「日本巫女史/第一篇/第四章/第一節」の版間の差分

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とあるのは、米を呪術に用いた初見の記事であって、古代人の米に対する信仰が窺われるのである。
とあるのは、米を呪術に用いた初見の記事であって、古代人の米に対する信仰が窺われるのである。


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'''二 水'''
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'''三 塩'''
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我国では塩の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出発していることは言うまでもないが、これが呪術の材料として用いられたのは、「應神記」に、伊豆志乙女を争いし兄弟の母が、その兄の不信を憤りて『伊豆志河の河嶋の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合へて、その竹の葉に裹み,<ruby><rb>詛言</rb><rp>(</rp><rt>トゴヒ</rt><rp>)</rp></ruby>はしめけらく(中略)。此の塩の盈ち乾るがごと盈ち乾よ』とあるのが(此の全文は既載した)古いようである。「丹後風土記」逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に『思老夫婦之意、我心無異荒塩者』と言うたのは、塩の呪術に<ruby><rb>詛</rb><rp>(</rp><rt>トゴヒ</rt><rp>)</rp></ruby>されて患うるに同じとの意味であろう。禍津神を駆除すべき祓戸四柱のうちなる速開津姫が、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会に<ruby><rb>座</rb><rp>(</rp><rt>ヰワ</rt><rp>)</rp></ruby>したことは、よく塩の呪力を語るものである。而して「貞観儀式」平野祭の条に『皇太子於神院東門外下馬、神祇官中臣、迎供神麻、灌塩水訖(中略)。至神院東門、曳神麻灌塩水』云々とあるのや、「古語拾遺」に御歳神の怒りを和めんとて、「以<ruby><rb>彗子</rb><rp>(</rp><rt>ツス</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>蜀椒</rb><rp>(</rp><rt>ハジカミ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>呉桃</rb><rp>(</rp><rt>クルミ</rt><rp>)</rp></ruby>葉及塩班置其畔」とあるのも、共に塩の呪術的方面を記したものである。
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'''四 川菜'''
'''四 川菜'''

2008年9月4日 (木) 16:51時点における版

日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第四章 巫女の呪術に用いし材料

第一節 呪術の材料としての飲食物

諾尊が黄泉ノ国に冊尊を訪れて帰るさに、黄泉醜女に追われた際、桃、筍、葡萄エビカツラの三つを以て撃退したことは既記を経たので再説せぬが、ただ茲に考えて見なければならぬ問題は、此の三つは物それ自体が一種の呪力を有していたということであって、呪術に用いられたので呪力が発生したのとは違う点である。全体、呪術に用いられた材料は、概して言えば、咸な此の種の物に属するのであるが、稀には呪術に用いられたために呪力が発生する物もあるので附記するとした。而して古代の呪術に用いられた飲食物は大略左の如きものである。

一 米

豊葦原の瑞穂国と云われた我国にも、古くは一粒の米も無かった。天照神が熊大人をして稲種を覓められたという神話は〔一〕、米が外来の物であることをよく説明している。然るに米を獲て蒼生の生きて食うべきものとなるや、その稲は忽ち神格化されて、屋船豊受姫命(俗に宇賀能美多麻と云う)となり〔二〕、精霊を払う呪力あるものとして信仰されるようになった。「日向国風土記」逸文に、

臼杵郡智舖郷、天津彦火瓊々杵尊離天磐座、排天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向之高千穂二上峰、時天暗冥昼夜不別、人物失道物色難別。於茲有土蜘蛛、名曰大鉗小鉗二人、奏言皇孫尊以尊御手抜稲千穂為籾、投散四方、必得開晴、于時如大鉗等所奏、搓千穂稲為籾投散、即天開晴。

とあるのは、米を呪術に用いた初見の記事であって、古代人の米に対する信仰が窺われるのである。

「持統紀」二年冬十一月の条、天武帝の殯宮に『奉クマ、奏楯節舞』と記したクマは、古く米を「くましね」と云ったのから推すと、米を霊前に奉ることは、これに呪力を信じたからである。尚「和名類聚抄」祭祀具部に『離騒経注云{米偏咠}、{和名,久/万之禰}精米所以享神也』とあるのも同じ意である。「大殿祭」の祝詞の細註に『今世産屋,以辟木束稲,置於戸辺乃以来米、散屋中之類也』と載せたも又それである。「古語拾遺」肱巫の細註に『今世竃輪及米占也』も米を用いた呪術に外ならぬ。而して此の信仰は後世の散米(打まき、花しね、みくま、手向米などとも云う)となり、種々なる伝説や俗信を生むようになったのである〔三〕。猶ほ後世になると、大豆や小豆を呪力あるものとして用いているが〔四〕、古代においては寡見に入らぬので何とも言うことが出来ぬ。

二 水

人類の生活に火の無い時代はあったかも知れぬが、水の無かった時代は想像することも出来ぬ。我国においても火ノ神の信仰よりは、水ノ神の信仰の方が古くから存していたようである。従って水に呪力を認め、これを呪術に用いた例は、少しく誇張して言えば、枚挙に遑がないほど多く存している。誰でも知っている諾尊が日向の檍原で御禊せられたのは、海水の呪力を信じて、黄泉の穢れを払うたものである。「をち水」を飲めば、心身ともに更新すると考えた思想も神代から存し、然もそれは現代にまで若水として名残りをとどめている。「万葉集」巻十三に『天橋も長くもかも、高山も高くもかも、月読のたるをち水、いとり来て、君にまつりて、越えむ年はも』とあるのや、同集巻七に『生命を幸くあらむと石走る、垂水の水を掬びて飲みつ 』とあるのは、共に此の信仰によるものである。而して此の信仰は水を神とし、更に水の湧く井を神と崇めるまでに発展し、生井、栄井、綱長井と神格化するように進んだのである〔五〕。我国に観水系ウォーター呪術ゲージング次章参照。)が発明されたのも、決して偶然ではなかったのである。猶お、後世における水の呪術に就いては、各時代下に記す機会が有るので、今は省略する。

三 塩

我国では塩の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出発していることは言うまでもないが、これが呪術の材料として用いられたのは、「応神記」に、伊豆志乙女を争いし兄弟の母が、その兄の不信を憤りて『伊豆志河の河嶋の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合へて、その竹の葉に裹み,詛言トゴヒはしめけらく(中略)。此の塩の盈ち乾るがごと盈ち乾よ』とあるのが(此の全文は既載した)古いようである。「丹後風土記」逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に『思老夫婦之意、我心無異荒塩者』と言うたのは、塩の呪術にトゴヒされて患うるに同じとの意味であろう。禍津神を駆除すべき祓戸四柱のうちなる速開津姫が、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会にヰワしたことは、よく塩の呪力を語るものである。而して「貞観儀式」平野祭の条に『皇太子於神院東門外下馬、神祇官中臣、迎供神麻、灌塩水訖(中略)。至神院東門、曳神麻灌塩水』云々とあるのや、「古語拾遺」に御歳神の怒りを和めんとて、「以彗子ツス蜀椒ハジカミ呉桃クルミ葉及塩班置其畔」とあるのも、共に塩の呪術的方面を記したものである。

四 川菜

「鎮火祭」の祝詞に、火ノ神が荒び疏びた折には『水神、ヒサゴ、埴山姫(中山曰。土の精霊)、川菜」の四種を以て鎮めよと載せてある。川菜が呪術の材料として用いられたことは、私の寡聞なる此の外には知るところもないが、古くこれが巫女に用いられた事は、此の一事からも推測されるのである。

猶ほ、此の外に、酒や、飴や、蒜や、蓬などを呪術の材料として用いた例証もあるが、是等は私が改めて説くまでも無いと考えたので省略した。

〔註一〕
稲の原産地は南支那というが、此の稲が我国に輸入された稲筋に就いては、南方説と北方説との両説が有る。私は我国の稲は朝鮮を経て舶載されたものと考えるもので、その事は「土俗 伝説」第一巻三号に「穂落神」と題して管見を発表したことがある。
〔註二〕
「大殿祭」の祝詞の細註にある。保食神は原始神道の上からも、更に民俗学の上からも、研究すべき幾多の材料が残されているのであるが、所詮は稲の精霊であると云うに帰着するのである。
〔註三〕
「日向国風土記」の逸文から導かれて、高千穂峰に原生の稲が有あったという伝説は、「三国名勝図絵」や「薩隅日地理纂考」などを始めとして、各書に記載されてもいるし、又た諸先覚の間にも此の事が論議されているが、私には賛意を表することが出来ぬ。稲の野生が我国に無く外来の物であることは疑うべき余地はない。
〔註四〕
追儺に大豆を撒き、祝ひ事に小豆飯を炊くなどを重なる物として、此の二つは呪術的には相当広く用いられているが、古代にあっては、その事実が寡見に入らぬ。琉球の伝説を集成した「遺老説伝」によると、大豆と小豆とは、後に外来した物だと載せてあるが、内地にあっても何か斯うした事実があったのではなかろうか。
〔註五〕
井の信仰に就いては私見の一端を「郷土研究」第三巻第六号所載の「井神考」で述べたことがある。敢て参照を望む。