春来る鬼
まれびと
「なもみ」の面を中心として、\bou{まれ}人神——(客神)——のお話をして見たいと思います。
古代日本人の考えをつきつめてゆくと、私の申す所の\bou{まれ}人というのは、終始海から来ているのです。そ れが、だんだん平地の生活、或は山の生活、又は村落の生活が始まって来ると、山からおりてくる山男・山 姥、ひっくるめて言うと、「山人」が考え出されて来ました。所が、尚、それにも拘らず、海岸地方では、 海から来る信仰が厚かったのです。伝説などを見ても、海から神が来なければ、まとまりのつかない話が多 いのです。中でも、我々が興味を持っている山椒大夫の物語には、その色々な要素が寄っているのです。そ の中で、一番中心になっているのは、丹波国由良の港という土地に、根をおろしたらしく見えている点です。 所が度々お話して来ました様に、近代の唱導文学、一口には、説話文学というものには、中心点が必ず二个 所あります。其は——近頃訣った事ですが——物語の発生した土地と、物語の根をおろした土地とでありま す。例えば、苅萱道心の物語は、中心が三つあります。つまり、筑前から出て、高野へもって行かれ、更に 信州の善光寺へおさまった訳ですが、今の所では、高野が出発点になって、信州で終りになっています。併 し、逆に、信州の親子地蔵を説いた所から、高野の話が出来てきた様にも見えるのです。山椒大夫の話でも、 そうでありまして、由良の港ですべて事件の解決がつくように見えますけれど、最初の出発点は奥州で、岩 木山の見える土地の様に思われます。そこに岩木判官という人が居て、早くなくなって、残った奥方と、其 子である姉弟と、それについていた乳母とが、生国を離れて、長の旅に出たことになって居ます。処が、途 中で人買いに遭って、乳母は身投げをして亡くなり、子供二人とお母さんとは別れ別れになり、母は佐渡へ、 子供は由良の港の千軒長者、山椒大夫の手に移ったのです。それで、どうしても、岩木山の信仰が肝腎なの です。この場合は、刈萱其他の話とはまるで違って、何のためにわざわざ岩木山をもって来たか、訣らない のです。千軒長者の話を主として考えて見ますと、訣らない事が多いのですが、それは、一方岩木山の信仰 では、姉と弟と二人が、山に登る争いをして、姉が勝って弟が負け、そして姉が山の神になった、という事 になっていて、姉を安\kana{寿姫}{ノ}、弟を\kana{対王}{ツシオウ}丸を申しています。この話と、千軒長者の話とは、ほとんど関係がな い様に見えます。それだのに、どうして由良の港に、この話がのびて行ったか、不思議なのです。縁も由縁 もない様な、二つの話が、ここに聯絡していることを考えてみますと、由良の港の、千軒長者の唱導文学が 発達して、諸国に分布された後、岩木山の神はこうだ、と説明したのだ、と思われますが、もともと、岩木 山の信仰が宣伝せられてのちに丹\kana{波国}{ノ}でおさまった、という事になるのです。併し統一せられるには、余り に原始的であり、又、不思議な程単純ですが、これが元だ、という事になるのです。例えば、我々が旅行を して、海岸近い山を遠くから見ると、海からずっと浮び出ている山の様に見えます。鳥海山なども、そう見 える山です。山の根元の所では、実際は、海から或距離の平地をへだてて立っているのですが、へだたった 地から見ると、それが海から出ている様に見えるのです。普通、山の信仰は、山の根元でなく、或距離があ って、山を終始目にしている土地から起ります。其処から山へ精進しに登って行くのです。海岸地方ならば、 海の中から生えている、と思われる山が、信仰の対象になる事が多いのです。そんな現象が起るのは、何故 かと申しますと、海から神が出現して来る、という信仰があって、其神は、山の方へ登ってゆく、と信じて いたからなのです。それに就いて、別種の型の信仰があります。それは、対立した神と精霊とが争うことで す。——と言うのは、土地の神と遠来の神とが争う事でありまして、大抵は遠来の神が勝つ事になって居り ますが。——これは、農村や漁村に、きまって行われる年中行事としての芝居に似たものが、繰返されてい る中に、昔の神の物語を形づくって来たのです。それで、この岩木山の話も、山の裾から二人の兄弟が争っ て登った、という事は、海から山へ上ると言う考えがある様です。それで、山を取りあいすると言う事は、 神と精霊との争いの型なのです。古風土記の中、播磨風土記は、殆、此話ばかりと思われる程、土地の争い が書かれています。日本の古い所では、そういう風な型を一つ持っていたのです。これは、外の説明も出来 ましょうが、結局、神及び精霊の争いの印象が、強く働きかけている、と見ればいいので、此を歴史的に見 る事は、無意味な説明になって了うのです。それで、岩木山が海の中から出ている、と見られる地方の人が、 そういう事を考え出して、海から山へ登る神を信じ、そして、小さい神と大きい神と競争して山に登る、と いう風に説明して来たのです。処が、その話自身は、初めから、海からすぐ上って来た、というのでなくて、 海から上って来た神と、山から里へおりて来る神との話があって、この二つの違った神の信仰が一緒になっ て来たのです。この話の中の、山へ登ろうとするのは何の為かと申しますと、それは、\bou{まれ}人は山から来る ものだ、と考えたからであって、二つが結びついて、そういう風の話になって来たのです。
なもみたくり
これを、適切な例をとって言うてみますと、この\bou{なもみたくり}というものの、一つの中心地帯である秋田 の男鹿半島の事ですが、此処は、姿のすぐれた異色のある山が多く、新山、本山、寒風山などがあります。 『真澄遊覧記』の中にも出て居まして、真澄が興味を寄せた一つの中心地なのです。ここには、\bou{なもみたく り}の話が大変に多く、柳田先生の『雪国の春』を見ても、『遊覧記』から\bou{なもみたくり}の記事を、出来るだ けお集めになって居られます。それ位ですから、流石に今行って見ても、此処で所謂「なまはげ」の出る 村々が沢山あります。青年団長の家——若衆宿に、お面が預けてあって、其処から出て行く。鉄道省の案内 記にも、この事は出ている程で、小正月の晩に、若衆がそれぞれ笊に紙をはり、彩ってかぶって行く、とあ ります。これは、村々で違うのでありまして、或村では、笊だが、又或村では、夏に杉の皮を\UTF{525D}がしておい て、冬になるとこれに加工して、正月十五日の晩——農村では一番大事な日——にかぶって出るのです。中 には、紙の面になっている所もあります。面の形は、村々の意匠が加わり加わりして、変って来たのか、又 は毎年毎年お面を変えた為か、一様ではなく、又統一がなくなってしまうて居ます。昨年出た『奥の手風 俗』を見ますと、\bou{なもみたくり}の事を、\bou{かせぎとり}と書いてありますが、\bou{かせ}は\bou{かさ}と同じく、或一種の皮 膚病、子供の\bou{あせも}の様にも考えられます。\bou{かせぎ}もそんなものと思われます。\bou{かせぎとり}は又、\bou{かせとり} とも言うているのです。『奥の手風俗』に出ている図で見ますと、子供が小さな板の上にのせてある様な人 形を持って居て、「かせぎとりが参った」を称えて、家々へ物を乞うて歩く、とありますが、これは、段々 形が変化して来ているのだ、と思われます。併しもっと古めかしい型か、又は、面を忘れた型か訣りません が、普通では、お面で特色を現したのが、人形にまでなって来たのだ、と考えます。
抑、\bou{なもみたくり}というものが、初めて記録として、広く世間に発表されたのは、大正十年頃の朝日新聞 が、各地の行事を記載した時に、奥州には広く若衆が顔に鍋ずみを塗って出て、
- なもみはげたか。はげたかよ
- あずきにえたか。にえたかよ
と呼ばって歩く、と出て居た様に思います。
\bou{なもみ}は、いろりで火だこの出来ているような怠け年寄り、又は、腕白小僧を懲しめに来るものだ、と信 じられています。その形には、お面のもあり、——其お面にも色々種類があります。——又素面に物を塗っ て来るのもあり、又『奥の手風俗』のものの様に、人形のもあって、大体三通りに分けられます。
\bou{なもみ}系統の語は、皆皮膚病を意味する語であって、皮膚に出ている斑点を取りに、或はとがめに来るも の、それを\bou{かせとり}・\bou{なもみたくり}・\bou{なまはげ}というのであって、皆同一類のものなのです。この外に、\bou{も うこ}というている所もあります。この名称には牛が聯想されますが、これは、疑いも無く、春の初めに、農 村にそういうお化けが出て来ました。それを\bou{もうこ}と称したことが、\bou{もくりこくり}の鬼が来る、という語を 生み出したのであります。ちょうど、海から仇をしに来るもの、すなわち、蒙古の襲来の事を考えている様 ですが、\bou{もくりこくり}には、きっと何等かの外の意味があると思われます。これが後には、蒙古と高麗との 鬼が攻めて来る、と考えたのだと思われます。そうなると、やはり子供をおどかすもの、という事になりま す。例えば、\bou{がごぜ}という目に特徴のある鬼、\bou{ももんがあ}という両手を広げて口に特徴のある物、こうした 子供をおどかすものと、一つになってしまったので、もとは、小正月の行事の印象から来て居るものと思わ れます。所が、\bou{もうこ}・\bou{もくりこくり}、という語に就いては、果して\bou{もくりこくり}という語を、\bou{もうこ}とい う一種の鬼から解釈していいかどうか訣りませんが、\bou{かせぎとり}・\bou{なもみたくり}は訣ります。実は皮膚の病 気を意味するものでなく、もっと外の意味であったのが、其聯想から、段々そうなって来たのだとだけは、 少くとも言えるのであります。恐らく、この\bou{なもみ}とか\bou{かせぎ}・\bou{かせ}(\bou{さ})\bou{とり}とかいうのは、やって来る \bou{まれ}人の、特殊な服装から出て来るのではなかろうか、と思われます。
けた
話が目的の一部分ではあるが、細かい所へ入り過ぎたから、もとへ戻して見ます。この男鹿の岬では、神 は海から来る、と考えたのでしょう。そして、その神は、秋田の東南太平山に移るもの、と考えて居たらし いのです。神は平地から山上へ登ると考えたのです、一体この太平山は、修験道の一道場なのです。男鹿・ 太平山に当るところをあげて見ると、能登半島の気多と\kana{石動山}{セキドウサン}で、ここでは、少し形が変って、気多の、神 のいる所へ、神が海から来て、更に、石動山へ移った、と考えて居たらしいのです。気多の神に就いては、 中山さんの『日本民俗学』の中に、「気多神考」が書かれて居ますが、\tundline{にこらい・ねふすきい}さんが、\bou{けた} とは、露語で鮭を言う、と言うたところから\tundline{ひんと}を得て、中山さんは、おもしろい体系を作っておられま す。私の考えは不幸ながら此親友とは別途にあります。\bou{けた}とは、水の上に渡した棒で、橋の一種であると は言えますが、橋ではないので、間のあいている渡し木なのです。同時に又、未だにその意味を失わずに居 ります。\bou{けた}はもう少し形が変れば、\bou{たな}——海岸や水中に突出したもの——と同じ形になるのであって、 ともかく、海から陸地へつなぐもので、何も土地と土地とをつなぐものではなく、それを通らねば陸地に上 れない、と考えられて居ました。これが\bou{けた}なので、皆水に関係のあるものなのです。湯桁なんかを考えて も、又井桁でも、水に関係のあるものだと思われます。神は海からすぐ上るのではなく、一種の足溜りを通 って上ったらしいのです。それが、\bou{けた}という土地が、日本の海岸地方に分布しており、又、古い信仰が残 っている理由なのです。\bou{けた}という所は、海から陸地へ上る足溜りですから、その土地が、同時に\bou{けた}と言 われます。陸へ上ってから、もう一つ山に登らねばならぬので、石動山を考えたのです。三十年ほど前まで は、石動山——修験の中本山——から、気多の祭りの時に、山伏が下りて来て、斧をふって舞う行事があっ たそうです。これは、一个所でいいのですが、延長してもう一个所考えてみたのです。
遠来の神
この海から来る神の信仰は、至る所に行われていますが、変っているのは、伊豆七島、殆、全般に行われ ている所の、悪い事をして殺された者が、盆に出て来て、海岸の村を脅やかす、という信仰であります。此 は、既に藤木喜久麿さんの報告もありました。村人の考えでは、うら盆や、又は大晦日の晩に、海に出る船 幽霊と同性質を持っているのです。
これと\bou{なもみたくり}との間には、段々の過程がありますが、話を少し形の変ったものにしてみると、台湾 の首狩りの風習ですが、この事柄も、結局は、\bou{まれ}人を神に祭る風習から起っているらしく、他処から来る 神をこしらえる風習らしいのです。その風習の印象が、台湾に残っていて、段々衰えたのは、清朝の役人が、 この風習を止めさせるために、自分自ら殺されてしまって、その人が祭られるようになった、と言っていま す。これは、遠い所から来る神を祭る信仰であって、stranger が神そのものである、という事を忘れて、 首を切ったのであります。日本で申しても、名古屋辺りにも、祭りに、旅人を捕えていじめる風習が処々残 っています様に、こんなにまで変化していますが、それは、先ず預っておいて、例えば、もっと古い所を考 えても、信濃国安曇郡は、海人の出た所で、少くとも、海部の民の開いた土地に違いなく、でないまでも、 海部のもっている信仰を、持って来た人の、開いた土地なのです。それは、北陸の海から、おそらく、姫川 を溯って這入って来たものと思われますが、即、海から山へ這入って来ているのです。これは、神の資格が 定まる、というような考えから出るのです。一方では、山から海へ帰る、という様な考えを抱いて来ます。 信州の話では、歴史と民間の信仰とが一緒になっていますが、地方によれば、山から海へ戻って行った、と いう事になっているのもあります。その外、平地の行事が終ると、山へ入るとも考えたのです。山の神と田 の神とは、時期によって交代します。それで、冬は——秋の末から春の初めの間——山へ登って行き、その 他の時期は、里へ下って、河童になっている、と考えたのです。山と海とを、こんな風に考えるのは、古い 信仰の名残りなのです。
話が、飛び飛びになりましたが、沖縄では、終始、\bou{おとおし}という事を申します。\bou{とおす}というのは、通 拝する事であって、この土地から向うへかけておがむ、という事なのでしょう。その通拝所の著しいのは、 海岸であって、大きな霊地では、海岸に島があって、其処から神が来る、と考えたのです。島のない所では、 岬を考えています。沖縄の国頭郡の\Kana{今,帰,仁}{ナ,キ,ジン}という所にも、海中に島があり、其処を遥拝するのを、\bou{大事の一 つ}として居ます。或は、先島列島にも、これが多く、離れ島——或土地のものだと考えている——を、\bou{はな れ}といいます。\bou{はなれ}というものには、終始、この遥拝の信仰が伴っていて、稀には、其処に兇悪な鬼の様 なもの、又、すぐれた者がいて、島を苦しめた、という事もあります。島の無い所では、これにあたるのは 岬ですが、沖縄本島で一番大事な所は、北——やまと——の方を向いた所であって、神が北(多くの場合は 東、又稀には西)から来ると考えました。\bou{あがり}の大主は、東方の主神、という事です。これが一転して、 北から stranger が来る、とも考えられて来たのです。沖縄人は、北が口で南が尾、と考え、国頭・中頭・ 島尻、という順に考えています。そして、北を\bou{やまと}、と考えていました。ここでは、国頭の\kana{辺土}{ヘド}の岬が遥 拝所であって、宮廷の大祭のある時には、辺土の岬に、\Kana{涼傘}{リャンサン}という傘が立ちます。この下に神がいる、と いう意味らしいのです。日本なら\bou{きぬ}笠の様なもので、傘が何本も立つという事になりますが、辺土の\Kana{御,嶽}{ウ,タキ} ——神のおりる所が\bou{うたき}である——に涼傘が立って、祭りが始まり、其処を神が初めて足溜りとして来る のです。\Kana{久,高}{ク,タカ}島という島は、首里から平地が一里海が三里の島ですが、知念は久高島の遥拝所になっていま して、我が国に於ける伊勢の斎宮にあたる首里王家の、現今でも、\kana{聞得}{チフィジン}大君\Kana{御,殿}{ウ,ドン}が——初めて聞得大君に なった最初の年の春——\kana{斎場}{サイファ}御嶽という霊地へ行き、それから久高島へ参り、又斎場へ帰ってそれから又首 里へもどって、聞得大君御殿に入り、初めて聞得大君の資格を得るのであります。\bou{おあらふり}と言うのは、 日本の語で言えば、\bou{新あもり}であって、これは順序が逆で、海の向うから出て首里へ這入るので、実は、\Kana{弁,% 御,嶽}{カオ,ウ,タキ}に鎮まる形になるのでしょう。そして、聞得大君御殿におさまってしまいます。処がその形がみだれた のは、首里を出て久高へ行く行事が大事なものだから、それだけが重くなって、帰りの行事が簡単になった のです。外に、村々の神女(\kana{君々}{キミキミ}、\bou{祝々})が神となって現われるのもあり、\bou{あらふり}といって、海岸或は海 の中に現われたりする事もあるのです。
そういう風に、海から出て来る神は、まず海岸の一所——\bou{けた}という語を用いたいと思います——\bou{けた}へ 飛び上り、その\bou{けた}から陸に上るのですが、\bou{けた}が延長されて、その陸地が\bou{けた}になり、其処から、更に山 にのぼって行くのです。もっと古い形を考えてみますと、海から海岸の村々へ出て来ることだけですむので す。その時に、村の家々を訪問する形もあろうし、村人を一个所に集めて、村人に接する事もありましょう、 総て一様ではありますまい。が、近代の我々の村々では、家々が同格でありますが、古くは小さい家が認め られず、大きな家一軒へ行けば全部へ行ったと同じことだったのです。が、これがくずれて戸別に行く様に なったのです。
神のおとずれ
処で、古い時代に、村々の大衆を神が訪れます事は、村を訪れる事と同一の意味を持ったのですが、神の 来た合図は、と申しますと、先ず、咳ばらいに似た\bou{こわづくろい}をし、戸をほとほと叩いたらしいのです。 節分の晩に、ほとほとと戸をたたいて祝福に来るのを、鳥取地方では、\tundline{ほとほと}と言って居ますが、此処に 神が居る、という報せなのであって、戸をたたかずに、声をかける事もあります。併し、いずれも、文章で はなく、短い詞なのです。日本の古い語では、「こわづくろう」というのが、神のかけ声になって居ります が、この詞は宮廷では、おしおしというて居られましたのが、近世民話では、いろいろ分れて、違った名称 で残って居りました。それが、同時に、神の名になったのです。宮中で、天皇陛下の御先祖が、天から下り て来られた時には、\kana{天圧}{アメノオシ}神と申します。
その音が、「こわづくろう」でありまして、後世にはかけ声となり、そして\bou{おとずる}、\bou{おとなう}という風 になって参りました。「\kana{訪}{オト}ずるる」という連体形が最、行われますが、\bou{おとなう}・\bou{おとずる}とは、音を立て ることで、此は訪問を意味します。つまり、神来臨の合図なのです。
日本の、天子の祭りの場合は、来られる神も天子ですから、どういう風になって居りましたか訣りません が、訪う時には、門迄の時もあり、家迄這入る時もあり、又は庭だけの場合もあって、一様でなく、正式と 略式とがあったのです。
処が、其場合何しに来るのかと申しますと、家・土地の精霊と約束を切りかえに来るのが、一番重い意味 らしかったのです。それが、家・土地の精霊と約束を切り換えに来ると同時に、約束をします。その約束は、 昔から定っている家を守り、主人を栄えさせ、土地を繁昌させる事にきまって居ます。日本では、田の実り に対して、特別の信仰を持って居ますので、土地の祝福\bou{ことほぎ}という方へ、どうしても傾いて来るのです。 \bou{ことほぎ}とは、普通\bou{ほかい}といいますが、特殊の用語例を持って居まして、演劇や舞踊に伴って居るらしい のです。此は、神と精霊と対立している形を、常にもっているのです。
小正月・節分・大晦日の晩に出て来る者が、鬼の形をして居ますが、これは、\bou{まれ}人と精霊との形を混乱 させて、特殊の形を取って居た、と私も以前は思って居ましたが、一体、\bou{まれ}人自身が神を意味しないで、 他所から渡って来る、一種の変ったものであって、此土地に同情を持って居ればよろしいので、家や土地を 祝福する事は、第二段に起ってくる事であります。それと同時に、一方には、意味が分化して、「裁き」や 「懲罰」をしたり致します。それが、だんだん変って参りまして、悪口を言ったりこらしめたりする様な行 事が起り、それが転じて、主人の悪態をつく風習を生じて、拡まったのです。これは、つまり、\bou{ことほぎ}が 将来を祝福する事でありますから、今年はしっかりやって貰わねば困る、という意味で、悪態をついたり、 こらしめたりする様になったのであります。
我々の国では、存外にこやかな表情を持った\bou{まれ}人を考える事が少かったので、いつも\bou{まれ}人が怒った話 が多いのです。所が\bou{まれ}人の善い方面——祝福——は、段々発達して、福の神の信仰が発生して参りました。
福の神などというものも、其代表者としての\bou{えびす}神を考えて見ましても、語自身\bou{まれ}人という事にすぎ ないのです。恐しい外来の\bou{まれ}人のことで、\bou{あらえびす}といわれて居る事もあります。\bou{あらえびす}と申しま すのは、西宮地方では、沖の御前という所があって、そこに\kana{一休}{ヒトヤス}みなさる\bou{えびす}さんだ、と考えられて居ま した。狂言の石神を見ましても、亭主と喧嘩した女が、石神に参って舞う小唄に、
- 遥かの沖にも、石はあるもの。えびすの御前のこしかけの石
と唄います。西の宮が蛭子であるかないかは別として、女神にもそうしたのがある、\kana{淡}{アワ}島がそれです。女の \bou{まれ}人であって、極端に巫女の勢力のあった時代には、女の\bou{まれ}人も来たことが考えられます。其代表的な ものに、筑前宗像の神があります。これは、到る処に分布されて居ますが、それのわけは、同じ信仰があれ ば、宗像神に習合し合理化させられるのであります。沖縄の弁个嶽・久米島・八重山にも、やっぱりこの 神々があります。宗像では、沖つ宮・なかつ宮・へつ宮と、三つに分れて居ります。この神の三体という事 は、動かぬでしょうが、この三つの宮は、神の飛び石、つまり、一種の\bou{けた}なのです。我々は、\bou{えびす}を海 の神と思っていますが、この神が来た時に、海岸で気がすめば、そのまま帰られる筈であるが、時あっては、 山国にも祭られて居るのです。叡山には、ちゃんと\bou{えびす}神が祭られて居ます。又、山国の農村にも、\bou{えび す}を祀って居る所が多いのです。我々は\bou{えびす}神を海の神と思って居ますのに、叡山の様な山の奥にもある 事は、ちょっと解しかねる事なのです。これは、\bou{なもみ}の話と遠くなった様ですけれども、やはり\bou{なもみ}と 関係を付けて見なければ、結局訣らない事と思われるのです。而も此\bou{なもみ}なる語が、私の次に話して下さ る牧野先生の領分の植物の上にも、関係のあるのは、不思議な御縁だと考えます。
(折口信夫『春来る鬼』)