「
春来る鬼
」を編集中
2008年8月14日 (木) 16:09時点における
たちゃな
(
トーク
|
投稿記録
)
による版
(
差分
)
← 古い版
|
最新版
(
差分
) |
新しい版 →
(
差分
)
ナビゲーションに移動
検索に移動
警告: このページの古い版を編集しています。
公開すると、この版以降になされた変更がすべて失われます。
警告:
ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。
ログイン
または
アカウントを作成
すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。
スパム攻撃防止用のチェックです。 けっして、ここには、値の入力は
しない
でください!
==まれびと== 「なもみ」の面を中心として、まれ人神——(客神)——のお話をして見たいと思います。 古代日本人の考えをつきつめてゆくと、私の申す所のまれ人というのは、終始海から来ているのです。そ れが、だんだん平地の生活、或は山の生活、又は村落の生活が始まって来ると、山からおりてくる山男・山 姥、ひっくるめて言うと、「山人」が考え出されて来ました。所が、尚、それにも拘らず、海岸地方では、 海から来る信仰が厚かったのです。伝説などを見ても、海から神が来なければ、まとまりのつかない話が多 いのです。中でも、我々が興味を持っている山椒大夫の物語には、その色々な要素が寄っているのです。そ の中で、一番中心になっているのは、丹波国由良の港という土地に、根をおろしたらしく見えている点です。 所が度々お話して来ました様に、近代の唱導文学、一口には、説話文学というものには、中心点が必ず二个 所あります。其は——近頃訣った事ですが——物語の発生した土地と、物語の根をおろした土地とでありま す。例えば、苅萱道心の物語は、中心が三つあります。つまり、筑前から出て、高野へもって行かれ、更に 信州の善光寺へおさまった訳ですが、今の所では、高野が出発点になって、信州で終りになっています。併 し、逆に、信州の親子地蔵を説いた所から、高野の話が出来てきた様にも見えるのです。山椒大夫の話でも、 そうでありまして、由良の港ですべて事件の解決がつくように見えますけれど、最初の出発点は奥州で、岩 木山の見える土地の様に思われます。そこに岩木判官という人が居て、早くなくなって、残った奥方と、其 子である姉弟と、それについていた乳母とが、生国を離れて、長の旅に出たことになって居ます。処が、途 中で人買いに遭って、乳母は身投げをして亡くなり、子供二人とお母さんとは別れ別れになり、母は佐渡へ、 子供は由良の港の千軒長者、山椒大夫の手に移ったのです。それで、どうしても、岩木山の信仰が肝腎なの です。この場合は、刈萱其他の話とはまるで違って、何のためにわざわざ岩木山をもって来たか、訣らない のです。千軒長者の話を主として考えて見ますと、訣らない事が多いのですが、それは、一方岩木山の信仰 では、姉と弟と二人が、山に登る争いをして、姉が勝って弟が負け、そして姉が山の神になった、という事 になっていて、姉を安寿姫、弟を対王丸を申しています。この話と、千軒長者の話とは、ほとんど関係がな い様に見えます。それだのに、どうして由良の港に、この話がのびて行ったか、不思議なのです。縁も由縁 もない様な、二つの話が、ここに聯絡していることを考えてみますと、由良の港の、千軒長者の唱導文学が 発達して、諸国に分布された後、岩木山の神はこうだ、と説明したのだ、と思われますが、もともと、岩木 山の信仰が宣伝せられてのちに丹波国でおさまった、という事になるのです。併し統一せられるには、余り に原始的であり、又、不思議な程単純ですが、これが元だ、という事になるのです。例えば、我々が旅行を して、海岸近い山を遠くから見ると、海からずっと浮び出ている山の様に見えます。鳥海山なども、そう見 える山です。山の根元の所では、実際は、海から或距離の平地をへだてて立っているのですが、へだたった 地から見ると、それが海から出ている様に見えるのです。普通、山の信仰は、山の根元でなく、或距離があ って、山を終始目にしている土地から起ります。其処から山へ精進しに登って行くのです。海岸地方ならば、 海の中から生えている、と思われる山が、信仰の対象になる事が多いのです。そんな現象が起るのは、何故 かと申しますと、海から神が出現して来る、という信仰があって、其神は、山の方へ登ってゆく、と信じて いたからなのです。それに就いて、別種の型の信仰があります。それは、対立した神と精霊とが争うことで す。——と言うのは、土地の神と遠来の神とが争う事でありまして、大抵は遠来の神が勝つ事になって居り ますが。——これは、農村や漁村に、きまって行われる年中行事としての芝居に似たものが、繰返されてい る中に、昔の神の物語を形づくって来たのです。それで、この岩木山の話も、山の裾から二人の兄弟が争っ て登った、という事は、海から山へ上ると言う考えがある様です。それで、山を取りあいすると言う事は、 神と精霊との争いの型なのです。古風土記の中、播磨風土記は、殆、此話ばかりと思われる程、土地の争い が書かれています。日本の古い所では、そういう風な型を一つ持っていたのです。これは、外の説明も出来 ましょうが、結局、神及び精霊の争いの印象が、強く働きかけている、と見ればいいので、此を歴史的に見 る事は、無意味な説明になって了うのです。それで、岩木山が海の中から出ている、と見られる地方の人が、 そういう事を考え出して、海から山へ登る神を信じ、そして、小さい神と大きい神と競争して山に登る、と いう風に説明して来たのです。処が、その話自身は、初めから、海からすぐ上って来た、というのでなくて、 海から上って来た神と、山から里へおりて来る神との話があって、この二つの違った神の信仰が一緒になっ て来たのです。この話の中の、山へ登ろうとするのは何の為かと申しますと、それは、まれ人は山から来る ものだ、と考えたからであって、二つが結びついて、そういう風の話になって来たのです。 ==なもみたくり== これを、適切な例をとって言うてみますと、このなもみたくりというものの、一つの中心地帯である秋田 の男鹿半島の事ですが、此処は、姿のすぐれた異色のある山が多く、新山、本山、寒風山などがあります。 『真澄遊覧記』の中にも出て居まして、真澄が興味を寄せた一つの中心地なのです。ここには、なもみたく りの話が大変に多く、柳田先生の『雪国の春』を見ても、『遊覧記』からなもみたくりの記事を、出来るだ けお集めになって居られます。それ位ですから、流石に今行って見ても、此処で所謂「なまはげ」の出る 村々が沢山あります。青年団長の家——若衆宿に、お面が預けてあって、其処から出て行く。鉄道省の案内 記にも、この事は出ている程で、小正月の晩に、若衆がそれぞれ笊に紙をはり、彩ってかぶって行く、とあ ります。これは、村々で違うのでありまして、或村では、笊だが、又或村では、夏に杉の皮を剝がしておい て、冬になるとこれに加工して、正月十五日の晩——農村では一番大事な日——にかぶって出るのです。中 には、紙の面になっている所もあります。面の形は、村々の意匠が加わり加わりして、変って来たのか、又 は毎年毎年お面を変えた為か、一様ではなく、又統一がなくなってしまうて居ます。昨年出た『奥の手風 俗』を見ますと、なもみたくりの事を、かせぎとりと書いてありますが、かせはかさと同じく、或一種の皮 膚病、子供のあせもの様にも考えられます。かせぎもそんなものと思われます。かせぎとりは又、かせとり とも言うているのです。『奥の手風俗』に出ている図で見ますと、子供が小さな板の上にのせてある様な人 形を持って居て、「かせぎとりが参った」を称えて、家々へ物を乞うて歩く、とありますが、これは、段々 形が変化して来ているのだ、と思われます。併しもっと古めかしい型か、又は、面を忘れた型か訣りません が、普通では、お面で特色を現したのが、人形にまでなって来たのだ、と考えます。 抑、なもみたくりというものが、初めて記録として、広く世間に発表されたのは、大正十年頃の朝日新聞 が、各地の行事を記載した時に、奥州には広く若衆が顔に鍋ずみを塗って出て、 : なもみはげたか。はげたかよ : あずきにえたか。にえたかよ と呼ばって歩く、と出て居た様に思います。 なもみは、いろりで火だこの出来ているような怠け年寄り、又は、腕白小僧を懲しめに来るものだ、と信 じられています。その形には、お面のもあり、——其お面にも色々種類があります。——又素面に物を塗っ て来るのもあり、又『奥の手風俗』のものの様に、人形のもあって、大体三通りに分けられます。 なもみ系統の語は、皆皮膚病を意味する語であって、皮膚に出ている斑点を取りに、或はとがめに来るも の、それをかせとり・なもみたくり・なまはげというのであって、皆同一類のものなのです。この外に、も うこというている所もあります。この名称には牛が聯想されますが、これは、疑いも無く、春の初めに、農 村にそういうお化けが出て来ました。それをもうこと称したことが、もくりこくりの鬼が来る、という語を 生み出したのであります。ちょうど、海から仇をしに来るもの、すなわち、蒙古の襲来の事を考えている様 ですが、もくりこくりには、きっと何等かの外の意味があると思われます。これが後には、蒙古と高麗との 鬼が攻めて来る、と考えたのだと思われます。そうなると、やはり子供をおどかすもの、という事になりま す。例えば、がごぜという目に特徴のある鬼、ももんがあという両手を広げて口に特徴のある物、こうした 子供をおどかすものと、一つになってしまったので、もとは、小正月の行事の印象から来て居るものと思わ れます。所が、もうこ・もくりこくり、という語に就いては、果してもくりこくりという語を、もうことい う一種の鬼から解釈していいかどうか訣りませんが、かせぎとり・なもみたくりは訣ります。実は皮膚の病 気を意味するものでなく、もっと外の意味であったのが、其聯想から、段々そうなって来たのだとだけは、 少くとも言えるのであります。恐らく、このなもみとかかせぎ・かせ(さ)とりとかいうのは、やって来る まれ人の、特殊な服装から出て来るのではなかろうか、と思われます。 ==けた== 話が目的の一部分ではあるが、細かい所へ入り過ぎたから、もとへ戻して見ます。この男鹿の岬では、神 は海から来る、と考えたのでしょう。そして、その神は、秋田の東南太平山に移るもの、と考えて居たらし いのです。神は平地から山上へ登ると考えたのです、一体この太平山は、修験道の一道場なのです。男鹿・ 太平山に当るところをあげて見ると、能登半島の気多と石動山で、ここでは、少し形が変って、気多の、神 のいる所へ、神が海から来て、更に、石動山へ移った、と考えて居たらしいのです。気多の神に就いては、 中山さんの『日本民俗学』の中に、「気多神考」が書かれて居ますが、にこらい・ねふすきいさんが、けた とは、露語で鮭を言う、と言うたところからひんとを得て、中山さんは、おもしろい体系を作っておられま す。私の考えは不幸ながら此親友とは別途にあります。けたとは、水の上に渡した棒で、橋の一種であると は言えますが、橋ではないので、間のあいている渡し木なのです。同時に又、未だにその意味を失わずに居 ります。けたはもう少し形が変れば、たな——海岸や水中に突出したもの——と同じ形になるのであって、 ともかく、海から陸地へつなぐもので、何も土地と土地とをつなぐものではなく、それを通らねば陸地に上 れない、と考えられて居ました。これがけたなので、皆水に関係のあるものなのです。湯桁なんかを考えて も、又井桁でも、水に関係のあるものだと思われます。神は海からすぐ上るのではなく、一種の足溜りを通 って上ったらしいのです。それが、けたという土地が、日本の海岸地方に分布しており、又、古い信仰が残 っている理由なのです。けたという所は、海から陸地へ上る足溜りですから、その土地が、同時にけたと言 われます。陸へ上ってから、もう一つ山に登らねばならぬので、石動山を考えたのです。三十年ほど前まで は、石動山——修験の中本山——から、気多の祭りの時に、山伏が下りて来て、斧をふって舞う行事があっ たそうです。これは、一个所でいいのですが、延長してもう一个所考えてみたのです。 ==遠来の神== この海から来る神の信仰は、至る所に行われていますが、変っているのは、伊豆七島、殆、全般に行われ ている所の、悪い事をして殺された者が、盆に出て来て、海岸の村を脅やかす、という信仰であります。此 は、既に藤木喜久麿さんの報告もありました。村人の考えでは、うら盆や、又は大晦日の晩に、海に出る船 幽霊と同性質を持っているのです。 これとなもみたくりとの間には、段々の過程がありますが、話を少し形の変ったものにしてみると、台湾 の首狩りの風習ですが、この事柄も、結局は、まれ人を神に祭る風習から起っているらしく、他処から来る 神をこしらえる風習らしいのです。その風習の印象が、台湾に残っていて、段々衰えたのは、清朝の役人が、 この風習を止めさせるために、自分自ら殺されてしまって、その人が祭られるようになった、と言っていま す。これは、遠い所から来る神を祭る信仰であって、stranger が神そのものである、という事を忘れて、 首を切ったのであります。日本で申しても、名古屋辺りにも、祭りに、旅人を捕えていじめる風習が処々残 っています様に、こんなにまで変化していますが、それは、先ず預っておいて、例えば、もっと古い所を考 えても、信濃国安曇郡は、海人の出た所で、少くとも、海部の民の開いた土地に違いなく、でないまでも、 海部のもっている信仰を、持って来た人の、開いた土地なのです。それは、北陸の海から、おそらく、姫川 を溯って這入って来たものと思われますが、即、海から山へ這入って来ているのです。これは、神の資格が 定まる、というような考えから出るのです。一方では、山から海へ帰る、という様な考えを抱いて来ます。 信州の話では、歴史と民間の信仰とが一緒になっていますが、地方によれば、山から海へ戻って行った、と いう事になっているのもあります。その外、平地の行事が終ると、山へ入るとも考えたのです。山の神と田 の神とは、時期によって交代します。それで、冬は——秋の末から春の初めの間——山へ登って行き、その 他の時期は、里へ下って、河童になっている、と考えたのです。山と海とを、こんな風に考えるのは、古い 信仰の名残りなのです。 話が、飛び飛びになりましたが、沖縄では、終始、おとおしという事を申します。とおすというのは、通 拝する事であって、この土地から向うへかけておがむ、という事なのでしょう。その通拝所の著しいのは、 海岸であって、大きな霊地では、海岸に島があって、其処から神が来る、と考えたのです。島のない所では、 岬を考えています。沖縄の国頭郡の今帰仁という所にも、海中に島があり、其処を遥拝するのを、大事の一 つとして居ます。或は、先島列島にも、これが多く、離れ島——或土地のものだと考えている——を、はな れといいます。はなれというものには、終始、この遥拝の信仰が伴っていて、稀には、其処に兇悪な鬼の様 なもの、又、すぐれた者がいて、島を苦しめた、という事もあります。島の無い所では、これにあたるのは 岬ですが、沖縄本島で一番大事な所は、北——やまと——の方を向いた所であって、神が北(多くの場合は 東、又稀には西)から来ると考えました。あがりの大主は、東方の主神、という事です。これが一転して、 北から stranger が来る、とも考えられて来たのです。沖縄人は、北が口で南が尾、と考え、国頭・中頭・ 島尻、という順に考えています。そして、北をやまと、と考えていました。ここでは、国頭の辺土の岬が遥 拝所であって、宮廷の大祭のある時には、辺土の岬に、涼傘という傘が立ちます。この下に神がいる、と いう意味らしいのです。日本ならきぬ笠の様なもので、傘が何本も立つという事になりますが、辺土の御嶽 ——神のおりる所がうたきである——に涼傘が立って、祭りが始まり、其処を神が初めて足溜りとして来る のです。久高島という島は、首里から平地が一里海が三里の島ですが、知念は久高島の遥拝所になっていま して、我が国に於ける伊勢の斎宮にあたる首里王家の、現今でも、聞得大君御殿が——初めて聞得大君に なった最初の年の春——斎場御嶽という霊地へ行き、それから久高島へ参り、又斎場へ帰ってそれから又首 里へもどって、聞得大君御殿に入り、初めて聞得大君の資格を得るのであります。おあらふりと言うのは、 日本の語で言えば、新あもりであって、これは順序が逆で、海の向うから出て首里へ這入るので、実は、弁 御嶽に鎮まる形になるのでしょう。そして、聞得大君御殿におさまってしまいます。処がその形がみだれた のは、首里を出て久高へ行く行事が大事なものだから、それだけが重くなって、帰りの行事が簡単になった のです。外に、村々の神女(君々、祝々)が神となって現われるのもあり、あらふりといって、海岸或は海 の中に現われたりする事もあるのです。 そういう風に、海から出て来る神は、まず海岸の一所——けたという語を用いたいと思います——けたへ 飛び上り、そのけたから陸に上るのですが、けたが延長されて、その陸地がけたになり、其処から、更に山 にのぼって行くのです。もっと古い形を考えてみますと、海から海岸の村々へ出て来ることだけですむので す。その時に、村の家々を訪問する形もあろうし、村人を一个所に集めて、村人に接する事もありましょう、 総て一様ではありますまい。が、近代の我々の村々では、家々が同格でありますが、古くは小さい家が認め られず、大きな家一軒へ行けば全部へ行ったと同じことだったのです。が、これがくずれて戸別に行く様に なったのです。 ==神のおとずれ== 処で、古い時代に、村々の大衆を神が訪れます事は、村を訪れる事と同一の意味を持ったのですが、神の 来た合図は、と申しますと、先ず、咳ばらいに似たこわづくろいをし、戸をほとほと叩いたらしいのです。 節分の晩に、ほとほとと戸をたたいて祝福に来るのを、鳥取地方では、ほとほとと言って居ますが、此処に 神が居る、という報せなのであって、戸をたたかずに、声をかける事もあります。併し、いずれも、文章で はなく、短い詞なのです。日本の古い語では、「こわづくろう」というのが、神のかけ声になって居ります が、この詞は宮廷では、おしおしというて居られましたのが、近世民話では、いろいろ分れて、違った名称 で残って居りました。それが、同時に、神の名になったのです。宮中で、天皇陛下の御先祖が、天から下り て来られた時には、天圧神と申します。 その音が、「こわづくろう」でありまして、後世にはかけ声となり、そしておとずる、おとなうという風 になって参りました。「訪ずるる」という連体形が最、行われますが、おとなう・おとずるとは、音を立て ることで、此は訪問を意味します。つまり、神来臨の合図なのです。 日本の、天子の祭りの場合は、来られる神も天子ですから、どういう風になって居りましたか訣りません が、訪う時には、門迄の時もあり、家迄這入る時もあり、又は庭だけの場合もあって、一様でなく、正式と 略式とがあったのです。 処が、其場合何しに来るのかと申しますと、家・土地の精霊と約束を切りかえに来るのが、一番重い意味 らしかったのです。それが、家・土地の精霊と約束を切り換えに来ると同時に、約束をします。その約束は、 昔から定っている家を守り、主人を栄えさせ、土地を繁昌させる事にきまって居ます。日本では、田の実り に対して、特別の信仰を持って居ますので、土地の祝福ことほぎという方へ、どうしても傾いて来るのです。 ことほぎとは、普通ほかいといいますが、特殊の用語例を持って居まして、演劇や舞踊に伴って居るらしい のです。此は、神と精霊と対立している形を、常にもっているのです。 小正月・節分・大晦日の晩に出て来る者が、鬼の形をして居ますが、これは、まれ人と精霊との形を混乱 させて、特殊の形を取って居た、と私も以前は思って居ましたが、一体、まれ人自身が神を意味しないで、 他所から渡って来る、一種の変ったものであって、此土地に同情を持って居ればよろしいので、家や土地を 祝福する事は、第二段に起ってくる事であります。それと同時に、一方には、意味が分化して、「裁き」や 「懲罰」をしたり致します。それが、だんだん変って参りまして、悪口を言ったりこらしめたりする様な行 事が起り、それが転じて、主人の悪態をつく風習を生じて、拡まったのです。これは、つまり、ことほぎが 将来を祝福する事でありますから、今年はしっかりやって貰わねば困る、という意味で、悪態をついたり、 こらしめたりする様になったのであります。 我々の国では、存外にこやかな表情を持ったまれ人を考える事が少かったので、いつもまれ人が怒った話 が多いのです。所がまれ人の善い方面——祝福——は、段々発達して、福の神の信仰が発生して参りました。 福の神などというものも、其代表者としてのえびす神を考えて見ましても、語自身まれ人という事にすぎ ないのです。恐しい外来のまれ人のことで、あらえびすといわれて居る事もあります。あらえびすと申しま すのは、西宮地方では、沖の御前という所があって、そこに一休みなさるえびすさんだ、と考えられて居ま した。狂言の石神を見ましても、亭主と喧嘩した女が、石神に参って舞う小唄に、 : 遥かの沖にも、石はあるもの。えびすの御前のこしかけの石 と唄います。西の宮が蛭子であるかないかは別として、女神にもそうしたのがある、淡島がそれです。女の まれ人であって、極端に巫女の勢力のあった時代には、女のまれ人も来たことが考えられます。其代表的な ものに、筑前宗像の神があります。これは、到る処に分布されて居ますが、それのわけは、同じ信仰があれ ば、宗像神に習合し合理化させられるのであります。沖縄の弁个嶽・久米島・八重山にも、やっぱりこの 神々があります。宗像では、沖つ宮・なかつ宮・へつ宮と、三つに分れて居ります。この神の三体という事 は、動かぬでしょうが、この三つの宮は、神の飛び石、つまり、一種のけたなのです。我々は、えびすを海 の神と思っていますが、この神が来た時に、海岸で気がすめば、そのまま帰られる筈であるが、時あっては、 山国にも祭られて居るのです。叡山には、ちゃんとえびす神が祭られて居ます。又、山国の農村にも、えび すを祀って居る所が多いのです。我々はえびす神を海の神と思って居ますのに、叡山の様な山の奥にもある 事は、ちょっと解しかねる事なのです。これは、なもみの話と遠くなった様ですけれども、やはりなもみと 関係を付けて見なければ、結局訣らない事と思われるのです。而も此なもみなる語が、私の次に話して下さ る牧野先生の領分の植物の上にも、関係のあるのは、不思議な御縁だと考えます。 (折口信夫『春来る鬼』) [[Category:折口信夫]]
編集内容の要約:
Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細は
Docs:著作権
を参照)。
著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!
このページを編集するには、下記の確認用の質問に回答してください (
詳細
):
いちたすには?
キャンセル
編集の仕方
(新しいウィンドウで開きます)
案内メニュー
個人用ツール
ログインしていません
トーク
投稿記録
アカウント作成
ログイン
名前空間
ページ
議論
日本語
表示
閲覧
編集
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
談話室
ページ一覧
最近の更新
ヘルプ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報