の盲僧の琵琶から発達したことも疑いないようである。
〔註三〕
折口氏が秘蔵のノートブックをお貸しくださったことを厚くお礼申上げる。