「日本巫女史/第一篇/第八章/第二節」の版間の差分
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我国に狩猟時代が有ったか、無かったかに就いては、文献の上からは、明確に知ることが出来ない。否、文献にのみ拠れば、我国は開闢の当時から、既に農耕時代に入っているように記されていて、狩猟時代の有ったことなどは、遂に発見することが出来ぬのである。併しながら、文献に見えぬからとて、我国に狩猟時代が無かったというのは速断である。各地から発掘された銅鐸の紋様中には、曾て此の時代の存したことを想わせるものが尠からず残されている〔一〕。更に我が国民の常食となっている五穀の中にも、粟と稗だけは原産していたが、他の米や麦や豆は、悉く外来のものであって、殊に豆類は、一段と新しく輸入されたようである〔二〕。勿論、米や麦がなくとも、粟と稗があれば、生命を維ぐに差支はなかったであろうが、各地に貝塚が存し、その中から獣骨の出る所から考えると、我国の古代民族は狩猟によって獲たる獣肉——又は漁撈によって獲たる魚肉を、主食とした一時代を経過したものと想われるのである〔三〕。若しそうでないとしても、副食物を得るために、狩猟や漁撈を営んだことは明白であるから、私がここに言おうとする狩猟と巫女との関係は肯定されるのである。 | 我国に狩猟時代が有ったか、無かったかに就いては、文献の上からは、明確に知ることが出来ない。否、文献にのみ拠れば、我国は開闢の当時から、既に農耕時代に入っているように記されていて、狩猟時代の有ったことなどは、遂に発見することが出来ぬのである。併しながら、文献に見えぬからとて、我国に狩猟時代が無かったというのは速断である。各地から発掘された銅鐸の紋様中には、曾て此の時代の存したことを想わせるものが尠からず残されている〔一〕。更に我が国民の常食となっている五穀の中にも、粟と稗だけは原産していたが、他の米や麦や豆は、悉く外来のものであって、殊に豆類は、一段と新しく輸入されたようである〔二〕。勿論、米や麦がなくとも、粟と稗があれば、生命を維ぐに差支はなかったであろうが、各地に貝塚が存し、その中から獣骨の出る所から考えると、我国の古代民族は狩猟によって獲たる獣肉——又は漁撈によって獲たる魚肉を、主食とした一時代を経過したものと想われるのである〔三〕。若しそうでないとしても、副食物を得るために、狩猟や漁撈を営んだことは明白であるから、私がここに言おうとする狩猟と巫女との関係は肯定されるのである。 | ||
我国に狩猟時代があったにせよ、山に棲む獣や野を飛ぶ禽を捕る役は、言うまでもなく男子の所業であって、これに婦女が加ったとは考えられぬ。従って巫女が狩猟に関係を有する点は、狩猟を好結果に導くよう神を祭り、併せて神意を問うて、日時と方角を択み定めることであった。詳言すれば、四季の鳥狩り、獣猟に、それ等の動物の棲む山や野を<ruby><rb>領知</rb><rp>(</rp><rt>ウシハ</rt><rp>)</rp></ruby>ける神々を祭り、八十ヶ月のうちより、今日の生日を足日と定め、更に朝狩りか夕狩りか、好ましき時を神判によって択むのが、その務めであった。神祇官流の解釈によれば、山ノ神といえば、大山祇命と治定しているけれども〔四〕、民間信仰を基調とすれば、今に山ノ神は女性である〔五〕。 | |||
かく山ノ神が女性であると考えられるに至った根本の理由は、山で猟をするには、巫女の助力を受けることが安全であった信仰に起原を発しているのである。「天野告門」に紀州高野山の地主神である丹生津比売命が、白犬一伴、黒犬一伴を連れていたとあるのは〔六〕、此の女神が古く狩猟に関する巫女であったことを、意味しているのではあるまいか〔七〕。而して私に此の事を想わせるものは、左の「伊豆国風土記」逸文の記事である。 | かく山ノ神が女性であると考えられるに至った根本の理由は、山で猟をするには、巫女の助力を受けることが安全であった信仰に起原を発しているのである。「天野告門」に紀州高野山の地主神である丹生津比売命が、白犬一伴、黒犬一伴を連れていたとあるのは〔六〕、此の女神が古く狩猟に関する巫女であったことを、意味しているのではあるまいか〔七〕。而して私に此の事を想わせるものは、左の「伊豆国風土記」逸文の記事である。 | ||
: | : 駿河国伊豆の崎を割きて、伊豆国と号ふ。日金の嶽に、瓊々杵尊の荒御魂を祭る。与野の神猟は、年々に国の別なる役なり。八枚の幣座を構へ、狩具の行装のものを出し納るるの次第は図記にあり。推古天皇の御宇、伊豆甲斐の両国の間に、聖徳太子の御領多し、これより猟鞍を停止めて、八枚を別所とす。往古猟鞍の司々、山の神を祭り、幣座の神坐と号ふ。其旧法久しく断ゆ。夏野の猟鞍は、伊藤、与野、年毎に鹿柵射手を撰びて行ふ〔八〕。 | ||
山ノ神を祭る儀式及び狩猟の古式は、「吾妻鏡」によれば、源頼朝が建久年間に、富士山麓に巻狩を行うた折には既に湮滅し、漸く肥後国阿蘇大神宮家に伝えた<ruby><rb>下野</rb><rp>(</rp><rt>シモノ</rt><rp>)</rp></ruby>の故実を学んで済せたという程であるから、今からその詳細を知ることは不可能であるが、それでも同じ「吾妻鏡」及び、その他の狩猟に関する文献によれば、山神祭や矢口祭は、相応に厳粛であった事が窺われるのである〔九〕。併し、文献や記録によって伝えられた山ノ神——即ち猟の神は、大山祇命と固定してからの信仰を承けているだけに、狩猟と巫女の関係などは、尋繹すべき手掛りもなく、且つ山ノ神は悉く男性であると、神の性までも語り<u>ゆが</u>めているのである。これ等の所伝に比較すると、各地に残っている山ノ神に対する民間信仰は、我国の古き正しきものと考えるので、左に各地に亘りこれを抄出する。 | |||
: 盛岡市の南郊藪川村の道の入口に山の神の祠がある。沢山陽物の形をしたものが供えられていて、年に二回、春の始めと、秋の終りに祭がある。春は山の神が里へ下りて里の神となる時であり、秋は里の神が山へ上って山の神となる時だからと云い、又陽物を献ずるのは、この神は非常な醜女で、嫉妬深い神だからという云々。(「民族」第二巻第三号所載金田一京助氏の「山の神考」の一節)。 | : 盛岡市の南郊藪川村の道の入口に山の神の祠がある。沢山陽物の形をしたものが供えられていて、年に二回、春の始めと、秋の終りに祭がある。春は山の神が里へ下りて里の神となる時であり、秋は里の神が山へ上って山の神となる時だからと云い、又陽物を献ずるのは、この神は非常な醜女で、嫉妬深い神だからという云々。(「民族」第二巻第三号所載金田一京助氏の「山の神考」の一節)。 | ||
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: 安堵峯(中山曰。紀伊国西牟婁郡)辺に、又言伝えるは、山神女形にて、山祭の日、一山に生ぜる樹木を総算するに、成るべく木の多き様数えんとて、一品毎に異名を重ね唱え(中略)、樵夫この日、山に入れば、其内に読み込まるとて、懼れて往かず、又甚だ男子が樹陰に自涜するを好むと云々(「南方随筆」所収の「山神オコゼ魚を好むという事」の一節)。 | : 安堵峯(中山曰。紀伊国西牟婁郡)辺に、又言伝えるは、山神女形にて、山祭の日、一山に生ぜる樹木を総算するに、成るべく木の多き様数えんとて、一品毎に異名を重ね唱え(中略)、樵夫この日、山に入れば、其内に読み込まるとて、懼れて往かず、又甚だ男子が樹陰に自涜するを好むと云々(「南方随筆」所収の「山神オコゼ魚を好むという事」の一節)。 | ||
こうした民間信仰は、未だ夥しきまでに存しているが、山ノ神の研究が目的ではなく、ただ山ノ神が女性であるということだけが判然すれば宜いのであるから、他は省略する。これから見るも、木花開耶姫命が富士の山神であるという伝説の古いことが知られるのである。而して是等の民間信仰を基調として、更に前掲の「伊豆風土記」の逸文を読み直して見ると、八枚の神坐を構えて祭儀に従ったのは巫女であって、然も此の巫女が、古くは狩猟の良否を占問いする役目を有していたのではないかと考えられる。琉球にはウンジャミ祭と称して、各地にノロ(巫女)を中心とした狩猟の神事が行われているが、その中でやや原始的なもので、然も極めて簡単なものを一つだけ抽出して、古くは我が内地にも、かかる神事が挙げられたのではないかと信ずべき旁証とする。「山原の土俗」安田(沖縄県<ruby><rb>国頭</rb><rp>(</rp><rt>クンチャン</rt><rp>)</rp></ruby>郡国頭村大字安田)のウンジャミ祭の条に、 | |||
: | : 旧七月亥ノ日に行う。二日前に神酒を造る。そして<ruby><rb>神人</rb><rp>(</rp><rt>カミンチュ</rt><rp>)</rp></ruby>は当日になると、神衣裳を着けて神アシアゲ(中山曰。内地の斎場と同じもの)に集って、神体に向い祈願をする(中略)。それが済むと猪取りの真似をすることになっている。猪には若い青年が一人選ばれ、身には蓑を纏い頭には笊を被ることになっている。又犬は十五歳位の少年を十名位選定す。猪取りは神人で男女各一人で、犬を引き連れて来て御馳走(原註略)を与える。そして愈々猪取りに掛るのである。暫く猪と犬とを闘わせて置いて、時刻を見計って弓を以て之を射る。すると猪はもがく真似をする。その時に女の神人(中山曰。ノロ)が来て愈々矢を以て之を射止めるようにする。かくして儀式が済むと、晩には若い女の臼太鼓踊があり、青年の角力を余興として行う。これは一名大シヌグとも云い、その日はウナイ(女)ウガミ(中山曰。女を神として拝むことで、巫女の起原の条に言うた「をなり神」の意である)とも称えるらしい。女を男が拝する儀式だというている云々(炉辺叢書本)。 | ||
これ等は明瞭に巫女が狩猟に参与し、然もその中心人物となっていることを物語るものである。誰でも知っている事であるが、「木原楯臣狩猟説」鹿笛の条に、狩詞の記(群書類従本)を引用して、 | |||
: | : 鹿の笛の事は、猟人申すは<ruby><rb>流行</rb><rp>(</rp><rt>ハヤ</rt><rp>)</rp></ruby>る傾城の足駄にて作りたるがよく寄ると申也といえり。又徒然草に女の執念を戒むる所に、女のはけるあしだにて作れる笛には、秋の鹿必ずよると言伝え侍るも、古き諺ならん。 | ||
とある故事も、その源流に溯るときは、巫女が狩猟に交渉を有していたために考えられた俗信ではあるまいかと想われる。 | とある故事も、その源流に溯るときは、巫女が狩猟に交渉を有していたために考えられた俗信ではあるまいかと想われる。 | ||
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「万葉集」を読むと、狩猟に女性を伴った歌が散見する。例えば左の如きものがそれである。 | 「万葉集」を読むと、狩猟に女性を伴った歌が散見する。例えば左の如きものがそれである。 | ||
: | : 足引の<ruby><rb>山海石榴</rb><rp>(</rp><rt>ヤマツバキ</rt><rp>)</rp></ruby>咲く<ruby><rb>畳峰</rb><rp>(</rp><rt>ヤツヲ</rt><rp>)</rp></ruby>越え<ruby><rb>鹿</rb><rp>(</rp><rt>シシ</rt><rp>)</rp></ruby>待つ君が<ruby><rb>斎</rb><rp>(</rp><rt>イハ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ妻かも(巻七)。 | ||
: | : 江林に<ruby><rb>猪鹿</rb><rp>(</rp><rt>シシ</rt><rp>)</rp></ruby>やも求むるに能き白妙の袖まきあげて<ruby><rb>猪鹿</rb><rp>(</rp><rt>シシ</rt><rp>)</rp></ruby>待つ我が夫(同上。凱旋歌)。 | ||
: | : 足柄の<ruby><rb>彼面</rb><rp>(</rp><rt>ヲモテ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>此面</rb><rp>(</rp><rt>コノモ</rt><rp>)</rp></ruby>にさす<ruby><rb>羂</rb><rp>(</rp><rt>ワナ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>喧鳴</rb><rp>(</rp><rt>カナ</rt><rp>)</rp></ruby>る問静み児等吾紐解く(巻十四)。 | ||
此の第一の短歌の鹿待つ君が斎ひ妻に就いては、異説があって、今に定説を見ぬのであるが、併し単に愛するだけの妻の意ならば、斎うとは言うまいと想われるので、これには何か鹿を取る猟人の間に妻を斎う——恰も琉球の<ruby><rb>山原</rb><rp>(</rp><rt>ヤンバル</rt><rp>)</rp></ruby>地方で女を男が拝むというような、呪術的の信仰が存していたのではないかと考えられる。そしてそれが古い時代の狩猟に巫女が参与した伝統を残したものと想われぬでもない。更に想像すれば、<ruby><rb>太占</rb><rp>(</rp><rt>フトマニ</rt><rp>)</rp></ruby>に鹿の肩骨を用いたり、山鳥の尾ろの初穂に鏡をかけたり、片巫が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて神意を問うたりしたことは、古く遠く巫女が狩猟に交渉を有していた時代に発明した呪法であるとも言えるようである。猶お漁撈と巫女との関係は、やや明瞭であって、左迄に考究すべき必要が無いし、それに巫女と製紙の関係を説くと、余りに本節が長くなるので省略した。 | |||
狩猟の良好を神に祈るために巫女が舞い、更に豊富の結果を得たので、神に報賽するために、巫女が踊ったものの中から、後世まで伝った動物に扮する舞踊の幾つかを指摘することが出来るようである。而して動物に扮する舞踊の<ruby><rb>動機</rb><rp>(</rp><rt>モチーフ</rt><rp>)</rp></ruby>が、動物の習性や所作を模倣したことに由るのは勿論である。琉球の国頭郡大宜味村で、毎年旧七月二十日後の亥の日に行うウンガミ祭に、神アシアゲの左端に各瓜で拵えた猪を据え、右端に槍や弓を立てて置き、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>や神人が前後四回までオモロ(神歌)を謡いつつ神踊りをなし、猪を取る真似をして儀式を終るのは〔一〇〕、巫女が神へ対して斯くの如く好猟のあるようにと祈る形式だとも考えられるし、更に「山城風土記」逸文の賀茂社の一節に『仍撰四月吉日祀、馬係鈴人蒙猪頭而駈馳、以為祭祀』とあるのは、古く賀茂神が狩猟神としての一面を有していたことを想わせると同時に、動物に扮する舞踊の在ったことを偲ばせる手掛りになる。 | |||
私は動物に扮する舞踊のうちで、巫女に源流を発したものと信ずべき幾多の民俗学的資料を蒐めて置いたが、それを一々披露することは、徒らに長文になるので、今は省略する。鶏舞、烏舞、鷺舞などの、女性に相応したものは言うまでもなく、鹿踊とか駒舞とかいう、男性的のものすら、巫女が権輿者であることを考えさせるものがある。後世になると、これ等総ての舞踊は、勇壮とか、活発とかいう方面のみ重く視られた反対に、巫女の月水の血忌みが極端にまで嫌われるようになった結果は、当然、巫女が狩猟と関係を断ったので、舞踊まで男子の手に渡ってしまったのである。 | 私は動物に扮する舞踊のうちで、巫女に源流を発したものと信ずべき幾多の民俗学的資料を蒐めて置いたが、それを一々披露することは、徒らに長文になるので、今は省略する。鶏舞、烏舞、鷺舞などの、女性に相応したものは言うまでもなく、鹿踊とか駒舞とかいう、男性的のものすら、巫女が権輿者であることを考えさせるものがある。後世になると、これ等総ての舞踊は、勇壮とか、活発とかいう方面のみ重く視られた反対に、巫女の月水の血忌みが極端にまで嫌われるようになった結果は、当然、巫女が狩猟と関係を断ったので、舞踊まで男子の手に渡ってしまったのである。 | ||
; 〔註一〕 : 我国における銅鐸は、学界の謎として、今に解決されぬほどの難物であるが、兎に角に、此の銅鐸が有史以前の遺物であることだけは明白である。そして各地から発掘された銅鐸の紋様のうちに、男子が槍のような物を以て鹿や猪を取るところ、又は犬を用いて野獣を取るところの意匠が見えている。これは狩猟時代のことを研究する場合に参考すべきことである。更に信州諏訪神社の御頭祭(鹿の頭を七十五供える神事)における鹿の頭の食べ方や、その他これに類した動物の料理法の原始的なものが残っていることも、動物を主食とした時代を窺うべき手掛りとなるのである。 | ; 〔註一〕 : 我国における銅鐸は、学界の謎として、今に解決されぬほどの難物であるが、兎に角に、此の銅鐸が有史以前の遺物であることだけは明白である。そして各地から発掘された銅鐸の紋様のうちに、男子が槍のような物を以て鹿や猪を取るところ、又は犬を用いて野獣を取るところの意匠が見えている。これは狩猟時代のことを研究する場合に参考すべきことである。更に信州諏訪神社の御頭祭(鹿の頭を七十五供える神事)における鹿の頭の食べ方や、その他これに類した動物の料理法の原始的なものが残っていることも、動物を主食とした時代を窺うべき手掛りとなるのである。 | ||
; 〔註二〕 : | ; 〔註二〕 : 天照神が天熊大人を遣して稲を覓めさせたことは、我国に稲の野生の無かったことを示唆しているものである。琉球の伝説を輯めた「遺老説伝」によると、豆類は新しく渡来したことが記してある。 | ||
; 〔註三〕 : 「万葉集」巻十六に載せた乞食者の唱えた長歌の一節に『さを鹿の来立ち嘆かく(中略)、吾が肉は御鱠はやし、吾が肝は御鱠はやし、吾が美義は御塩のはやし』云々とあるのは、鹿の原始的料理法を伝えたものと見るべきである。 | ; 〔註三〕 : 「万葉集」巻十六に載せた乞食者の唱えた長歌の一節に『さを鹿の来立ち嘆かく(中略)、吾が肉は御鱠はやし、吾が肝は御鱠はやし、吾が美義は御塩のはやし』云々とあるのは、鹿の原始的料理法を伝えたものと見るべきである。 | ||
; 〔註四〕 : 現今では山ノ神といえば、大山祇命と固定してしまったが、これは言うまでもなく、原始神道そのままではない。山祇は海祇に対立した神名で、山を支配する意で、山ノ神そのものでは無いのである。神祇官流の神道が、総ての神々を記紀に載っている神々で統一しようとしたための結果である。 | ; 〔註四〕 : 現今では山ノ神といえば、大山祇命と固定してしまったが、これは言うまでもなく、原始神道そのままではない。山祇は海祇に対立した神名で、山を支配する意で、山ノ神そのものでは無いのである。神祇官流の神道が、総ての神々を記紀に載っている神々で統一しようとしたための結果である。 |
2008年9月21日 (日) 14:46時点における最新版
第二節 狩猟に於ける巫女[編集]
我国に狩猟時代が有ったか、無かったかに就いては、文献の上からは、明確に知ることが出来ない。否、文献にのみ拠れば、我国は開闢の当時から、既に農耕時代に入っているように記されていて、狩猟時代の有ったことなどは、遂に発見することが出来ぬのである。併しながら、文献に見えぬからとて、我国に狩猟時代が無かったというのは速断である。各地から発掘された銅鐸の紋様中には、曾て此の時代の存したことを想わせるものが尠からず残されている〔一〕。更に我が国民の常食となっている五穀の中にも、粟と稗だけは原産していたが、他の米や麦や豆は、悉く外来のものであって、殊に豆類は、一段と新しく輸入されたようである〔二〕。勿論、米や麦がなくとも、粟と稗があれば、生命を維ぐに差支はなかったであろうが、各地に貝塚が存し、その中から獣骨の出る所から考えると、我国の古代民族は狩猟によって獲たる獣肉——又は漁撈によって獲たる魚肉を、主食とした一時代を経過したものと想われるのである〔三〕。若しそうでないとしても、副食物を得るために、狩猟や漁撈を営んだことは明白であるから、私がここに言おうとする狩猟と巫女との関係は肯定されるのである。
我国に狩猟時代があったにせよ、山に棲む獣や野を飛ぶ禽を捕る役は、言うまでもなく男子の所業であって、これに婦女が加ったとは考えられぬ。従って巫女が狩猟に関係を有する点は、狩猟を好結果に導くよう神を祭り、併せて神意を問うて、日時と方角を択み定めることであった。詳言すれば、四季の鳥狩り、獣猟に、それ等の動物の棲む山や野を
かく山ノ神が女性であると考えられるに至った根本の理由は、山で猟をするには、巫女の助力を受けることが安全であった信仰に起原を発しているのである。「天野告門」に紀州高野山の地主神である丹生津比売命が、白犬一伴、黒犬一伴を連れていたとあるのは〔六〕、此の女神が古く狩猟に関する巫女であったことを、意味しているのではあるまいか〔七〕。而して私に此の事を想わせるものは、左の「伊豆国風土記」逸文の記事である。
- 駿河国伊豆の崎を割きて、伊豆国と号ふ。日金の嶽に、瓊々杵尊の荒御魂を祭る。与野の神猟は、年々に国の別なる役なり。八枚の幣座を構へ、狩具の行装のものを出し納るるの次第は図記にあり。推古天皇の御宇、伊豆甲斐の両国の間に、聖徳太子の御領多し、これより猟鞍を停止めて、八枚を別所とす。往古猟鞍の司々、山の神を祭り、幣座の神坐と号ふ。其旧法久しく断ゆ。夏野の猟鞍は、伊藤、与野、年毎に鹿柵射手を撰びて行ふ〔八〕。
山ノ神を祭る儀式及び狩猟の古式は、「吾妻鏡」によれば、源頼朝が建久年間に、富士山麓に巻狩を行うた折には既に湮滅し、漸く肥後国阿蘇大神宮家に伝えた
- 盛岡市の南郊藪川村の道の入口に山の神の祠がある。沢山陽物の形をしたものが供えられていて、年に二回、春の始めと、秋の終りに祭がある。春は山の神が里へ下りて里の神となる時であり、秋は里の神が山へ上って山の神となる時だからと云い、又陽物を献ずるのは、この神は非常な醜女で、嫉妬深い神だからという云々。(「民族」第二巻第三号所載金田一京助氏の「山の神考」の一節)。
- シャチ山の神 狩人の祀る山の神の名にて、三河国北設楽郡にて言えり云々。
- シャチナンジ 女神にて、狩人の守り神なりという。北設楽郡豊根村字分地、遠江国周知郡にても言えり。(以上。「民族」第三巻第一号所載、早川孝太郎氏の「参遠山村手記」の一節)。
- 安堵峯(中山曰。紀伊国西牟婁郡)辺に、又言伝えるは、山神女形にて、山祭の日、一山に生ぜる樹木を総算するに、成るべく木の多き様数えんとて、一品毎に異名を重ね唱え(中略)、樵夫この日、山に入れば、其内に読み込まるとて、懼れて往かず、又甚だ男子が樹陰に自涜するを好むと云々(「南方随筆」所収の「山神オコゼ魚を好むという事」の一節)。
こうした民間信仰は、未だ夥しきまでに存しているが、山ノ神の研究が目的ではなく、ただ山ノ神が女性であるということだけが判然すれば宜いのであるから、他は省略する。これから見るも、木花開耶姫命が富士の山神であるという伝説の古いことが知られるのである。而して是等の民間信仰を基調として、更に前掲の「伊豆風土記」の逸文を読み直して見ると、八枚の神坐を構えて祭儀に従ったのは巫女であって、然も此の巫女が、古くは狩猟の良否を占問いする役目を有していたのではないかと考えられる。琉球にはウンジャミ祭と称して、各地にノロ(巫女)を中心とした狩猟の神事が行われているが、その中でやや原始的なもので、然も極めて簡単なものを一つだけ抽出して、古くは我が内地にも、かかる神事が挙げられたのではないかと信ずべき旁証とする。「山原の土俗」安田(沖縄県
- 旧七月亥ノ日に行う。二日前に神酒を造る。そして
神人 は当日になると、神衣裳を着けて神アシアゲ(中山曰。内地の斎場と同じもの)に集って、神体に向い祈願をする(中略)。それが済むと猪取りの真似をすることになっている。猪には若い青年が一人選ばれ、身には蓑を纏い頭には笊を被ることになっている。又犬は十五歳位の少年を十名位選定す。猪取りは神人で男女各一人で、犬を引き連れて来て御馳走(原註略)を与える。そして愈々猪取りに掛るのである。暫く猪と犬とを闘わせて置いて、時刻を見計って弓を以て之を射る。すると猪はもがく真似をする。その時に女の神人(中山曰。ノロ)が来て愈々矢を以て之を射止めるようにする。かくして儀式が済むと、晩には若い女の臼太鼓踊があり、青年の角力を余興として行う。これは一名大シヌグとも云い、その日はウナイ(女)ウガミ(中山曰。女を神として拝むことで、巫女の起原の条に言うた「をなり神」の意である)とも称えるらしい。女を男が拝する儀式だというている云々(炉辺叢書本)。
これ等は明瞭に巫女が狩猟に参与し、然もその中心人物となっていることを物語るものである。誰でも知っている事であるが、「木原楯臣狩猟説」鹿笛の条に、狩詞の記(群書類従本)を引用して、
- 鹿の笛の事は、猟人申すは
流行 る傾城の足駄にて作りたるがよく寄ると申也といえり。又徒然草に女の執念を戒むる所に、女のはけるあしだにて作れる笛には、秋の鹿必ずよると言伝え侍るも、古き諺ならん。
とある故事も、その源流に溯るときは、巫女が狩猟に交渉を有していたために考えられた俗信ではあるまいかと想われる。
「万葉集」を読むと、狩猟に女性を伴った歌が散見する。例えば左の如きものがそれである。
- 足引の
山海石榴 咲く畳峰 越え鹿 待つ君が斎 ひ妻かも(巻七)。 - 江林に
猪鹿 やも求むるに能き白妙の袖まきあげて猪鹿 待つ我が夫(同上。凱旋歌)。 - 足柄の
彼面 此面 にさす羂 の喧鳴 る問静み児等吾紐解く(巻十四)。
此の第一の短歌の鹿待つ君が斎ひ妻に就いては、異説があって、今に定説を見ぬのであるが、併し単に愛するだけの妻の意ならば、斎うとは言うまいと想われるので、これには何か鹿を取る猟人の間に妻を斎う——恰も琉球の
狩猟の良好を神に祈るために巫女が舞い、更に豊富の結果を得たので、神に報賽するために、巫女が踊ったものの中から、後世まで伝った動物に扮する舞踊の幾つかを指摘することが出来るようである。而して動物に扮する舞踊の
私は動物に扮する舞踊のうちで、巫女に源流を発したものと信ずべき幾多の民俗学的資料を蒐めて置いたが、それを一々披露することは、徒らに長文になるので、今は省略する。鶏舞、烏舞、鷺舞などの、女性に相応したものは言うまでもなく、鹿踊とか駒舞とかいう、男性的のものすら、巫女が権輿者であることを考えさせるものがある。後世になると、これ等総ての舞踊は、勇壮とか、活発とかいう方面のみ重く視られた反対に、巫女の月水の血忌みが極端にまで嫌われるようになった結果は、当然、巫女が狩猟と関係を断ったので、舞踊まで男子の手に渡ってしまったのである。
- 〔註一〕
- 我国における銅鐸は、学界の謎として、今に解決されぬほどの難物であるが、兎に角に、此の銅鐸が有史以前の遺物であることだけは明白である。そして各地から発掘された銅鐸の紋様のうちに、男子が槍のような物を以て鹿や猪を取るところ、又は犬を用いて野獣を取るところの意匠が見えている。これは狩猟時代のことを研究する場合に参考すべきことである。更に信州諏訪神社の御頭祭(鹿の頭を七十五供える神事)における鹿の頭の食べ方や、その他これに類した動物の料理法の原始的なものが残っていることも、動物を主食とした時代を窺うべき手掛りとなるのである。
- 〔註二〕
- 天照神が天熊大人を遣して稲を覓めさせたことは、我国に稲の野生の無かったことを示唆しているものである。琉球の伝説を輯めた「遺老説伝」によると、豆類は新しく渡来したことが記してある。
- 〔註三〕
- 「万葉集」巻十六に載せた乞食者の唱えた長歌の一節に『さを鹿の来立ち嘆かく(中略)、吾が肉は御鱠はやし、吾が肝は御鱠はやし、吾が美義は御塩のはやし』云々とあるのは、鹿の原始的料理法を伝えたものと見るべきである。
- 〔註四〕
- 現今では山ノ神といえば、大山祇命と固定してしまったが、これは言うまでもなく、原始神道そのままではない。山祇は海祇に対立した神名で、山を支配する意で、山ノ神そのものでは無いのである。神祇官流の神道が、総ての神々を記紀に載っている神々で統一しようとしたための結果である。
- 〔註五〕
- 民間信仰の対象としての山ノ神は、殆んど全国的に女性である。妻女の俚称を「山ノ神」と云うのも、これから導かれたことで、兼ねて妻女が古く家族的巫女であったことを伝えているものである。
- 〔註六〕
- 「天野告門」は偽書だという説もあるが、私には必ずしも左様だとは思われない。勿論、記事の全部をそのまま信用することは出来ぬが、兎に角に古い文献を土台として後世に書き入れたものと考えている。従って土台になった部分だけは信用し得る古いものとして差支ない。それは恰も「倭姫命世紀」と同じことである。
- 〔註七〕
- 南方熊楠氏の談に、丹生神社の末社に皮ハギ明神というがある。即ち皮細工の祖神ともいうべきものであるが、これは獣皮を衣服の代用とし、獣肉を主食とした時代の遺物であろうとのことであった。丹生津姫命と犬の関係は、相当に後世まで残っていて、僧空海が始めて登ったときも犬が案内したと言われている。
- 〔註八〕
- 「伊豆風土記」の逸文は、北畠親房著の「鎌倉実記」巻二に引用してあるのだが、この記事は、他の風土記の文体に比較すると、やや時代の降ったものであることが知られる。栗田寛翁はその著「古風土記逸文考証」において、これは後人の攙入なるべしと云うている。併し記されている狩猟のことは古いものと見て大過はないようである。
- 〔註九〕
- 「好古類纂」の遊戯部に収められている「木原楯臣狩猟説」は、古今の記録を要約して、よく古代の狩猟のことが輯めてある。
- 〔註一〇〕
- 「山原の土俗」(炉辺叢書本)。