「日本巫女史/第一篇/第三章/第二節」の版間の差分
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我国の祝詞(延喜式に載せたもの及び台記の別記にある寿辞を含めて)なるものが、その品質的に呪文としての思想が多分に盛られていることは、深い説明の要はあるまいと思う。一二を言えば、新年祭に、御年ノ神に『白き馬、白き猪、白き雞』を備えたことは、即ち古き呪術が祝詞に残ったものである。朝廷で、白き猪の捕れぬままに、新年祭を延期した例は幾度もある。後には白き猪が如何にするも捕れぬので、普通の猪を白く染めて祭儀を挙げたことすらある〔一〕。是等は呪術の一種であるが、それを称えることは直ちに呪文と云うことが出来るのである。出雲国造神賀詞に、 | 我国の祝詞(延喜式に載せたもの及び台記の別記にある寿辞を含めて)なるものが、その品質的に呪文としての思想が多分に盛られていることは、深い説明の要はあるまいと思う。一二を言えば、新年祭に、御年ノ神に『白き馬、白き猪、白き雞』を備えたことは、即ち古き呪術が祝詞に残ったものである。朝廷で、白き猪の捕れぬままに、新年祭を延期した例は幾度もある。後には白き猪が如何にするも捕れぬので、普通の猪を白く染めて祭儀を挙げたことすらある〔一〕。是等は呪術の一種であるが、それを称えることは直ちに呪文と云うことが出来るのである。出雲国造神賀詞に、 | ||
: | : 白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もすべむに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生立てる、若水沼の間弥若えに御若え坐し、濯ぎ振りさく淀みの水の、弥をちに御をちまし。 | ||
とあるのもそれであって、即ち変若水を飲んで、永久に御弥若えにませとの呪文である〔二〕。更に中臣寿詞にある | |||
: 天玉櫛を事依し奉りて、此の玉櫛を刺し立て、夕日より朝日の照るに至るまで、天津詔詞の太詔詞言(中山曰。この事は[[日本巫女史/第一篇/第三章/第三節|次節]]に述べる)をもて告れ、かく告らば、兆は弱蒜に由都五百篁生ひ出でむ、それより下天の八井出でむ、こゝを持ちて、天つ水と聞し食せと事依し奉りき。 | : 天玉櫛を事依し奉りて、此の玉櫛を刺し立て、夕日より朝日の照るに至るまで、天津詔詞の太詔詞言(中山曰。この事は[[日本巫女史/第一篇/第三章/第三節|次節]]に述べる)をもて告れ、かく告らば、兆は弱蒜に由都五百篁生ひ出でむ、それより下天の八井出でむ、こゝを持ちて、天つ水と聞し食せと事依し奉りき。 | ||
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併しながら私は、決して、祝詞は呪文から発生したものだと、断定する者ではない。成る程、呪文本位の立場から祝詞を見れば、呪文の本質に、祝詞のうちから、呪文の分子を取り除いたものが、祝詞であるとも云えるようであるから、古代に溯るほど、両者の関係が斯くの如き関係に置かれてあるのは、恐らく巫女の呪術を母胎として生れた兄弟が、用途と時勢との影響を受けて、一方は呪文として発達し、一方は祝言として発達し、遂に別々なものとなったのであろうと考えている。 | 併しながら私は、決して、祝詞は呪文から発生したものだと、断定する者ではない。成る程、呪文本位の立場から祝詞を見れば、呪文の本質に、祝詞のうちから、呪文の分子を取り除いたものが、祝詞であるとも云えるようであるから、古代に溯るほど、両者の関係が斯くの如き関係に置かれてあるのは、恐らく巫女の呪術を母胎として生れた兄弟が、用途と時勢との影響を受けて、一方は呪文として発達し、一方は祝言として発達し、遂に別々なものとなったのであろうと考えている。 | ||
''' | '''一 祝言から祝詞へ''' | ||
祝言の古いものは、「新室ほがい」とて、新築の家屋を祝い、併せてその家の主人の幸福を祝するもので、次には「酒ほがい」とて、新しく醸せる酒を祝い、併せて此の酒を飲む者の栄光を祝するものである。而して前者にあっては「古事記」巻上に、出雲の多芸志の小浜に、天の御舎を造りしとき、櫛八玉神が神火を鑚りて言祝し、 | 祝言の古いものは、「新室ほがい」とて、新築の家屋を祝い、併せてその家の主人の幸福を祝するもので、次には「酒ほがい」とて、新しく醸せる酒を祝い、併せて此の酒を飲む者の栄光を祝するものである。而して前者にあっては「古事記」巻上に、出雲の多芸志の小浜に、天の御舎を造りしとき、櫛八玉神が神火を鑚りて言祝し、 | ||
: | : この吾が燧れる火は、高天原には、神産巣日御祖命のとだる天の新巣の凝煙の、八掌垂るまで燒挙げ、地下は、底津石根に燒凝して、栲縄の千尋縄打ち延へ、釣らせる海人が大口の尾翼鱸、さわゝゝに控きよせ騰げて、折坼のとををとををに、天の真魚咋献らむ。 | ||
とあるのが初見である。そして「顯宗紀」に、天皇が潜龍の折に、播磨国縮見屯倉の新室を寿ぎて、 | とあるのが初見である。そして「顯宗紀」に、天皇が潜龍の折に、播磨国縮見屯倉の新室を寿ぎて、 | ||
: | : 築き立ち稚室葛ね、築き立る柱は、此の家長の御心の鎮りなり。取り挙る棟梁は、此の家長の御心の林なり、取り置ける椽橑は、これ家長の御心の齊なり、取り置ける蘆雚は、この家長の御心の平なり、取り結へる縄葛は、此の家長の御寿の堅きなり、取り葺く茅は、此の家長の余りなり、出雲は新墾なり、新墾の十握の稲の穗、淺甕に醸める大御酒を、美に飲喫かね、吾が子たち、足曳の此の傍山の、小男鹿の角さゝげて、吾が儛はば、うま酒餌香の市に、値も買はず、手そこもやらゝに、拍あげたまへ、吾が常世たち。 | ||
とあるのは、最も有名であるだけに、又よく古代の室寿の信仰を具現しているのである。而して後者にあっては「神功記」に、 | とあるのは、最も有名であるだけに、又よく古代の室寿の信仰を具現しているのである。而して後者にあっては「神功記」に、 | ||
: | : 此の御酒は、わが御酒ならず、奇の首長、常世に坐す、石立たす、少名御神の、神寿、寿くるほし、豊寿、寿もとほし、献り来し、御酒ぞ、涸さず飲せ、さゝ。 | ||
と酒祝いして、応神帝に献りしとき、武内宿禰が帝の御為めに答え奉りし歌に、 | と酒祝いして、応神帝に献りしとき、武内宿禰が帝の御為めに答え奉りし歌に、 | ||
: | : 此の御酒を、醸みけむ人は、其の鼓、臼に立てゝ、歌ひつゝ、醸みけれかも、舞ひつゝ、醸みけれかも、此の御酒の、御酒の、妙に、転楽し、さゝ。 | ||
とあるので、その事がよく知られるのである。 | とあるので、その事がよく知られるのである。 | ||
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こうした祝言は、吉を好み、凶を嫌う人情と共に発達して、後には此の祝言を言いたてて渡世する「祝言人」なる者を生む様になった。「万葉集」巻十六に載せてある長歌二首は、是等の徒が謡うたものである〔四〕。而して此の祝言は、神道が固定すると共に祝詞に取り入れられて、遂に祝詞の中心思想をなすに至ったのである。大殿祭の一節に、 | こうした祝言は、吉を好み、凶を嫌う人情と共に発達して、後には此の祝言を言いたてて渡世する「祝言人」なる者を生む様になった。「万葉集」巻十六に載せてある長歌二首は、是等の徒が謡うたものである〔四〕。而して此の祝言は、神道が固定すると共に祝詞に取り入れられて、遂に祝詞の中心思想をなすに至ったのである。大殿祭の一節に、 | ||
: | : 皇御孫命の天の御翳日の御翳と、造り仕へ奉れる瑞の御殿を、汝屋船命に天つ奇護言を持ちて、言寿ぎ鎮め白さん。これの敷坐す大宮地は、底つ磐根の極み、下つ綱根這ふ虫の禍なく、高天原は青雲の靄く極み、天の血垂り飛ぶ鳥の禍なく、掘り堅めたる柱桁梁戸牖の錯む動き鳴ることなく、引結べる葛目の緩び、取葺ける草の噪ぎなく、御床の辺の喧ぎ、夜目のいすゞきいづつしことなく、平けく安らけく護り奉る。 | ||
とあるのや、広瀬大忌祭の一節に、 | |||
: | : かく奉るうづの幣帛を、安幣帛の足幣帛と、皇神の御心平けく安けらく聞しめして、天御孫命の長御膳の遠御膳と、赤丹のほに聞しめさむ、皇神の御刀代を始めて、親王等王臣等、天が下の公民の、取り作る奥つ御歲は、手肱に水沬画き垂り、向股に泥画き寄せて、取り作らむ奥つ御歲を、八束穗に皇神の成し幸へ賜はゞ、初穗は汁にも頴にも、千稲八千稲に引き据ゑて、横山の如打積み置きて、秋の祭に奉らむ。 | ||
とあるなど、祝詞は祝言の連続とも言うべきまでに修正されてしまったのである。 | とあるなど、祝詞は祝言の連続とも言うべきまでに修正されてしまったのである。 | ||
''' | '''二 呪文より呪言へ''' | ||
呪言と云うも、呪文と云うも、それは文字上の差別で、その内容にあって殆ど共通しているのであるが、私は便宜上これを二つに分けて、言句の短きものを呪言とし、やや長きものを呪文として見たのであるが、それが極めて非学問的であることは、私も認めている。取捨は元より読者の自由である。而してこれには、種々たる固有名詞があるので、それに従って左に挙げるとした。 | 呪言と云うも、呪文と云うも、それは文字上の差別で、その内容にあって殆ど共通しているのであるが、私は便宜上これを二つに分けて、言句の短きものを呪言とし、やや長きものを呪文として見たのであるが、それが極めて非学問的であることは、私も認めている。取捨は元より読者の自由である。而してこれには、種々たる固有名詞があるので、それに従って左に挙げるとした。 | ||
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古く「詛」をトゴヒと訓ませているので之に従うが、その意は己れの憎しと思う者を凶言して、禍あらしむるよう行う術である。「日本書紀」神代巻に、天稚彦が天津神の使なる雉を射殺せし矢が天津神の所に至りしとき、 | 古く「詛」をトゴヒと訓ませているので之に従うが、その意は己れの憎しと思う者を凶言して、禍あらしむるよう行う術である。「日本書紀」神代巻に、天稚彦が天津神の使なる雉を射殺せし矢が天津神の所に至りしとき、 | ||
: | : 天神その矢を見たまひて曰く、これ昔我が天稚彦に賜ひし矢なり。今何の故に来たると宣ひて、乃ち矢を取りて呪ひ曰く、若し悪き心を以て射ば、則ち天稚彦は必ず遭害れなん(中略)。因て還し投てたまふ。即ち其の矢落ち下りて、天稚彦の高胸に中りぬ。因て以て立どころに死しぬ。 | ||
とあり、更に「古事記」には、此の事を叙して、天神が『若し邪き心しあらば、天若日子、此の矢に禍れと宣りたまひき』云々とある。即ち此の「禍れ」と宣られたことが、トゴヒなのである。同じ「日本書紀」神代巻に、天孫瓊々杵尊が、大山祇命の姉女磐長媛を斥けて、妹女木花開耶媛を召されしとき、 | とあり、更に「古事記」には、此の事を叙して、天神が『若し邪き心しあらば、天若日子、此の矢に禍れと宣りたまひき』云々とある。即ち此の「禍れ」と宣られたことが、トゴヒなのである。同じ「日本書紀」神代巻に、天孫瓊々杵尊が、大山祇命の姉女磐長媛を斥けて、妹女木花開耶媛を召されしとき、 | ||
: | : かれ、磐長媛大に慙ぢて詛ひて曰く、假令、天孫、妾を斥けたまはで御さましかば、生めらむ児、寿永きこと、磐石常存の如ならまし、今既に然らず、唯弟のみ独り御せり、かれその生めらん児、必ず木の花の如に移り落ちなん。 | ||
とあるのも、又それである。更に同じ神代巻の一書に、火々出見尊が、兄火酢芹尊と、海幸山幸とを易えて鈎を失い、海宮に至りてその鈎を獲たとき、海神の尊に教えて、 | とあるのも、又それである。更に同じ神代巻の一書に、火々出見尊が、兄火酢芹尊と、海幸山幸とを易えて鈎を失い、海宮に至りてその鈎を獲たとき、海神の尊に教えて、 | ||
: | : 鈎を以て汝の兄に与へたまはん時に、則ち詛ひ言はまく、貧窮の本、飢饉の始、困苦の根とのたまひて、而して後に与へたまへ。 | ||
とあるのも、よく呪言の本質を説明している。それから「雄略紀」冬十月の條に、御馬ノ皇子が三輪ノ磐井の側で戦って捉われ、刑に臨んで、 | とあるのも、よく呪言の本質を説明している。それから「雄略紀」冬十月の條に、御馬ノ皇子が三輪ノ磐井の側で戦って捉われ、刑に臨んで、 | ||
: | : 指井而詛曰、此水者百姓唯得飲矣。 | ||
とあるのや、「武烈紀」冬十一月の條に、 | とあるのや、「武烈紀」冬十一月の條に、 | ||
: | : 真鳥大臣恨事不済、知身難免、計窮望絶、広指塩詛、遂被殺戮、及其子弟詛時、唯忘角鹿海塩、不以為詛、由之角鹿之塩、為天皇所食、余海之塩、為天皇所忌。 | ||
とあるなど〔五〕、咸なトゴヒの例として見るべきものである。 | とあるなど〔五〕、咸なトゴヒの例として見るべきものである。 | ||
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'''ノロヒ''' | '''ノロヒ''' | ||
伴信友翁は、ノロヒに定義を下して、『ノロヒとは怨みある人に禍を負ふせむと、深く一向に念ひつめてものする所為と聞こゆ』となし、更にトゴヒとノロヒの区別を説いて『トゴヒは言霊によりてする術、ノロヒは言うに云はず、念ひつめてものするなり』としている〔六〕。よく我が古代の呪術の本質を盡しているものと思う。而してノロヒの方法に就いては、「日本書紀」神代巻の一書に、 | |||
: | : 日神、新嘗きこしめす時に及至りて、素戔嗚尊則ち新宮の御席の下に於て、陰に自ら送糞る。日神知ろしめさずして、径に席の上に坐たまふ。是に由て日神体挙りて不平みたまふ。 | ||
とあるのに対し、「釈日本紀」巻七に公望の私記を引いて、 | とあるのに対し、「釈日本紀」巻七に公望の私記を引いて、 | ||
89行目: | 89行目: | ||
とあるのが、その徴証であるが〔七〕、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。「神功紀」四十七年夏四月の條に、百済の使久氏等が、我国に来る途中にて、新羅に捕われし事を記して、 | とあるのが、その徴証であるが〔七〕、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。「神功紀」四十七年夏四月の條に、百済の使久氏等が、我国に来る途中にて、新羅に捕われし事を記して、 | ||
: | : 新羅人捕臣等、禁囹圄、経三月而欲殺、時久氏等向天而呪詛之、新羅人怖其呪詛、而不殺。 | ||
とある。これは、言うまでもなく、百済のノロヒの事を記したものであるが、その方法なり、内容なりにおいては、古く我国と共通したものがあったので、かく載せたものと考えられるのである。 | とある。これは、言うまでもなく、百済のノロヒの事を記したものであるが、その方法なり、内容なりにおいては、古く我国と共通したものがあったので、かく載せたものと考えられるのである。 | ||
99行目: | 99行目: | ||
「神武紀」戌午年秋九月の條に、 | 「神武紀」戌午年秋九月の條に、 | ||
: | : 天皇悪之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土、以造天平瓮八十枚、幷造厳瓮而敬天神地祇、亦為厳呪詛、如此則虜自平伏(中略)。祭天神地祇、則於菟田川原朝原、譬如水沬而有所呪著也。 | ||
とあるのは、よくその事象を現わしている。而してカジリに就いて、伴信友翁は、 | とあるのは、よくその事象を現わしている。而してカジリに就いて、伴信友翁は、 | ||
: | : 武藏の或る田舎人、山伏の憑術行て、口よせと云う事をせる由を話せる詞に、憑に立たる人に、生霊を「かじりつけて」云々。その「かじりつかれたる」人は云々といへり。又そが平常の詞に、人に対ひて只管に念ひ入たる事を言ふとて、かじりつきて云々すべいと云ひ、又た硬き物喰ふを「カジル」とも「カジリツク」とも云ひて、同詞の遣ひざまに言へり。思い合せて言の意を知るべし。 | ||
と説かれたのは、極めて要領を得たものである〔八〕。それから、「欽明紀」二十三年六月の條に、 | と説かれたのは、極めて要領を得たものである〔八〕。それから、「欽明紀」二十三年六月の條に、 | ||
: | : 是月或有譖馬飼首歌依(中略)。即収附廷尉、鞠問極切、馬飼首歌依乃揚言誓曰、虚也、非実、若是実者、必被天灾、遂困苦間伏地而死、死未経時、急灾於殿、収縛其子守石与中賴氷、将投火中、呪曰、非吾手投、呪訖欲投火、守石之母祈請曰、投児火裏、火灾果臻、請付祝人使作神奴。 | ||
と見えている。此の記事には、文字の脱落が二ヶ所ほどあって、事由を解するに苦しむところがあるも、茲には歌依がカジリをしたと云うことだけが確実であれば、その他は姑らく措くとするも差支ないと考えたので、敢えて抄録した次第である。 | と見えている。此の記事には、文字の脱落が二ヶ所ほどあって、事由を解するに苦しむところがあるも、茲には歌依がカジリをしたと云うことだけが確実であれば、その他は姑らく措くとするも差支ないと考えたので、敢えて抄録した次第である。 | ||
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谷川士清翁は、ウケヒの意義に就いて、 | 谷川士清翁は、ウケヒの意義に就いて、 | ||
: | : 日本紀に誓約ノ字、誓ノ字、祈ノ字、などを訓めり、又盟をうかうとよむも同じ。請言の義いのりちかふ事をいへり。源氏物語のこき殿などのうけはしげにのたまふと云ひ、伊勢物語に罪なき人をうけへはと云へるは詛ふ方に云へり。よて真名本に呪詛と塡たり。古事記にも宇氣比死と見えたり。 | ||
と言うているが〔九〕、これでウケヒの本質を知ることが出来る。而してウケヒの実例にあっては、「崇神紀」十年七月の武埴安彦が、謀反の條に、 | と言うているが〔九〕、これでウケヒの本質を知ることが出来る。而してウケヒの実例にあっては、「崇神紀」十年七月の武埴安彦が、謀反の條に、 | ||
: | : 天皇(中略)。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛密来之、取倭香山土裏領巾頭祈曰、是倭国之物実則反之、是以知有事焉。 | ||
とある。此の外にも、記・紀に載するところ尠くない。「万葉集」巻四、大伴家持の歌に『都路を遠みや妹が此頃は、誓約ひて寢れど夢に見え来ぬ』とあり、更に誓い狩、又は誓い釣とて、神意を占うために或は獣を狩り、或は魚を釣ることなども行われた〔一〇〕。殊に神功皇后が征韓に際し伊覩縣に到りしとき「適当皇后之開胎、皇后則取石挿腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土」とあるのは、ウケヒが一種の呪術として用いられた例証である。 | |||
'''オヨヅレゴト''' | '''オヨヅレゴト''' | ||
神武紀にある「諷歌倒語」の意義に就いては、古くから国学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬほどの難問であるが〔一一〕、私は飯田武郷翁が此の語の細註に『万葉集に、狂言香逆言哉云々。とある逆言を、古くサカシマコトと訓り。この逆言はオヨヅレゴトと訓べきよし先達云はれたる、さることなり』とあるを論拠として〔一二〕、諷歌倒語は即ちオヨヅレゴトの当て字と断定する者である。而してこれの用例は「天智紀」九年春正月の條に『禁断誣妄妖偽』と載せ、「天武紀」には『妖言』と見えている。「万葉集」巻三石田王の挽歌の一節に『妖言か吾が聞きつる、狂言か我が聞きつるも』とあり、同集巻一七に長逝せる弟を哀傷しむ長歌の一節に『玉梓の使の来れば、嬉しみと吾が待ち問ふに、妖言の狂言かも』とあるのは、共に此の語の呪言としての内容を考えさせるものがある。私は神武紀の諷歌倒語は、かの流言蜚語の意とは全く趣きを異にし、呪言とあるべき(殊更に語を倒まにする事もある)を斯く記したものと信じている。 | |||
此の一部の擱筆に際し、特に言うて置かねばならぬ事は、以上に列挙した呪言なり、呪文なり、又は祝詞なりは、必ずしも巫女に限り用いたもので無いと云う点である。否、此の反対に文献の示すところによれば、巫女よりは覡男が却って多く用いていたことを証明しているのである。従って此の一節は厳格なる意味から言えば、巫女史の埒外を越えた点が尠くないのであって、広義の呪術史の一節たるが如き観を呈するに至った。 | 此の一部の擱筆に際し、特に言うて置かねばならぬ事は、以上に列挙した呪言なり、呪文なり、又は祝詞なりは、必ずしも巫女に限り用いたもので無いと云う点である。否、此の反対に文献の示すところによれば、巫女よりは覡男が却って多く用いていたことを証明しているのである。従って此の一節は厳格なる意味から言えば、巫女史の埒外を越えた点が尠くないのであって、広義の呪術史の一節たるが如き観を呈するに至った。 |
2008年9月2日 (火) 04:46時点における版
第二節 祝詞の呪術的分子と呪言の種類
我国の祝詞(延喜式に載せたもの及び台記の別記にある寿辞を含めて)なるものが、その品質的に呪文としての思想が多分に盛られていることは、深い説明の要はあるまいと思う。一二を言えば、新年祭に、御年ノ神に『白き馬、白き猪、白き雞』を備えたことは、即ち古き呪術が祝詞に残ったものである。朝廷で、白き猪の捕れぬままに、新年祭を延期した例は幾度もある。後には白き猪が如何にするも捕れぬので、普通の猪を白く染めて祭儀を挙げたことすらある〔一〕。是等は呪術の一種であるが、それを称えることは直ちに呪文と云うことが出来るのである。出雲国造神賀詞に、
- 白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もすべむに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生立てる、若水沼の間弥若えに御若え坐し、濯ぎ振りさく淀みの水の、弥をちに御をちまし。
とあるのもそれであって、即ち変若水を飲んで、永久に御弥若えにませとの呪文である〔二〕。更に中臣寿詞にある
- 天玉櫛を事依し奉りて、此の玉櫛を刺し立て、夕日より朝日の照るに至るまで、天津詔詞の太詔詞言(中山曰。この事は次節に述べる)をもて告れ、かく告らば、兆は弱蒜に由都五百篁生ひ出でむ、それより下天の八井出でむ、こゝを持ちて、天つ水と聞し食せと事依し奉りき。
の一節の如きは、呪文そのままとも云えるのである〔三〕。
併しながら私は、決して、祝詞は呪文から発生したものだと、断定する者ではない。成る程、呪文本位の立場から祝詞を見れば、呪文の本質に、祝詞のうちから、呪文の分子を取り除いたものが、祝詞であるとも云えるようであるから、古代に溯るほど、両者の関係が斯くの如き関係に置かれてあるのは、恐らく巫女の呪術を母胎として生れた兄弟が、用途と時勢との影響を受けて、一方は呪文として発達し、一方は祝言として発達し、遂に別々なものとなったのであろうと考えている。
一 祝言から祝詞へ
祝言の古いものは、「新室ほがい」とて、新築の家屋を祝い、併せてその家の主人の幸福を祝するもので、次には「酒ほがい」とて、新しく醸せる酒を祝い、併せて此の酒を飲む者の栄光を祝するものである。而して前者にあっては「古事記」巻上に、出雲の多芸志の小浜に、天の御舎を造りしとき、櫛八玉神が神火を鑚りて言祝し、
- この吾が燧れる火は、高天原には、神産巣日御祖命のとだる天の新巣の凝煙の、八掌垂るまで燒挙げ、地下は、底津石根に燒凝して、栲縄の千尋縄打ち延へ、釣らせる海人が大口の尾翼鱸、さわゝゝに控きよせ騰げて、折坼のとををとををに、天の真魚咋献らむ。
とあるのが初見である。そして「顯宗紀」に、天皇が潜龍の折に、播磨国縮見屯倉の新室を寿ぎて、
- 築き立ち稚室葛ね、築き立る柱は、此の家長の御心の鎮りなり。取り挙る棟梁は、此の家長の御心の林なり、取り置ける椽橑は、これ家長の御心の齊なり、取り置ける蘆雚は、この家長の御心の平なり、取り結へる縄葛は、此の家長の御寿の堅きなり、取り葺く茅は、此の家長の余りなり、出雲は新墾なり、新墾の十握の稲の穗、淺甕に醸める大御酒を、美に飲喫かね、吾が子たち、足曳の此の傍山の、小男鹿の角さゝげて、吾が儛はば、うま酒餌香の市に、値も買はず、手そこもやらゝに、拍あげたまへ、吾が常世たち。
とあるのは、最も有名であるだけに、又よく古代の室寿の信仰を具現しているのである。而して後者にあっては「神功記」に、
- 此の御酒は、わが御酒ならず、奇の首長、常世に坐す、石立たす、少名御神の、神寿、寿くるほし、豊寿、寿もとほし、献り来し、御酒ぞ、涸さず飲せ、さゝ。
と酒祝いして、応神帝に献りしとき、武内宿禰が帝の御為めに答え奉りし歌に、
- 此の御酒を、醸みけむ人は、其の鼓、臼に立てゝ、歌ひつゝ、醸みけれかも、舞ひつゝ、醸みけれかも、此の御酒の、御酒の、妙に、転楽し、さゝ。
とあるので、その事がよく知られるのである。
こうした祝言は、吉を好み、凶を嫌う人情と共に発達して、後には此の祝言を言いたてて渡世する「祝言人」なる者を生む様になった。「万葉集」巻十六に載せてある長歌二首は、是等の徒が謡うたものである〔四〕。而して此の祝言は、神道が固定すると共に祝詞に取り入れられて、遂に祝詞の中心思想をなすに至ったのである。大殿祭の一節に、
- 皇御孫命の天の御翳日の御翳と、造り仕へ奉れる瑞の御殿を、汝屋船命に天つ奇護言を持ちて、言寿ぎ鎮め白さん。これの敷坐す大宮地は、底つ磐根の極み、下つ綱根這ふ虫の禍なく、高天原は青雲の靄く極み、天の血垂り飛ぶ鳥の禍なく、掘り堅めたる柱桁梁戸牖の錯む動き鳴ることなく、引結べる葛目の緩び、取葺ける草の噪ぎなく、御床の辺の喧ぎ、夜目のいすゞきいづつしことなく、平けく安らけく護り奉る。
とあるのや、広瀬大忌祭の一節に、
- かく奉るうづの幣帛を、安幣帛の足幣帛と、皇神の御心平けく安けらく聞しめして、天御孫命の長御膳の遠御膳と、赤丹のほに聞しめさむ、皇神の御刀代を始めて、親王等王臣等、天が下の公民の、取り作る奥つ御歲は、手肱に水沬画き垂り、向股に泥画き寄せて、取り作らむ奥つ御歲を、八束穗に皇神の成し幸へ賜はゞ、初穗は汁にも頴にも、千稲八千稲に引き据ゑて、横山の如打積み置きて、秋の祭に奉らむ。
とあるなど、祝詞は祝言の連続とも言うべきまでに修正されてしまったのである。
二 呪文より呪言へ
呪言と云うも、呪文と云うも、それは文字上の差別で、その内容にあって殆ど共通しているのであるが、私は便宜上これを二つに分けて、言句の短きものを呪言とし、やや長きものを呪文として見たのであるが、それが極めて非学問的であることは、私も認めている。取捨は元より読者の自由である。而してこれには、種々たる固有名詞があるので、それに従って左に挙げるとした。
トゴヒ
古く「詛」をトゴヒと訓ませているので之に従うが、その意は己れの憎しと思う者を凶言して、禍あらしむるよう行う術である。「日本書紀」神代巻に、天稚彦が天津神の使なる雉を射殺せし矢が天津神の所に至りしとき、
- 天神その矢を見たまひて曰く、これ昔我が天稚彦に賜ひし矢なり。今何の故に来たると宣ひて、乃ち矢を取りて呪ひ曰く、若し悪き心を以て射ば、則ち天稚彦は必ず遭害れなん(中略)。因て還し投てたまふ。即ち其の矢落ち下りて、天稚彦の高胸に中りぬ。因て以て立どころに死しぬ。
とあり、更に「古事記」には、此の事を叙して、天神が『若し邪き心しあらば、天若日子、此の矢に禍れと宣りたまひき』云々とある。即ち此の「禍れ」と宣られたことが、トゴヒなのである。同じ「日本書紀」神代巻に、天孫瓊々杵尊が、大山祇命の姉女磐長媛を斥けて、妹女木花開耶媛を召されしとき、
- かれ、磐長媛大に慙ぢて詛ひて曰く、假令、天孫、妾を斥けたまはで御さましかば、生めらむ児、寿永きこと、磐石常存の如ならまし、今既に然らず、唯弟のみ独り御せり、かれその生めらん児、必ず木の花の如に移り落ちなん。
とあるのも、又それである。更に同じ神代巻の一書に、火々出見尊が、兄火酢芹尊と、海幸山幸とを易えて鈎を失い、海宮に至りてその鈎を獲たとき、海神の尊に教えて、
- 鈎を以て汝の兄に与へたまはん時に、則ち詛ひ言はまく、貧窮の本、飢饉の始、困苦の根とのたまひて、而して後に与へたまへ。
とあるのも、よく呪言の本質を説明している。それから「雄略紀」冬十月の條に、御馬ノ皇子が三輪ノ磐井の側で戦って捉われ、刑に臨んで、
- 指井而詛曰、此水者百姓唯得飲矣。
とあるのや、「武烈紀」冬十一月の條に、
- 真鳥大臣恨事不済、知身難免、計窮望絶、広指塩詛、遂被殺戮、及其子弟詛時、唯忘角鹿海塩、不以為詛、由之角鹿之塩、為天皇所食、余海之塩、為天皇所忌。
とあるなど〔五〕、咸なトゴヒの例として見るべきものである。
ノロヒ
伴信友翁は、ノロヒに定義を下して、『ノロヒとは怨みある人に禍を負ふせむと、深く一向に念ひつめてものする所為と聞こゆ』となし、更にトゴヒとノロヒの区別を説いて『トゴヒは言霊によりてする術、ノロヒは言うに云はず、念ひつめてものするなり』としている〔六〕。よく我が古代の呪術の本質を盡しているものと思う。而してノロヒの方法に就いては、「日本書紀」神代巻の一書に、
- 日神、新嘗きこしめす時に及至りて、素戔嗚尊則ち新宮の御席の下に於て、陰に自ら送糞る。日神知ろしめさずして、径に席の上に坐たまふ。是に由て日神体挙りて不平みたまふ。
とあるのに対し、「釈日本紀」巻七に公望の私記を引いて、
- 凡欲詛人之時、必有送糞其坐、若染其糞者、必有憂病、故日神染糞有病、若是古代之遺法也、今代人之欲詛人者、亦有放失者、倣此耳。
とあるのが、その徴証であるが〔七〕、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。「神功紀」四十七年夏四月の條に、百済の使久氏等が、我国に来る途中にて、新羅に捕われし事を記して、
- 新羅人捕臣等、禁囹圄、経三月而欲殺、時久氏等向天而呪詛之、新羅人怖其呪詛、而不殺。
とある。これは、言うまでもなく、百済のノロヒの事を記したものであるが、その方法なり、内容なりにおいては、古く我国と共通したものがあったので、かく載せたものと考えられるのである。
カジリ
カジリと、トゴヒとは、殆んど同義のものであって、僅にその呪術の程度によって、差別するほどのものである。而して両者を形式の上より区分すれば、カジリの場合は、何か物実を置き、それへ呪力を憑依せしめるものであるのに反して、トゴヒは既述の如く、専ら言霊の活用により呪術を行い、必ずしも物実を要さぬ点が両者の相違である。
「神武紀」戌午年秋九月の條に、
- 天皇悪之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土、以造天平瓮八十枚、幷造厳瓮而敬天神地祇、亦為厳呪詛、如此則虜自平伏(中略)。祭天神地祇、則於菟田川原朝原、譬如水沬而有所呪著也。
とあるのは、よくその事象を現わしている。而してカジリに就いて、伴信友翁は、
- 武藏の或る田舎人、山伏の憑術行て、口よせと云う事をせる由を話せる詞に、憑に立たる人に、生霊を「かじりつけて」云々。その「かじりつかれたる」人は云々といへり。又そが平常の詞に、人に対ひて只管に念ひ入たる事を言ふとて、かじりつきて云々すべいと云ひ、又た硬き物喰ふを「カジル」とも「カジリツク」とも云ひて、同詞の遣ひざまに言へり。思い合せて言の意を知るべし。
と説かれたのは、極めて要領を得たものである〔八〕。それから、「欽明紀」二十三年六月の條に、
- 是月或有譖馬飼首歌依(中略)。即収附廷尉、鞠問極切、馬飼首歌依乃揚言誓曰、虚也、非実、若是実者、必被天灾、遂困苦間伏地而死、死未経時、急灾於殿、収縛其子守石与中賴氷、将投火中、呪曰、非吾手投、呪訖欲投火、守石之母祈請曰、投児火裏、火灾果臻、請付祝人使作神奴。
と見えている。此の記事には、文字の脱落が二ヶ所ほどあって、事由を解するに苦しむところがあるも、茲には歌依がカジリをしたと云うことだけが確実であれば、その他は姑らく措くとするも差支ないと考えたので、敢えて抄録した次第である。
ウケヒ
谷川士清翁は、ウケヒの意義に就いて、
- 日本紀に誓約ノ字、誓ノ字、祈ノ字、などを訓めり、又盟をうかうとよむも同じ。請言の義いのりちかふ事をいへり。源氏物語のこき殿などのうけはしげにのたまふと云ひ、伊勢物語に罪なき人をうけへはと云へるは詛ふ方に云へり。よて真名本に呪詛と塡たり。古事記にも宇氣比死と見えたり。
と言うているが〔九〕、これでウケヒの本質を知ることが出来る。而してウケヒの実例にあっては、「崇神紀」十年七月の武埴安彦が、謀反の條に、
- 天皇(中略)。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛密来之、取倭香山土裏領巾頭祈曰、是倭国之物実則反之、是以知有事焉。
とある。此の外にも、記・紀に載するところ尠くない。「万葉集」巻四、大伴家持の歌に『都路を遠みや妹が此頃は、誓約ひて寢れど夢に見え来ぬ』とあり、更に誓い狩、又は誓い釣とて、神意を占うために或は獣を狩り、或は魚を釣ることなども行われた〔一〇〕。殊に神功皇后が征韓に際し伊覩縣に到りしとき「適当皇后之開胎、皇后則取石挿腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土」とあるのは、ウケヒが一種の呪術として用いられた例証である。
オヨヅレゴト
神武紀にある「諷歌倒語」の意義に就いては、古くから国学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬほどの難問であるが〔一一〕、私は飯田武郷翁が此の語の細註に『万葉集に、狂言香逆言哉云々。とある逆言を、古くサカシマコトと訓り。この逆言はオヨヅレゴトと訓べきよし先達云はれたる、さることなり』とあるを論拠として〔一二〕、諷歌倒語は即ちオヨヅレゴトの当て字と断定する者である。而してこれの用例は「天智紀」九年春正月の條に『禁断誣妄妖偽』と載せ、「天武紀」には『妖言』と見えている。「万葉集」巻三石田王の挽歌の一節に『妖言か吾が聞きつる、狂言か我が聞きつるも』とあり、同集巻一七に長逝せる弟を哀傷しむ長歌の一節に『玉梓の使の来れば、嬉しみと吾が待ち問ふに、妖言の狂言かも』とあるのは、共に此の語の呪言としての内容を考えさせるものがある。私は神武紀の諷歌倒語は、かの流言蜚語の意とは全く趣きを異にし、呪言とあるべき(殊更に語を倒まにする事もある)を斯く記したものと信じている。
此の一部の擱筆に際し、特に言うて置かねばならぬ事は、以上に列挙した呪言なり、呪文なり、又は祝詞なりは、必ずしも巫女に限り用いたもので無いと云う点である。否、此の反対に文献の示すところによれば、巫女よりは覡男が却って多く用いていたことを証明しているのである。従って此の一節は厳格なる意味から言えば、巫女史の埒外を越えた点が尠くないのであって、広義の呪術史の一節たるが如き観を呈するに至った。
併しながら、巫女が覡男に先だって発生し、後世まで巫覡と並び立っていたことは事実であるので、これ等の呪言や、呪文や、祝詞なども、その始めにあっては、巫女が創作して、覡男が後唱したものかも知れぬのである。且つ如上の呪言や、呪文、その他の一々に就いて言うも、どれが巫女の唱えたもので、どれが覡男が唱えたものか、その区別は、今日からは到底知ることが出来ぬので、姑らく併せ掲ぐることとしたのである。万一の誤解を虞れて、此の事を附記する次第である。
- 〔註一〕
- 「明月記」にその事が詳記してある。カードを探したが見当らぬので、記憶のままで記した。
- 〔註二〕
- 白鵠は「垂仁記」にある曙立王の故事であって、それが呪術的であることは、言うまでもない。更に「おち水」とは、天上の霊水を飲めば、精神も肉体も更新するという信仰から来たもので、典拠は「旧事本紀」に載せてある。現行の正月の若水は、此の信仰の名残りをとどめたもので、折口信夫著の「古代研究」民俗篇第一冊「若水の話」に詳述してある。参照を望む。
- 〔註三〕
- 兆とは太占のマチのことで、五百篁生ひ出でむとは、既述した諾尊が精霊を逐うときに櫛を投じたら筍になったという故事を寓したものである。此の祝詞が呪術的意味を多大に含んでいることは、此の一事でも知れるのである。
- 〔註四〕
- 折口信夫氏の研究によれば、元来「祝言」なるものは、神々が民人を祝福したことに始まるもので、従って後世の「祝言人」なるものは、神々の代理として民人に蒞んだものだと云うことである。後世の千秋万歳、大黒舞などを始め、民間行事の奥州のカワハギ、山陰のホトゝゝなどは、悉く此の信仰を残しているものである。
- 〔註五〕
- 此の紀の詛を、一般にはノロフと訓んでいるが、私は伴信友翁の「方術源論」に従い、トゴヒと訓むこととした。
- 〔註六〕
- 伴信友翁の「方術源論」にある。猶お此の機会に言うて置くが、私の此の一節は専ら伴翁の「方術源論」に拠り説を試みたものである。茲にその事を記して、伴翁の学恩を深く感謝する次第である。
- 〔註七〕
- 誠に比倫を失うことではあるが、今に盗賊が家に忍び込むとき糞まるのは、此の呪術の一片を伝えたものと想われる。民俗の源流の遠き、学問に志す者の注意すべきことである。
- 〔註八〕
- 同上の「方術源論」。
- 〔註九〕
- 「増補語林倭訓栞」その條。
- 〔註一〇〕
- 「うけひ狩」も「うけひ釣」も、共に「神功紀」に載せてある。これに就いては、後章「巫女と狩猟」の項に全文を引用する機会があろうと思うので、今は省略に従うにした。
- 〔註一一〕
- 伴信友翁の「比古婆衣」を始め、各書に見えているが、茲には煩を厭うて一々の書名は預るとした。
- 〔註一二〕
- 飯田武郷翁の「日本書紀通釈」の其の條。