日本巫女史/第一篇/第八章/第一節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第八章 物質文化に於ける巫女の職務

第一節 戦争に於ける巫女

平安朝における宮廷歌人の一頭目とも見るべき藤原為家の歌に、『胡沙吹かば曇りもぞする陸奥の、蝦夷には見せじ秋の夜の月。』というのがある。従来、此の短歌は蝦夷人の用いる楽器(胡沙笛)であって、此れを吹奏すると悲調は秋の夜の明月すら曇らせるという意味に解釈されて来たのである〔一〕。勿論、居ながらにして名所を知るほどの宮廷歌人、胡沙のことも、蝦夷のことも、全くの耳学問であって、異郷の風物の珍らしさに作歌したまでであるから、事実と遠ざかっているのは無理もないことではあるが、それにしても随分と思いきった間違いを詠じて得意がっていたものである。然らばその胡沙なるものの正体は何かというに、金田一京助氏の研究によると、蝦夷と言われたアイヌ族の間には、胡沙と名づける楽器もなく、従ってこれを吹奏すれば、明月も曇るというような伝説もない。然るに、アイヌ族の民俗として、男子が他部落の男子と戦争する際には、各部落の女子は後陣に出で立ち並び、一種の呪術として口々から吐息して敵陣に吹きかける。そしてアイヌ語で息のことをプサ(HUSA)と云っているが、恐らく為家は此のプサを聽き違い、支那に胡笳と称する角笛のあることを想い合せて、かかる作歌を試みたのであろうと考証されている〔二〕。而して更に、金田一氏は「諏訪大明神絵詞」を引用して、此のアイヌの女子が戦陣に臨むことに就いて、左の如く言われている。


(上略。)此中に公超霧をなす術を伝え、公遠隠形の道を得たる類しあり。(金田一氏曰。これ中古以来の伝説にて、所謂胡沙吹くということの修辞的発想。)戦場に臨(む)時は、丈夫は甲冑弓矢を帯して前陣に進(み)、婦人は後塵に随て木を削て幣帛のごとく(同氏曰。アイヌの所謂イナウこれなり。)にして、天に向て誦呪の体(?)なり〔三〕云々。
註。アイヌの戦陣の法、男子は弓矢を帯して前陣に進めば、女子は後塵に随て何か手に手草を取りてHUSA!HUSA!誦呪の体なる事、アイヌの生活を通して、見るが如くに想像し得ることである。大軍のいくさではないが、蝦夷島奇観の畫図の中にウラカという決闘の絵があるが、やはり女子がタクサを取りて背後にHUSA!HUSA!をやってるいる所が畫いてある。アイヌの敍事詩の中にもそういう状景が常に出て来る。(以上、「アイヌの研究」に拠る。)

金田一氏は、此の所作をするアイヌの女子が、巫女であるか否かに就いては説明されていぬが、私の考える所では、其の古いところに溯れば、必ずや巫女(アイヌではツスという。)がその任に当った事と信じたい。従って諏訪大明神絵詞に現われた頃になれば、巫女の仕事でなくして、普通の女子の遣る事になっていたのであろうが、それにしても誦呪する時だけは、全く巫女の心持になって、一方には敵兵を詛い、一方には味方を勵ましたものと見て差支ないようである。而して戦争に巫女が従ったことは、琉球においては、明確にこれを伝えている。伊波普猷氏は「おもろさうし選釈」二九、「きこへ大ぎみがさやはだけおれわちへがふし」の末節において、左の如く述べている。

尚真王の時、八重山征伐のあったことは、百浦添欄干之銘にも見えているが、「女官御双紙」に、この時久米島の君南風[キミハエ](中山曰、同地ノロの名で、內地の巫女と同じ。)が従軍して功を立てたことが書いてある。
琉球より申の方に当りて御ちさやうの島あり、島名をば八重山島という。本は帝王(中山曰。琉球王。)に従いけるが、心変りつるに因りて、弘治十三庚申の年討手を御遣し給う。其時首里の御神託言はせ給ひけるは、久米島の君南風わたり給はば、彼島の神もなびきなん。神なびきなば、人はおのずから降参すべしとの賜う。君南風承りて、彼島にわたり給えば、数多の人いくさの支度をして出むかうによりて、陸へよるべきやうもなかりけり。其時筏を浮べ、其上に炬を多くつむ。(中略。)彼島の君真物(原註。島の守護神。)君南風へ迎いなびき給うによりて、人は自ら降参す云々。
当時の人はこの時戦争に勝ったのは、君南風の祈祷が与って力が有ると信じていた。
実際船艦中の大ころ等(タ)、もりやゑ子等(タ)はこの女傑のオタカベ(原註。祝詞。)に鼓舞されたのであろう云々。

猶お伊波氏は、同書一二「あおりやつがふし」の条において、『尚巴志(セダカマモン)は武力を以て鳴った名称であるけれども、当時は魔術(マヂック)が武力に劣らないものであると信ぜられていたから、当時の習慣に従い、物知人(モノシリビト)(中山曰巫覡の意。)を戦魁として、悪霊を払わせながら、進軍したのであろう。琉球俚諺に「女や戰魁」というのが有る。(中略。)祭政一致時代には、何処の国でも、女子は神によって一種不可思議な力を附与されて、予言する力や魔術を行う力を持っていると考えられていた。』云々と述べられている。

かく我国の南北両端の民族は、戦争に巫女の従うことを伝えているが、さて中央なる内地にあっては、果してどうであったか。私の記述は愈々これから本問に入るのである。而して我国における戦争と巫女の関係は、相当に複雑を極めているので、理解を容易ならしむるために、数項に分けて記述することとした。


一 物部氏と巫女の関係

武士のことを「もののふ」と称したのは、これ等の者が物部氏に従属していたためで、「もののふ」は物部の転訛であることは明白である。「倭訓栞」に『もののふ、物ノ部と書けり、もののべともいう。(中略。)神武帝東征し給いし時、饒速日ノ命を以て、内物部を率いて武威を示させたまいしより物部氏の任となれるを以て、後世に至っても武士を専ら物のふと云えるなり。』とあるのは、極めて穏健な考証であって、然も物部氏と武士との関係を簡明に説示したものである。

然らば、問題は更に溯って、(一)何故に物部氏が斯く武士を統率したのであるか、それと同時に、(二)物部とは抑抑何事を意味しているのであるかに就いて、解説を試みねばならぬ。而して(一)の、物部氏が武士の棟樑と仰がるるに至りし事情に関しては『旧事本紀』巻五天孫本紀の弟宇摩志麻治命の条に、大略左の如く記されている。

弟宇摩志麻治命。【(上略。)亦云可美真手命】
(上略)磐余彦尊、【○神武帝】欲馭天下、興師東征。(中略)中州豪雄長髓彦,本推饒速日尊兒宇摩志麻治命為君奉焉。(中略)遂勒兵距之、天孫軍連戰不能戡也、于時宇摩志麻治命不從舅【○長髓彦】謀、誅殺佷戾、率衆帰順之、時天孫詔宇摩志麻治命曰(中略)。朕嘉其忠節、特加褒寵、授以神劍,答其大勳。(中略。)復宇摩志麻治命率天ノ物部、而剪夷荒逆、亦帥軍平定海内而奏也(中略)。天皇定功行賞、詔宇摩志麻治命曰、汝之勳功矣、念惟大功也、公之忠節焉、思惟至忠矣(中略)。自今已後,生々世々子々孫々八十連綿,必胤此職,永為亀鏡矣云々。(以上。国史大系本。)

これに由って、物部氏の発祥と、同氏が武士を統率するに至った理由は、略ぼ会得されたことと思うが、更に(二)の物部と称する語原の解釈にあっては、一代の碩学と言われた本居宣長翁すら「古事記伝」巻十九において『母能能布と云は、名義は未だ考え得ず。』と兜をぬいだほどの難問題であったが、平田篤胤翁が其の著「玉手繦」において、『物とは神なり。』という、彼として誠に珍らしい卓見を唱え、更に鈴木重胤翁によって、此の説が大成されるに至ったのである。鈴木翁は「延喜式祝詞講義」巻七竜田風神祭の「百能物知人」の条において、概略左の如き記述をなしている。

百能物知人(中略)。師説【○篤胤翁】に「物知り人とは、太兆の卜事を行う人と云称なる事明かなり。凡て物と云称は万に泛く亘る中に、神祇を指て云事常に多し、そは御門祭詞に、四方四角與利疏備荒備來武天能禍麻我都比登云神乃云々。自上往波上乎護利自下往波下乎護利と有る此同事を、祈年【御門祭】詞に疏夫留物能自下往者下乎守、自上往者上乎守と(中略)、云へるを対思う可し。
(原註。)御門祭詞には神と云えるを、祈年祭及び道饗祭詞には物と云る者をや。又神代巻に葦原中国之邪鬼とある邪鬼を、私記には安知岐毛乃と訓み、中昔に物気など云う。又物忌、物狂、物の所為、憑物の為なるなど云う物も是にて、此は神と云に同じく泛く云る語なり。今云、大物主神と申す御名の物も(中略)、八十万神を領給う故に大物主神と申せるなり。又万葉集中に鬼字を母能の假字を用いたる所数多あり。
知とは深く遠く思慮の智有て、神の所為の幽りて著明(シル)からぬを知弁る由にて(中略)、俗に物知とは今現に見たる小事を弁變たる程の人をも云えど、そは事知とこそ云うべけれ豈(イカデ)か物知とは云はむ。」と云れたるは然る言なり。
(原註。)但、太兆の卜事を行う人を云と云われたるは当らず、神祇の情状を古伝に徴し、古説に合せて悟り得る偉人を云うなり。卜事は其思慮の至り及ばざるに当て、物為(ス)るなれば却て未なり云々。(以上。皇学館本。但し句読点は私に加えたのである。)


我が古代における「物」とは、即ち神または霊と云う事であって、物部とは是等の神または霊に通ずる母能々布の部曲(カキベ)を指し、物ノ部氏とは此部曲の宗家、または氏上(ウヂノカミ)と云う意味になるのである〔三〕。而してこれを基調として古代の戦争を考えると、古語の戦い(たたかい)は、敲き合いの転訛であるが、更に古語で言い争うことを「口たたく」と云うのがあるところから推すと、腕力を以て敲き合いする以前に、言語を以て口たたかひをするのが、戦いの式例となっていたことが想われる。これは恰も、後世の戦場において、先ず甲乙の両陣から、代表的の勇者が出て、一騎打ちの勝負をしてから、合戦が開かれたのと同じように、言霊(コトダマ)の神の殊寵を蒙り、特に利口弁舌に長じた者(即ち物知り人。)が現われて、互いに「言葉たたかい」をした後に、愈々両方の敲き合いに入る順序と見られるのである。而して此の「言葉たたかい」の任務に当るものが即ち巫女であって、然もその言語は必ずや呪術的の要素を多分に有していたものに相違ない。前に引用した琉球の俚諺に「女は戦魁」とある如く、我国にあっても、巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つことを伝えているのである。

而してそれと是れとは、大に趣きを異にしているが、思い出すままに記すことは、私の郷国である下野国河内郡地方の村落では、明治初年まで、婚姻の夜に、新婦の附添いとして、弁舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立って、新郎の家に赴く。新郎の方でも、同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎えさせるが、その時に先ず聟方の男から「大勢して一体何処(ドコ)から遣(ヤ)って来た?」と問いかけると、嫁の附添い女は直ちに、「若い者に花を遣ろうと思って来た。」と答えるのを序開きとして、ここに猛烈なる言葉たたかいおの場面が展開され、聟方の男はあるかぎりの奇智を絞って、無理難題の問いを発し、これに対して、嫁方の女も精根を尽して巧妙に言いぬける。若し此の「言葉たたかい」に、嫁方の女が負けるようなことがあれば、新婦の一行は実家へ引き帰さなければならぬ村掟となっているので、附添い女の責任の大と、舌力の強さとが思われる。こうした一幕が無事に済むと、今度は婚礼の式に入るのである。

此の民俗は、種々なる示唆に富んでいるが、それを言うと本書の埓外に出るので省略するも、兎に角に此の附添い女の役目こそ、在りし古代戦争における巫女の任務を偲ばせるものがあると信じたので、敢て附記した次第である。


二 戦争の前途を占う巫女

兵は凶器である。これを用うるに、日時を選み、方角を選み、敵を知ると共に、味方を知ることは、古代から行われた戦法であったに相違ない。殊に、神を信ずることが篤く、霊を崇めることの深かった時代にあっては、戦争の前途を占うて、これが万全の策を講ずることは、将帥たる者の特に注意せねばならぬ点であった。前に引用した神武帝が、日神の子孫でありながら、日に向って戦いをするのは良(フサ)わずとされたことや、更に椎根津彦と弟猾とに命じて天香山の土を採らせて戦勝を占うなど、こうした呪術的の信仰は、必ず戦争の度毎に行われたことと想われる。殊に神功皇后の征韓戦は、国家の運命を賭するほどの大事業であっただけに、此の種の神事を幾回となく繰り返して、一方、神霊の加護の愈々厚からんことを祈り、他方、従軍の士気を旺盛に導かれたのである。「神功紀」に載せた左の二条の如きは、その徴証として最も妥当のものと考える。

夏四月(中略)。北到火前国松浦県,而進食於玉島里小河之側、於是皇后勾針、取飯粒為餌、抽取裳糸為緡、登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲求財国、若有成事者、河魚飲鉤、因以挙竿、乃獲細鱗魚云云。
皇后還詣橿日浦、解髪臨海曰、吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征、是以今頭滌海水、若有験者、髪自分為両、即入海洗之、髪自分也、皇后便結分髪而為髻云云。(以上。国史大系本。)

前者は即ち祈狩(ウケヒガリ)の一種であって、後者は即ち毛髪によって、神占を試みたものである。而して共に、戦争の前途を神判した信仰を伝えているのである。此の場合における神后の所作は、前にも述べたように、全く最高位の巫女としての務めであった。されば陣中には、此の種の神事に従うべき巫女を置いて、事毎に或は神祇を祭らせ、或は神意を占わせて常に戦いを有利に展開させることに注意を払った物と考えられるのである。後世の事ではあるが、源義家が天喜中に、岩代国耶麻郡慶徳村大字新宮に熊野神社を勧請し、社前において相撲を試み、戦争の勝敗を占ったとか〔四〕、紀州田辺野の闘鶏神社の別当湛海が、源平両氏より味方に加われと勧誘され、赤鶏を平氏となし、白鶏を源氏として、社前に闘わせ、神意を占うて源氏に味方したとか〔五〕、又は「太平記」巻三十三八幡御託宣事の条に、

此勢を散さで、今一合戦可有かと、諸大将の異見区々なりけるを、直冬朝臣許否凡慮の及ぶ処に非ず、八幡の御宝前にして、御神楽を奏し、託宣の言に付て、軍の吉凶を知るべしとて、様々の奉幣を奉り、渉蘩を勤め、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の聲、きねが袖ふる鈴の音、深け行く月に神さびて、聞人信心を傾けたり。託宣の神子啓白の句言は、巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、「たらちねの親を守りの神なれば、此の手向をば受る物かは」と一首の神歌を、繰り返し繰り返し二三反詠じて、其後御神はあがらせ給いけり云々。

とあるのや、織田信長が桶狹間の戦いのとき、熱田神宮に詣でて、御手洗川に錢を投じて、合戦我に勝利ならば錢面を現わせと占うたことなども〔六〕、咸は此の信仰に基くものであって、古くは陣中における巫女が専ら此の任に当ったものである。猶ほ戦争と神託及び戦争と神官並びに巫女との関係等に就いては、第三篇に記述して、以て此の項の足らぬところを補う考えである。


三 敵兵を呪詛する巫女

『魏志』倭人伝の一節に、

倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡【○帯方郡。】説相攻撃状云々。

とある。之に由ると、 倭国の女王は狗奴国の男王と戦いを交えていた樣であるが、さて此の女王の率いた軍隊は男軍であったろうか、それとも女軍であたろうか。勿論、女王の麾下に属すからとて、その悉くを女軍と見るべき理由は少しも無いが、当時、我国に女軍の在った事を参考すると、必ずしも男軍ばかりだとも想われぬのである。「神武紀」に、

天皇渉彼菟田高倉山之巔、瞻望域中。時国見丘上則有八十梟帥(○原注略)。又於女坂置女軍、男坂置男軍。

とあるように、女子を以て編成した女軍の在ったことが明確に記されている〔七〕。更に「肥前国風土記」杵島郡嬢子山の条に、

同天皇【○景行帝】行幸之時、土蜘蛛八十女、又有此山頂、常捍皇命不肯降服、於茲遣兵掩滅、因曰嬢子山(ハハコヤマ)。

とあるのや、「万葉集」巻十九に、

物部の八十少女等が酌みまがふ、寺井上の堅香子の花

とあるのから推すと、愈々女軍の在った事が裏附けられるのである。

然らば、是等の女軍は、男軍と対立して、打物とって敲き合いをなし、弓矢をとって射合せ(我国のいくさの語原はこれである。)たかというに、これは必ずしもそう考うべきものではなくして、女軍の本来の目的は、他に在った物と見るべきである。即ち戦勝を神に祈り、神意を問うて軍の行動に便じ、更に敵兵を詛う呪術を行うことが任務であったのである。前に引用した「崇神紀」の吾田媛が、天ノ香山の土を取って祈(ウケ)ひしたのは、これを呪術に用いて以て皇師を調伏せんが為めであった。又これも前に引用した「播磨風土記」逸文に、神功皇后が征韓に際し、赤土を以て天の逆桙、兵船の舳艫及び兵卒の著衣まで塗ったのも、更に「仲哀記」に、神后が住吉三神の教えにより、三神の御魂を乗船に斎き『真木灰を瓠に納れ、亦、箸と平手(中山曰。神供を盛る物。)とも多(さわ)に作りて皆々大海に散浮(ちらしう)けて。』渡海したのも、神意をかりて敵兵を調伏する呪術に外ならぬのである。而して是等の呪術は、軍中に在りし巫女がその任に服したのである。記録にこそ伝わっていぬが、我国の古代には、アイヌの女子が後陣にあって、プサを吐きし如く、又は琉球のノロが陣中において敵兵を詛うた如き事実が、恐らく戦いの度毎に行われた物と考えても、決して大なる誤りではなさそうである。

後世の事ではあるが、「三代実録」巻一三貞観八年十一月十七日条に、

敕曰(中略)新羅賊兵常窺間隙、災変之発唯縁斯事、夫攘災未兆遏賊将来、唯是神明之冥助、豈云人力之所為。宜令能登因幡伯耆出雲石見隠岐長門大宰等国府、班幣於邑境諸神以祈鎮護之殊效云々。

とあるのは、巫女の敵兵調伏の咒術が関西九州の十余国に亘る大褂りになった物であって、更に弘安年中の蒙古襲来の国難には「異賊襲来祈祷注録」と題する文献まで纂輯する程の、全国的大規模に此の呪術が行われ〔八〕、遂に此事が弓矢執る武将の間の信仰となり、合戦毎に崇敬する神社の巫祝をして之を行わせる様になったのである。武田信玄が川中島の戦いに際し、信州戸隠神社の巫女をして、此の祈祷をさせた事は今に著聞せる事実である。


四 士気を鼓舞する巫女

廣義に言へば、戰爭の前途を占うて勝利に導く事も、神靈に恩賴して敵兵を呪詛する事も、共に軍隊の士氣を鼓舞旺盛ならしめる手段ではあるが、更に是等よりは一層直接に士氣を感奮させる方法が、巫女に依つて行はれたのである。即ち日本武尊が東征に際し、姑の倭姬命から神劍と火鑽とを與へられたのも、倭姬が最高の巫女であつただけに、全軍の士氣は此れが為に振興したに違ひ無く、神功皇后が祈ウケひ釣りを為し、毛髮にて神意を問うた事等も士氣を緊張させるに、偉大なる力が有つたと考へられるのである。殊に神功皇后が出征に當り、群臣に賜へる敕語は、儼として神語を聽くが如き思ひが有る。曰く、

夫興師動眾,國之大事。安危成敗,必在於斯。今有所征伐,以事付群臣。若事不成者,罪在於群臣,是甚傷焉。吾婦女之,加以不肖,然蹔假男貌,強起雄略。上蒙神祇之靈,下藉群臣之助,振兵甲而度嶮浪,整艫船以求財土。若事就者,群臣共有功;事不就者,吾獨有罪。既有此意,其共議之。云云。

千載の後にあつても、此敕語を拜して、誰か奮起せざる者か在る。當時、士氣の揚がれる察すべきである。

更に、少しく後世の出來事ではあるが、戰爭中に神靈が巫祝に憑つて士氣を勵した例證も存してゐる。『天武紀』壬申亂の條に、

先是軍金綱井之時,高市郡大領高市縣主許梅コメ,儵忽ニワカニ口閉,而不能言也。三日之後,方著神カミカカリ以言:「吾者,高市社所居,名事代主神。又身狹社所居,名生靈神者也。」乃顯之曰:「於神日本磐余彥天皇之陵,奉馬及種種兵器。」便亦言:「吾者,立皇御孫之前後,以送奉于不破而還焉。今且立官軍中,而守護之。」且言:「自西道,軍眾將至之。宜慎也。」言訖則醒矣。故是,以便遣許梅,而祭拜御陵,因以奉馬及兵器。又捧幣,而禮祭高市、身狹之神。然後壹伎史韓國,自大阪來。故時人曰:「二社神所教之辭,適是也。」又村屋神著祝曰:「今自吾社中道,軍眾將至。故宜塞社中道。」故未經幾日,廬井造鯨軍,自中道至。時人曰:「即神所教之辭是也。」

此二つの事件は明白に神教に據つて全軍の動作を敏ならしめ、且つ其士氣を振興させたに違ひ無いのである。而して更に後世の事ではあるが、弘安の蒙古襲來の國難に關する『高野山文書』の一節に、

閏七月【○弘安四年。】晦日夜,攝州廣田社巫女詣當社,【○丹生社。】而託宣曰:「於今度者住吉も毛八幡も毛屬我力,至討伐。若託巫覡示此事者,世以可成歟,故以汝令告示云云。」又非真言教力,難施降伏靈驗之由,蒙八幡之御告,於當山有一萬座不動供勸進之侶。以之思之,丹生明神之神變勝于諸神,非唯寄一社巫女之口。金剛乘教之教力,超于餘教,誰敢疑八幡正直之告。云云。

と有るのは〔九〕、高野山の僧侶に依つて書かれただけに、其の鎮守なる丹生神社の靈驗と、真言宗の功德とが誇張されてゐるが、其れでも此國難に際して、巫女の託宣が武士の勇氣を增進させた事だけは、容易に看取されるのである。


五 御陣女﨟としての巫女

御陣女﨟としての橘媛、倭尊と別れ入水す

我國では、古く總帥、亦は大將は、婦人を陣中に同伴する事が習ひと成つてゐた〔十〕。畏き事であるが、日本武尊が東征に妾橘媛を伴ひ、仲哀帝が西征に神后を從へさせられたのは、其例證であつて、臣下としては、『仁德紀』にある上毛野公竹葉瀨の弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戰死した事や、『欽明紀』に河邊臣瓊岳が隨婦と、同じく調士伊企儺イキナが其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜と成つた事を載せ、又此外にも此れが類例は相當に多く存してゐる。

其れでは斯く陣中に婦人を伴うた最初の目的は、何であつたかと云へば、其れは他事でも無く、專ら神靈の加護を仰ぐべき巫女としての勤めに從ふ為であつた。反言すれば、古く我國で戰爭に女性を隨行させたのは、其始めは巫女に限られてゐたのであるが、一般の女性──殊に妻女が神に仕へる樣に成つてからは、巫女の代理者として妻女を伴ふに至つたのである。併しながら、總帥とか、棟樑とか謂はれる身分ある者の妻女は、育兒其他の家庭上の關係から、必ずしも良人と軍旅を共にする事も出來ぬ事情も有つたのと、更に一方に於いては、神に仕へるだけの巫女の職務も、時勢の下るに連れて擴大されて來て、遂に御陣女﨟として從軍する樣に變化したのである。

山城國伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神宮皇后。)に附屬してゐた桂女(古くは桂姬と稱した。)に關する傳說は、此御陣女﨟の事實を克明に保存してゐるのである。桂女の名の由來に就いては、彼女の一團が京都桂川の邊りなる桂里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落。)に住んでゐたので、地名を負うて斯く稱したと云ふ說と、茲に反して、彼女達は好んで桂(蔓。)卷を稱する獨特の髮飾りをしたので、斯く名を得た物との兩說有るが、私としては後說に從ふのが穩當だと信じてゐる。而して彼女達の所傳に據ると、桂女の祖先は岩田姬と稱し〔十一〕、神宮皇后が懷胎の御身を以て征韓の為に渡海せられた折に從軍し、日夜共左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂里に土著したが、其證として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に傳へてゐる。斯かる緣故が有るので、神后を祭つた御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られる樣に成つてからは、御香宮と御母子の關係が有ると云ふので、石清水にも出仕する樣に成り、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と稱して桂飴を獻上する例と成つてゐた〔十二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相續を原則とし、此れを名治初年迄嚴重に守つて來たのである。

古俗を伝えた桂姫

斯く桂女が神后の征旅に從つたと云ふ事は、取りも直さず、其れが御陣女﨟であつた事を物語る物で、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねた者、其詳細は第三章に記述する。)として、後には神宮助產の事のみ言ひ立てて、產婆とも、子下ろしとも、更に婚禮の介添人とも就かぬ、一種變態な呪術を主とした職業婦人と成つてしまつたのであるが、其れでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代代の武將の許に出入し、且つ戰爭の有る每に、陣中に推參して、雜役に服した者である。豐前小倉の舊藩主小笠原家は、武家作法の家元であつただけに、藩中に桂と稱する一家を抱へて、代代女子を以て相續させたと云ふ〔十三〕。此れは御陣女﨟としての桂女の效用が忘卻されて、全く小笠原流の作法に依る必要の扶持人であつたらうが、更に大隅國囎唹郡上之段村の桂姬城の由來にあつては、必ずしも作法の為とのみ限られぬ樣である。即ち桂女が神后に從ひ、功績が有つて、名を勝浦カツラ姬と賜つた。此れより武家では、勝浦姬を愛慕し、島津家では勝浦姬一人を召され、敷根村へ宅地を給へ扶持された事が有る。桂姬城は此舊跡であらうと傳へられれゐる〔十四〕。茲に據ると、桂が勝浦と國音の相通ずる所から、勝を悅ぶ武家が愛する樣に成つたと解釋されてゐるが、如何に勝つ事を好み、扶持米に豐かであつた島津家にしろ、單に此れだけの所緣で、桂女を召抱へて置くべき理由が無いので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の變るに連れて、往昔の任務が忘られ、斯かる傳說と成つて殘つた物と見るのが穩當である。

後世の事ではあるが、木曾義仲が陣中に伴うた山吹・巴の兩女の如き、德川家康が戰塵の間に從へたお萬の方(德川義直の生母で、男山八幡宮の祠官竹腰某の女。)の如き、共に古い御陣女﨟の面影を殘した者であつて、遊女が陣營に出入し、然も敵の首の齒を染め、髮を洗ふ役目を勤めたのも、又之と同じ信仰と理由から來てゐるのである。


〔註一〕
此和歌は、『夫木集』に載せて有るが、『和歌藻汐草』には、「角笛の樣な物を吹けば、霧に似た物が出る。」と解釋し、『松屋筆記』や『笈埃隨筆』等にも、此意味の事が記して有る。
〔註二〕
金田一京助氏著の『アイヌの研究』及び、同氏より聽き得た談話を綜合して載せたのである。
〔註三〕
物部氏が靈に通ずる部曲の棟樑であつて、然も古代の戰爭が、腕力の闘ひでは無くして、呪術の戰ひである事に就いては、學友內藤吉之助氏が『宗教研究』誌上に揭載された事が有る。敢て篤學の士の參照を望む次第である。
〔註四〕
『新編會津風土記』卷六七。
〔註五〕
『源平盛衰記』に在る有名な話である。
〔註六〕
此れも『信長記』に載せて有る有名な話である。
〔註七〕
此條の『日本書紀』の書き方は、頗る曖昧であつて、一寸見ると、女軍は皇師に屬せずして、敵軍に在つた樣に考へられるのであるが、同じ『神武紀』の一節に、「椎根津彥計之曰:『今者宜先遣我女軍,云云。』天皇善其策,乃出女軍以臨之。」と有るから推すと、女軍が天皇に隸屬してゐた事が明白に知られるのである。
〔註八〕
弘安の蒙古襲來は、全く國難であつて、上は畏くも天皇を始めとして、下は國內の社寺共に、神佛を祈念した物で、塙保己一の編纂した『螢蠅抄』五卷は、殆ど全卷此種の記事である。佛教の渡來と、陰陽道の普及と、修驗道の發達とは、漸く巫女に代つて、此種の事を勤める樣に成つたのであるが、其れでも猶ほ幾分でも、古い名殘を留めてゐるのである。
〔註九〕
前記の『螢蠅抄』(史籍集覽本。)卷五に據つた。
〔註一〇〕
現存の『養老令』の「軍防令」に據ると、婦女を陣中に伴ふ事は嚴禁されてゐるが、併し實際に於いて、其れがどれだけ實行されてゐたかは疑はしい。且つ『養老令』等の規定されぬ以前にあつては、大將連は公然と婦人を伴うてゐた。
〔註一一〕
姙婦の腹帶を岩田帶と稱するのは、此れに始まると云ふ俗說が有るも、元より信用する事の出來ぬ附會である。
〔註一二〕〔註一三〕
同上。 柳田國男先生が雜誌『女性』第七卷第五號に載せた「桂女由來記」に據る。
〔註一四〕
島津家で編纂發行した『三國名勝圖繪』卷三五。