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日本巫女史/第一篇/第八章/第一節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第一篇|第一篇 固有呪法時代]] [[日本巫女史/第一篇/第八章|第八章 物質文化に於ける巫女の職務]] ==第一節 戦争に於ける巫女== 平安朝における宮廷歌人の一頭目とも見るべき藤原為家の歌に『胡沙吹かば曇りもぞする陸奥の、蝦夷には見せじ秋の夜の月』というのがある。従来、此の短歌に就いては、胡沙は蝦夷人の用いる楽器(胡沙笛)であって、これを吹奏すると悲調は秋の夜の明月すら曇らせるという意味に解釈されて来たのである〔一〕。勿論、居ながらにして名所を知るほどの宮廷歌人、胡沙のことも、蝦夷のことも、全くの耳学問であって、異郷の風物の珍らしさに作歌したまでであるから、事実と遠ざかっているのは無理もないことではあるが、それにしても随分と思いきった間違いを詠じて得意がっていたものである。然らばその胡沙なるものの正体は何かというに、金田一京助氏の研究によると、蝦夷といわれたアイヌ族の間には、胡沙と名づける楽器もなく、従ってこれを吹奏すれば、明月も曇るというような伝説もない。然るに、アイヌ族の民俗として、男子が他部落の男子と戦争する際には、各部落の女子は後陣に出で立ち並び、一種の呪術として口々から吐息して敵陣に吹きかける。そしてアイヌ語では息のことをプサ(HUSA)と云っているが、恐らく為家は此のプサを聴き違い、支那に胡笳と称する角笛のあることを想い合せて、かかる作歌を試みたのであろうと考証されている〔二〕。而して更に、金田一氏は「諏訪大明神絵詞」を引用して、此のアイヌの女子が戦陣に臨むことに就いて、左の如く言われている。 : (上略)此中に公超霧をなす術を伝え、公遠隠形の道を得たる類しあり(金田一氏曰。これ中古以来の伝説にて、所謂胡沙吹くということの修辞的発想)戦場に臨(む)時は、丈夫は甲冑弓矢を帯して前陣に進(み)、婦人は後塵に随て木を削て幣帛のごとく(同氏曰。アイヌの所謂イナウこれなり)にして、天に向て誦呪の体(?)なり〔註〕云々。 :: 註。アイヌの戦陣の法、男子は弓矢を帯して前陣に進めば、女子は後塵に随て何か手に手草を取りて husa! Husa! 誦呪の体なること、アイヌの生活を通して、見るが如くに想像し得ることである。大軍のいくさではないが、蝦夷島奇観の画図の中にウラカという決闘の絵があるが、やはり女子がタクサを取りて背後に Husa! husa! をやってるいる所が画いてある。アイヌの敍事詩の中にもそういう状景が常に出て来る(以上。「アイヌの研究」に拠る)。 金田一氏は、此の所作をするアイヌの女子が、巫女であるか否かに就いては説明されていぬが、私の考えるところでは、其の古いところに溯れば、必ずや巫女(アイヌではツスという)がその任に当ったことと信じたい。従って諏訪大明神絵詞に現われた頃になれば、巫女の仕事でなくして、普通の女子の遣る事になっていたのであろうが、それにしても誦呪するときだけは、全く巫女の心持になって、一方には敵兵を詛い、一方には味方を励ましたものと見て差支ないようである。而して戦争に巫女が従ったことは、琉球においては、明確にこれを伝えている。伊波普猷氏は「おもろさうし選釈」二九、「きこへ大ぎみがさやはだけおれわちへがふし」の末節において、左の如く述べている。 : 尚真王の時、八重山征伐のあったことは、百浦添欄干之銘にも見えているが、「女官御双紙」に、この時久米島の<ruby><rb>君南風</rb><rp>(</rp><rt>キミハエ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰、同地ノロの名で、内地の巫女と同じ)が従軍して功を立てたことが書いてある。 :: 琉球より申の方に当りて御ちさやうの島あり、島名をば八重山島といふ。本は帝王(中山曰。琉球王)に従ひけるが、心かはりしつるに因りて、弘治十三庚申の年討手を御遣し給ふ。その時首里の御神託言はせ給ひけるは、久米島の君南風わたり給はば、彼島の神もなびきなん。神なびきなば、人はおのずから降参すべしとのたまふ。君南風承りて、彼島にわたり給へば、数多の人いくさの支度をして出むかふによりて、陸へよるべきやうもなかりけり。其時筏を浮べ、其上に炬を多くつむ(中略)。彼島の<ruby><rb>君真物</rb><rp>(</rp><rt>キムマモノ</rt><rp>)</rp></ruby>(原註。島の守護神)君南風へ迎ひなびき給ふによりて、人は自ら降参す云々。 : 当時の人はこの時戦争に勝ったのは、君南風の祈祷が与って力があると信じていた。 : 実際船艦中の大ころ<ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>タ</rt><rp>)</rp></ruby>、もりやえ子<ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>タ</rt><rp>)</rp></ruby>はこの女傑のオタカベ(原註。祝詞)に鼓舞されたのであろう云々。 猶お伊波氏は、同書一二「あおりやつがふし」の条において、『尚巴志(せだかまもん)は武力を以て鳴った名称であるけれども、当時は<ruby><rb>魔術</rb><rp>(</rp><rt>マジック</rt><rp>)</rp></ruby>が武力に劣らないものであると信ぜられていたから、当時の習慣に従い、<ruby><rb>物知人</rb><rp>(</rp><rt>モノシリビト</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。巫覡の意)を戦の魁として、悪霊を払わせながら、進軍したのであろう。琉球の俚諺に「<ruby><rb>女や戦の魁</rb><rp>(</rp><rt>ヰナゴーイクササチバイ</rt><rp>)</rp></ruby>」というのがある(中略)。祭政一致時代には、何処の国でも、女子は神によって一種不可思議な力を附与されて、予言する力や魔術を行う力を持っていると考えられていた』云々と述べられている。 かく我国の南北両端の民族は、戦争に巫女の従うことを伝えているが、さて中央なる内地にあっては、果してどうであったか。私の記述は愈々これから本問に入るのである。而して我国における戦争と巫女の関係は、相当に複雑を極めているので、理解を容易ならしむるために、数項に分けて記述することとした。 '''一 物部氏と巫女の関係''' 武士のことを「もののふ」と称したのは、これ等の者が物部氏に従属していたためで、「もののふ」は物部の転訛であることは明白である。「倭訓栞」に『もののふ、物ノ部と書けり、もののべともいふ(中略)。神武帝東征し給ひし時、饒速日ノ命をもて、内物部を率ゐて武威を示させたまひしより物部氏の任となれるを以て、後世に至つても武士を専ら物のふと云へるなり』とあるのは、極めて穏健な考証であって、然も物部氏と武士との関係を簡明に説示したものである。 然らば、問題は更に溯って、(一)何故に物部氏が斯く武士を統率したのであるか、それと同時に、(二)物部とは抑抑何事を意味しているのであるかに就いて、解説を試みねばならぬ。而して(一)の、物部氏が武士の棟梁と仰がるるに至りし事情に関しては、「旧事本紀」巻五天孫本紀の弟宇摩志麻治命の条に、大略左の如く記されている。 : 弟宇摩志麻治命。{(上略。)亦云/可美真手命} : (上略)磐余彦尊{○神/武帝}、欲馭天下、興師東征(中略)。中州豪雄長髓彦、本推饒速日尊児宇麻志麻治命為君奉焉(中略)。遂勒兵距之、天孫軍連戦不能戡也、于時宇麻志麻治命、不従舅{○長/髓彦}謀、誅殺佷戾、帥衆帰順之、時天孫詔宇麻志麻治命曰(中略)。朕嘉其忠節、特加褒寵、授以神剣、答其大勳(中略)。復宇摩志麻治命率天ノ物部、而剪夷荒逆、亦帥軍平定海内而奏也(中略)。天皇定功行賞、詔宇麻志麻治命曰汝之勳功矣、念惟大功也、公之忠節焉、思惟至忠矣(中略)。自今已後、生々世々子々孫々八十聯綿、必胤此職、永為亀鏡矣云々(以上。国史大系本)。 これに由って、物部氏の発祥と、同氏が武士を統率するに至った理由は、略ぼ会得されたことと思うが、更に(二)の物部と称する語原の解釈にあっては、一代の碩学といわれた本居宣長翁すら「古事記伝」巻十九において『母能々布と云は、名義は未だ考へ得ず』と兜をぬいだほどの難問題であったが、平田篤胤翁が其の著「玉手繦」において、『物とは神なり』という、彼としては誠に珍らしい卓見を唱え、更に鈴木重胤翁によって、此の説が大成されるに至ったのである。鈴木翁は「延喜式祝詞講義」巻七龍田風神祭の「百能物知人」の条において、概略左の如き記述をなしている。 : 百能物知人(中略)。師説{○篤/胤翁}に「物知り人とは、太兆の卜事を行ふ人と云称なる事明かなり。凡て物と云称は万に泛く亘る中に、神祇を指て云事常に多し、そは御門祭詞に、四方四角<small>与利</small>疏<small>備</small>荒<small>備</small>来<small>武</small>天<small>能</small>麻我都<small>比登</small>云神<small>乃</small>云々。自上往<small>波</small>上<small>乎</small>護<small>利</small>自下往<small>波</small>下<small>乎</small>護<small>利</small>と有る此同事を、祈年{御門/祭}詞に疏<small>夫留</small>物<small>能</small>自下往<small>者</small>下<small>乎</small>守、自上往<small>者</small>上<small>乎</small>守と(中略)、云へるを対思ふ可し。 : (原註)御門祭詞には神と云へるを、祈年祭及び道饗祭詞には物と云る者をや。又神代巻に葦原中国之邪鬼とある邪鬼を、私記には安之岐毛乃と訓み、中昔に物気など云ふ。又物忌、物狂、物の所為、憑物の為なるなど云ふ物も是にて、此は神と云に同じく泛く云る語なり。今云、大物主神と申す御名の物も(中略)、八十万神を領給ふ故に大物主神と申せるなり。又万葉集中に鬼字を母能の仮字に用ゐたる所数多あり。 : 知とは深く遠く思慮の智有て、神の所為の幽りて<ruby><rb>著明</rb><rp>(</rp><rt>シル</rt><rp>)</rp></ruby>からぬを知弁る由にて(中略)、俗に物知とは今現に見たる小事を弁たる程の人をも云へど、そは事知とこそ云ふべけれ<ruby><rb>豈</rb><rp>(</rp><rt>イカデ</rt><rp>)</rp></ruby>か物知とは云はむ」と云れたるは然る言なり。 : (原註)但、太兆の卜事を行ふ人を云と云はれたるは当らず、神祇の情状を古伝に徴し、古説に合せて悟り得る偉人を云ふなり。卜事は其思慮の至り及ばざるに当て物<ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ス</rt><rp>)</rp></ruby>るなれば却て未なり云々。(以上。皇学館本。但し句読点は私に加えたのである。) 我が古代における「物」とは、即ち神または霊ということであって、物ノ部とは是等の神または霊に通ずる<ruby><rb>母能々布</rb><rp>(</rp><rt>モノノフ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>部曲</rb><rp>(</rp><rt>カキベ</rt><rp>)</rp></ruby>を指し、物ノ部氏とは此の部曲の宗家、または<ruby><rb>氏</rb><rp>(</rp><rt>ウヂ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>上</rb><rp>(</rp><rt>カミ</rt><rp>)</rp></ruby>という意味になるのである〔三〕。而してこれを基調として古代の戦争を考えると、古語の戦い(たたかひ)は、敲き合いの転訛であるが、更に古語で言い争うことを「口たたく」というのがあるところから推すと、腕力を以て敲き合いする以前に、言語を以て口たたかいをするのが、戦いの式例となっていたことが想われる。これは恰も、後世の戦場において、先ず甲乙の両陣から、代表的の勇者が出て、一騎打ちの勝負をしてから、合戦が開かれたのと同じように、<ruby><rb>言霊</rb><rp>(</rp><rt>コトダマ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の殊寵を蒙り、特に利口弁舌に長じた者(即ち物知り人)が現われて、互いに「言葉たたかい」をした後に、愈々両方の敲き合いに入る順序と見られるのである。而して此の「言葉たたかい」の任務に当るものが即ち巫女であって、然もその言語は必ずや呪術的の要素を多分に有していたものに相違ない。前に引用した琉球の俚諺に「女は戦の魁」とある如く、我国にあっても、巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つことを伝えているのである。 而してそれと是れとは、大に趣きを異にしているが、思い出すままに記すことは、私の郷国である下野国河内郡地方の村落では、明治初年まで、婚姻の夜に、新婦の附添いとして、弁舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立って、新郎の家に赴く。新郎の方でも、同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎えさせるが、その時に先ず聟方の男から「大勢して一体<ruby><rb>何処</rb><rp>(</rp><rt>ドコ</rt><rp>)</rp></ruby>から<ruby><rb>遣</rb><rp>(</rp><rt>ヤ</rt><rp>)</rp></ruby>って来た」と問いかけると、嫁の附添い女は直ちに「若い者に花を遣ろうと思って来た」と答えるのを序開きとして、ここに猛烈なる言葉たたかいの場面が展開され、聟方の男はあるかぎりの奇智を絞って、無理難題の問いを発し、これに対して、嫁方の女も精根を尽して巧妙に言いぬける。若し此の「言葉たたかい」に、嫁方の女が負けるようなことがあれば、新婦の一行は実家へ引き帰さなければならぬ村掟となっているので、附添い女の責任の大と、舌力の強さとが思われる。こうした一幕が無事に済むと、今度は婚礼の式に入るのである。 此の民俗は、種々なる示唆に富んでいるが、それを言うと本書の埓外に出るので省略するも、兎に角に此の附添い女の役目こそ、在りし古代の戦争における巫女の任務を偲ばせるものがあると信じたので、敢て附記した次第である。 '''二 戦争の前途を占う巫女''' 兵は凶器である。これを用うるに、日時を選み、方角を選み、敵を知ると共に、味方を知ることは、古代から行われた戦法であったに相違ない。殊に、神を信ずることが篤く、霊を崇めることの深かった時代にあっては、戦争の前途を占うて、これが万全の策を講ずることは、将帥たる者の特に注意せねばならぬ点であった。前に引用した神武帝が、日神の子孫でありながら、日に向って戦いをするのは<ruby><rb>良</rb><rp>(</rp><rt>フサ</rt><rp>)</rp></ruby>わずとされたことや、更に椎根津彦と弟猾とに命じて天香山の土を採らせて戦勝を占うなど、こうした呪術的の信仰は、必ずや戦争の度毎に行われたことと想われる。殊に神功皇后の征韓戦は、国家の運命を賭するほどの大事業であっただけに、此の種の神事を幾回となく繰り返して、一方、神霊の加護の愈々厚からんことを祈り、他方、従軍の士気を旺盛に導かれたのである。「神功紀」に載せた左の二条の如きは、その徴証として最も妥当のものと考える。 : 夏四月(中略)。北到火前国松浦県、而進食於玉島里小河之側、於是皇后勾針。取飯為餌、抽取裳糸為緡登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲求財国、若有成事者、河魚飲鉤、因以挙竿、乃獲細鱗魚云々。 : 皇后還詣橿日浦、解髪臨海曰、吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征、是以今頭沐海水、若有験者、髪自分為両、即入海洗之、髪自分也、皇后便結分髪而為髻云々。(以上。国史大系本)。 前者は即ち<ruby><rb>祈狩</rb><rp>(</rp><rt>ウケヒガリ</rt><rp>)</rp></ruby>の一種であって、後者は即ち毛髪によって、神占を試みたものである。而して共に、戦争の前途を神判した信仰を伝えているのである。此の場合における神后の所作は、前にも述べたように、全く最高位の巫女としての務めであった。されば陣中には、此の種の神事に従うべき巫女を置いて、事毎に或は神祇を祭らせ、或は神意を占わせて常に戦いを有利に展開させることに注意を払ったものと考えられるのである。後世の事ではあるが、源義家が天喜年中に、岩代国耶麻郡慶徳村大字新宮に熊野神社を勧請し、社前において相撲を試み、戦争の勝敗を占ったとか〔四〕、紀州田辺野の闘鶏神社の別当湛海が、源平両氏より味方に加われと勧誘され、赤鶏を平氏となし、白鶏を源氏として、社前に闘わせ、神意を占うて源氏に味方したとか〔五〕、又は「太平記」巻三十三八幡御託宣事の条に、 : 此勢を散さで、今一合戦可有かと、諸大将の異見区々なりけるを、直冬朝臣許否凡慮の及ぶ処に非ず、八幡の御宝前にして、御神楽を奏し、託宣の言に付て、軍の吉凶を知るべしとて、様々の奉幣を奉り、渉蘩を勤て、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の声、<u>きね</u>が袖ふる鈴の音、深け行く月に神さびて、聞人信心を傾けたり。託宣の神子啓白の句言は、巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、「たらちねの親を守りの神なれば、此の手向をば受る物かは」と一首の神歌を、くり返しくり返し二三反詠じて、其後御神はあがらせ給ひけり云々。 とあるのや、織田信長が桶狭間の戦いのとき、熱田神宮に詣でて、御手洗川に銭を投じて、合戦我に勝利ならば銭面を現わせと占うたことなども〔六〕、咸は此の信仰に基くものであって、古くは陣中における巫女が専ら此の任に当ったものである。猶お戦争と神託及び戦争と神官並びに巫女との関係等に就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に記述して、以て此の項の足らぬところを補う考えである。 '''三 敵兵を呪詛する巫女''' 「魏志」の倭人伝の一節に、 : 倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡{○帯/方郡}説相攻撃状云々。 とある。之に由ると、 倭国の女王は狗奴国の男王と戦いを交えていた様であるが、さて此の女王の率いた軍隊は男軍であったろうか、それとも女軍であったろうか。勿論、女王の麾下に属すからとて、その悉くを女軍と見るべき理由は少しも無いが、当時、我国に女軍の在った事を参考すると、必ずしも男軍ばかりだとも想われぬのである。「神武紀」に、 : 天皇渉彼菟田高倉山之巔、瞻望域中、時国見岳上則有八十梟帥{○原/注略}、又於女坂置女軍、男坂置男軍。 とあるように、女子を以て編成した女軍の在ったことが明確に記されている〔七〕。更に「肥前国風土記」杵島郡嬢子山の条に、 : 同天皇{○景/行帝}行幸之時、土蜘蛛八十女、又有此山頂、常捍皇命不肯降服、於茲遣兵掩滅、因曰<ruby><rb>嬢子山</rb><rp>(</rp><rt>ハハコヤマ</rt><rp>)</rp></ruby>。 とあるのや、「万葉集」巻十九に、 : 物部の八十少女等が酌みまがふ、寺井上の堅香子の花 とあるのから推すと、愈々女軍の在った事が裏附けられるのである。 然らば、是等の女軍は、男軍と対立して、打物とって敲き合いをなし、弓矢をとって射合せ(我国のいくさの語原はこれである)たかというに、これは必ずしもそう考うべきものではなくして、女軍の本来の目的は、他に在ったものと見るべきである。即ち戦勝を神に祈り、神意を問うて軍の行動に便じ、更に敵兵を詛う呪術を行うことが任務であったのである。前に引用した「崇神紀」の吾田媛が、天ノ香山の土を取って<ruby><rb>祈</rb><rp>(</rp><rt>ウケ</rt><rp>)</rp></ruby>ひしたのは、これを呪術に用いて以て皇師を調伏せんが為めであった。又これも前に引用した「播磨風土記」逸文に、神功皇后が征韓に際し、赤土を以て天の逆桙、兵船の舳艫及び兵卒の著衣まで塗ったのも、更に「仲哀記」に、神后が住吉三神の教えにより、三神の御魂を乗船に斎き『真木灰を<ruby><rb>瓠</rb><rp>(</rp><rt>ヒサゴ</rt><rp>)</rp></ruby>に納れ、亦、箸と平手(中山曰。神供を盛る物)とを<ruby><rb>多</rb><rp>(</rp><rt>サハ</rt><rp>)</rp></ruby>に作りて皆々大海に<ruby><rb>散浮</rb><rp>(</rp><rt>チラシウ</rt><rp>)</rp></ruby>けて』渡海したのも、神意をかりて敵兵を調伏する呪術に外ならぬのである。而して是等の呪術は、軍中に在りし巫女がその任に服したのである。記録にこそ伝わっていぬが、我国の古代には、アイヌの女子が後陣にあって、プサを吐きし如く、又は琉球のノロが陣中において敵兵を詛うた如き事実が、恐らく戦いの度毎に行われたものと考えても、決して大なる誤りではなさそうである。 後世の事ではあるが、「三代実録」巻一三貞観八年十一月十七日条に、 : 敕曰(中略)新羅賊兵常窺間隙、災変之発唯縁斯事、夫攘災未兆遏賊将来、唯是神明之冥助、豈云人力之所為、宜令能登因幡伯耆出雲石見隠岐長門大宰等国府、班幣於邑境諸神、以祈鎮護之殊効云々。 とあるのは、巫女の敵兵調伏の咒術が関西九州の十余国に亘る大褂りになったものであって、更に弘安年中の蒙古襲来の国難には「異賊襲来祈祷注録」と題する文献まで纂輯する程の、全国的大規模に此の呪術が行われ〔八〕、遂に此事が弓矢執る武将の間の信仰となり、合戦毎に崇敬する神社の巫祝をして之を行わせる様になったのである。武田信玄が川中島の戦いに際し、信州戸隠神社の巫女をして、此の祈祷をさせた事は今に著聞せる事実である。 '''四 士気を鼓舞する巫女''' 広義に言えば、戦争の前途を占うて勝利に導くことも、神霊に恩頼して敵兵を呪詛することも、共に軍隊の士気を鼓舞旺盛ならしめる手段ではあるが、更に是等よりは一層直接に士気を感奮させる方法が、巫女によって行われたのである。即ち日本武尊が東征に際し、姑の倭姫命から神剣と火鑚とを与えられたのも、倭姫が最高の巫女であっただけに、全軍の士気はこれが為めに振興したに違いなく、神功皇后が<ruby><rb>祈</rb><rp>(</rp><rt>ウケ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ釣りをなし、毛髪にて神意を問うたことなども士気を緊張させるに、偉大なる力があったと考えられるのである。殊に神后が出征に当り、群臣に賜える勅語は、儼として神語を聴くが如き思いがある。曰く、 : 夫興師動衆、国之大事、安危成敗、必在於斯。今有所征伐、以事付群臣、若事不成者、罪在於群臣、是甚傷焉、吾婦女之、加以不肖、然蹔仮男貌、強起雄略、上蒙神祇之霊、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者、群臣共有功、事不就者、吾独有罪、既有此意、其共議之云々。 千載の後にあっても、此の勅語を拝して、誰か奮起せざる者かある。当時、士気の揚がれる察すべきである。 更に、少しく後世の出来事ではあるが、戦争中に神霊が巫祝に憑って士気を励した例証も存している。「天武紀」壬申乱の条に、 : 先是軍金綱井之時、高市郡大領高市県主<ruby><rb>許梅</rb><rp>(</rp><rt>コメ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>儵忽</rb><rp>(</rp><rt>ニワカニ</rt><rp>)</rp></ruby>口閉、而不能言也。三日之後、方<ruby><rb>著神</rb><rp>(</rp><rt>カミカカリ</rt><rp>)</rp></ruby>以言、吾者高市社所居、名事代主神、又牟狭社所居、名生霊神者也、乃顕之曰、於神日本磐余彦天皇之陵、奉馬及種々兵器、便亦言、吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉、今且立官軍中、而守護之、且言、自西道、軍衆将至之、宜慎也、言訖則醒矣。故是以便遣許梅、而祭拝御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣、而礼祭高市身狭二社之神。然後壱伎史韓国、自大坂来、故時人曰、二社神所教之辞、適是也。又村屋神着祝曰、今自吾社中道、軍衆将至、故宜塞社中道、故未経幾日、盧中造鯨軍、自中道至、時人曰、即神所教之辞是也(国史大系本)。 此の二つの事件は明白に神教によって全軍の動作を敏ならしめ、且つその士気を振興させたに違いないのである。而して更に後世の事ではあるが、弘安の蒙古襲来の国難に関する「高野山文書」の一節に、 : 閏七月{○弘安/四年}晦日夜、摂州広田社巫女詣当社{○丹/生社}而託宣曰、於今度者住吉毛八幡毛属我力至討罰、若託巫覡示此事者、世以可成疑、故以汝令告示云々。又非真言教力、難施降伏霊験之由、蒙八幡之御告、於当山有一万座不動供勧進之侶、以之思之、丹生明神之神変勝于諸神、非唯寄一社巫女之口、金剛乗教之教力、超于余教、誰敢疑八幡正直之告云々。 とあるのは〔九〕、高野山の僧侶によって書かれただけに、その鎮守なる丹生神社の霊験と、真言宗の功徳とが誇張されているが、それでも此の国難に際して、巫女の託宣が武士の勇気を増進させたことだけは、容易に看取されるのである。 '''五 御陣女﨟としての巫女''' [[画像:橘媛.gif|frame|御陣女﨟としての橘媛、倭尊と別れ入水す]] 我国では、古く総帥、亦は大将は、婦人を陣中に同伴することが習いとなっていた〔一〇〕。畏きことではあるが日本武尊が東征に<ruby><rb>妾</rb><rp>(</rp><rt>オムナメ</rt><rp>)</rp></ruby>橘媛を伴い、仲哀帝が西征に神后を従えさせられたのは、その例証であって、臣下としては、『仁徳紀』にある上毛野公竹葉瀨の弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戦死したことや、「欽明紀」に河辺臣<ruby><rb>瓊岳</rb><rp>(</rp><rt>タマヘ</rt><rp>)</rp></ruby>が隨婦と、同じく調士<ruby><rb>伊企儺</rb><rp>(</rp><rt>イキナ</rt><rp>)</rp></ruby>が其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜となったことを載せ、また此の外にもこれが類例は相当に多く存している。 それでは斯く陣中に婦人を伴うた最初の目的は、何であったかと云えば、其れは他事でも無く、專ら神霊の加護を仰ぐべき巫女としての勤めに従う為であった。反言すれば、古く我国で戦争に女性を隨行させたのは、其始めは巫女に限られていたのであるが、一般の女性──殊に妻女が神に仕えるようになってからは、巫女の代理者として妻女を伴うに至ったのである。併しながら、総帥とか、棟梁とかいわれる身分ある者の妻女は、育児その他の家庭上の関係から、必ずしも良人と軍旅を共にすることも出来ぬ事情もあったのと、更に一方においては、神に仕えるだけの巫女の職務も、時勢の下るにつれて拡大されて来て、遂に御陣女﨟として従軍するように変化したのである。 山城国伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神功皇后)に附属していた桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女﨟の事実を克明に保存しているのである。桂女の名の由来に就いては、彼女の一団が京都桂川の辺りなる桂ノ里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落)に住んでいたので、地名を負うて斯く称したという説と、これに反して、彼女達は好んで桂(蔓)巻と称する独特の髪飾りをしたので、かく名を得たものとの両説あるが、私としては後説に従うのが穏当だと信じている。而して彼女達の所伝によると、桂女の祖先は岩田姫と称し〔一一〕、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓のために渡海せられた折に従軍し、日夜とも左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂ノ里に土着したが、その証として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に伝えている。かかる緣故があるので、神后を祭った御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られるようになってからは、御香宮と御母子の関係があるというので、石清水にも出仕するようになり、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と称して桂飴を献上する例となっていた〔一二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相続を原則とし、これを明治初年まで厳重に守って来たのである。 [[画像:桂姫.gif|frame|古俗を伝えた桂姫 ]] かく桂女が神后の征旅に従ったということは、とりも直さず、それが御陣女﨟であったことを物語るもので、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねたもの、その詳細は第三章に記述する)として、後には神后助産のことのみ言い立てて、産婆とも、子おろしとも、更に婚礼の介添人ともつかぬ、一種変態な呪術を主とした職業婦人となってしまったのであるが、それでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代々の武将の許に出入し、且つ戦争の有る毎に、陣中に推参して、雜役に服したものである。豊前小倉の旧藩主小笠原家は、武家作法の家元であっただけに、藩中に桂と称する一家を抱えて、代々女子を以て相続させたという〔一三〕。これは御陣女﨟としての桂女の効用が忘却されて、全く小笠原流の作法による必要の扶持人であったろうが、更に大隅国囎唹郡上之段村の桂姫城の由来にあっては、必ずしも作法のためとのみ限られぬようである。即ち桂女が神后に従い、功績があって、名を<ruby><rb>勝浦</rb><rp>(</rp><rt>カツラ</rt><rp>)</rp></ruby>姫と賜った。これより武家では、勝浦姫を愛慕し、島津家では勝浦姫の妹一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持されたことがある。桂姫城は此の旧跡であろうと伝えられている〔一四〕。これによると、桂が勝浦と国音の相通ずる所から、勝を悦ぶ武家が愛するようになったと解釈されているが、如何に勝つことを好み、扶持米に豊かであった島津家にしろ、単にこれだけの所緣で、桂女を召し抱えて置くべき理由がないので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の変るにつれて、往昔の任務が忘られ、かかる伝説となって残ったものと見るのが穏当である。 後世の事ではあるが、木曾義仲が陣中に伴うた山吹・巴の両女の如き、徳川家康が戦塵の間に従えたお万の方(徳川義直の生母で、男山八幡宮の祠官竹腰某の女)の如き、共に古い御陣女﨟の面影を残した者であって、遊女が陣営に出入し、然も敵の首の歯を染め、髪を洗う役目を勤めたのも、又之と同じ信仰と理由から来ているのである。 ; 〔註一〕 : 此和歌は「夫木集」に載せてあるが、「和歌藻汐草」には、角笛のような物を吹けば、霧に似たものが出ると解釈し、「松屋筆記」や「笈埃隨筆」などにも、此の意味のことが記してある。 ; 〔註二〕 : 金田一京助氏著の「アイヌの研究」及び、同氏より聴き得た談話を綜合して載せたのである。 ; 〔註三〕 : 物部氏が霊に通ずる部曲の棟梁であって、然も古代の戦争が、腕力の闘いでなくして、呪術の戦いであることに就いては、学友内藤藤吉之助氏が「宗教研究」誌上に揭載されたことがある。敢て篤学の士の参照を望む次第である。 ; 〔註四〕 : 「新編会津風土記」巻六七。 ; 〔註五〕 : 「源平盛衰記」にある有名な話である。 ; 〔註六〕 : これも「信長記」に載せてある有名な話である。 ; 〔註七〕 : 此の条の「日本書紀」の書き方は、頗る曖昧であつて、一寸見ると、女軍は皇師に属せずして、敵軍に在ったように考えられるのであるが、同じ「神武紀」の一節に「椎根津彦計之曰、今者宜先遣我女軍云々。天皇善其策、乃出女軍以臨之」とあるのから推すと、女軍が天皇に隸属していたことが明白に知られるのである。 ; 〔註八〕 : 弘安の蒙古襲来は、全く国難であって、上は畏くも天皇を始めとし、下は国内の社寺共に、神仏を祈念したもので、塙保己一の編纂した「蛍蝿抄」五巻は、殆んど全巻この種の記事である。仏教の渡来と、陰陽道の普及と、修験道の発達とは、漸く巫女に代つて、此の種のことを勤めるようになったのであるが、それでも猶お幾分でも、古い名残りをとどめているのである。 ; 〔註九〕 : 前記の「蛍蝿抄」巻五(史籍集覽本)に拠った。 ; 〔註一〇〕 : 現存の養老令の「軍防令」によると、婦女を陣中に伴うことは厳禁されているが、併し実際において、それがどれだけ実行されていたかは疑わしい。且つ養老令などの規定されぬ以前にあっては、大将連は公然と婦人を伴うていた。 ; 〔註一一〕 : 妊婦の腹帯を岩田帯と称するのは、これに始まるという俗説があるも、元より信用することの出来ぬ附会である。 ; 〔註一二〕〔註一三〕: 同上。 柳田国男先生が雜誌「女性」第七巻第五号に載せた「桂女由来記」に拠る。 ; 〔註一四〕 : 島津家で編纂発行した「三国名勝図絵」巻三五。 [[Category:中山太郎]]
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