「
春来る鬼
」を編集中 (節単位)
ナビゲーションに移動
検索に移動
警告:
ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。
ログイン
または
アカウントを作成
すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。
スパム攻撃防止用のチェックです。 けっして、ここには、値の入力は
しない
でください!
==神のおとずれ== 処で、古い時代に、村々の大衆を神が訪れます事は、村を訪れる事と同一の意味を持ったのですが、神の来た合図は、と申しますと、先ず、咳ばらいに似たこわづくろいをし、戸をほとほと叩いたらしいのです。節分の晩に、ほとほとと戸をたたいて祝福に来るのを、鳥取地方では、ほとほとと言って居ますが、此処に神が居る、という報せなのであって、戸をたたかずに、声をかける事もあります。併し、いずれも、文章ではなく、短い詞なのです。日本の古い語では、「こわづくろう」というのが、神のかけ声になって居りますが、この詞は宮廷では、おしおしというて居られましたのが、近世民話では、いろいろ分れて、違った名称で残って居りました。それが、同時に、神の名になったのです。宮中で、天皇陛下の御先祖が、天から下りて来られた時には、天圧神と申します。 その音が、「こわづくろう」でありまして、後世にはかけ声となり、そしておとずる、おとなうという風になって参りました。「訪ずるる」という連体形が最、行われますが、おとなう・おとずるとは、音を立てることで、此は訪問を意味します。つまり、神来臨の合図なのです。 日本の、天子の祭りの場合は、来られる神も天子ですから、どういう風になって居りましたか訣りませんが、訪う時には、門迄の時もあり、家迄這入る時もあり、又は庭だけの場合もあって、一様でなく、正式と略式とがあったのです。 処が、其場合何しに来るのかと申しますと、家・土地の精霊と約束を切りかえに来るのが、一番重い意味らしかったのです。それが、家・土地の精霊と約束を切り換えに来ると同時に、約束をします。その約束は、昔から定っている家を守り、主人を栄えさせ、土地を繁昌させる事にきまって居ます。日本では、田の実りに対して、特別の信仰を持って居ますので、土地の祝福ことほぎという方へ、どうしても傾いて来るのです。ことほぎとは、普通ほかいといいますが、特殊の用語例を持って居まして、演劇や舞踊に伴って居るらしいのです。此は、神と精霊と対立している形を、常にもっているのです。 小正月・節分・大晦日の晩に出て来る者が、鬼の形をして居ますが、これは、まれ人と精霊との形を混乱させて、特殊の形を取って居た、と私も以前は思って居ましたが、一体、まれ人自身が神を意味しないで、他所から渡って来る、一種の変ったものであって、此土地に同情を持って居ればよろしいので、家や土地を祝福する事は、第二段に起ってくる事であります。それと同時に、一方には、意味が分化して、「裁き」や「懲罰」をしたり致します。それが、だんだん変って参りまして、悪口を言ったりこらしめたりする様な行事が起り、それが転じて、主人の悪態をつく風習を生じて、拡まったのです。これは、つまり、ことほぎが将来を祝福する事でありますから、今年はしっかりやって貰わねば困る、という意味で、悪態をついたり、こらしめたりする様になったのであります。 我々の国では、存外にこやかな表情を持ったまれ人を考える事が少かったので、いつもまれ人が怒った話が多いのです。所がまれ人の善い方面——祝福——は、段々発達して、福の神の信仰が発生して参りました。 福の神などというものも、其代表者としてのえびす神を考えて見ましても、語自身まれ人という事にすぎないのです。恐しい外来のまれ人のことで、あらえびすといわれて居る事もあります。あらえびすと申しますのは、西宮地方では、沖の御前という所があって、そこに一休みなさるえびすさんだ、と考えられて居ました。狂言の石神を見ましても、亭主と喧嘩した女が、石神に参って舞う小唄に、 : 遥かの沖にも、石はあるもの。えびすの御前のこしかけの石 と唄います。西の宮が蛭子であるかないかは別として、女神にもそうしたのがある、淡島がそれです。女のまれ人であって、極端に巫女の勢力のあった時代には、女のまれ人も来たことが考えられます。其代表的なものに、筑前宗像の神があります。これは、到る処に分布されて居ますが、それのわけは、同じ信仰があれば、宗像神に習合し合理化させられるのであります。沖縄の弁个嶽・久米島・八重山にも、やっぱりこの神々があります。宗像では、沖つ宮・なかつ宮・へつ宮と、三つに分れて居ります。この神の三体という事は、動かぬでしょうが、この三つの宮は、神の飛び石、つまり、一種のけたなのです。我々は、えびすを海の神と思っていますが、この神が来た時に、海岸で気がすめば、そのまま帰られる筈であるが、時あっては、山国にも祭られて居るのです。叡山には、ちゃんとえびす神が祭られて居ます。又、山国の農村にも、えびすを祀って居る所が多いのです。我々はえびす神を海の神と思って居ますのに、叡山の様な山の奥にもある事は、ちょっと解しかねる事なのです。これは、なもみの話と遠くなった様ですけれども、やはりなもみと関係を付けて見なければ、結局訣らない事と思われるのです。而も此なもみなる語が、私の次に話して下さる牧野先生の領分の植物の上にも、関係のあるのは、不思議な御縁だと考えます。 (折口信夫『春来る鬼』) [[Category:折口信夫]]
編集内容の要約:
Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細は
Docs:著作権
を参照)。
著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!
このページを編集するには、下記の確認用の質問に回答してください (
詳細
):
いちたすには?
キャンセル
編集の仕方
(新しいウィンドウで開きます)
案内メニュー
個人用ツール
ログインしていません
トーク
投稿記録
アカウント作成
ログイン
名前空間
ページ
議論
日本語
表示
閲覧
編集
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
談話室
ページ一覧
最近の更新
ヘルプ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報