日本巫女史/第一篇/第八章/第一節」を編集中

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: 尚真王の時、八重山征伐のあったことは、百浦添欄干之銘にも見えているが、「女官御双紙」に、この時久米島の<ruby><rb>君南風</rb><rp>(</rp><rt>キミハエ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰、同地ノロの名で、内地の巫女と同じ)が従軍して功を立てたことが書いてある。
: 尚真王の時、八重山征伐のあったことは、百浦添欄干之銘にも見えているが、「女官御双紙」に、この時久米島の<ruby><rb>君南風</rb><rp>(</rp><rt>キミハエ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰、同地ノロの名で、内地の巫女と同じ)が従軍して功を立てたことが書いてある。
:: 琉球より申の方に当りて御ちさやうの島あり、島名をば八重山島といふ。本は帝王(中山曰。琉球王)に従ひけるが、心かはりしつるに因りて、弘治十三庚申の年討手を御遣し給ふ。その時首里の御神託言はせ給ひけるは、久米島の君南風わたり給はば、彼島の神もなびきなん。神なびきなば、人はおのずから降参すべしとのたまふ。君南風承りて、彼島にわたり給へば、数多の人いくさの支度をして出むかふによりて、陸へよるべきやうもなかりけり。其時筏を浮べ、其上に炬を多くつむ(中略)。彼島の<ruby><rb>君真物</rb><rp>(</rp><rt>キムマモノ</rt><rp>)</rp></ruby>(原註。島の守護神)君南風へ迎ひなびき給ふによりて、人は自ら降参す云々。
:: 琉球より申の方に当りて御ちさやうの島あり、島名をば八重山島といふ。本は帝王(中山曰。琉球王)に従ひけるが、心かはりしつるに因りて、弘治十三庚申の年討手を御遣し給ふ。その時首里の御神託言はせ給ひけるは、久米島の君南風わたり給はゞ、彼島の神もなびきなん。神なびきなば、人はおのずから降参すべしとのたまふ。君南風承りて、彼島にわたり給へば、数多の人いくさの支度をして出むかふによりて、陸へよるべきやうもなかりけり。其時筏を浮べ、其上に炬を多くつむ(中略)。彼島の<ruby><rb>君真物</rb><rp>(</rp><rt>キムマモノ</rt><rp>)</rp></ruby>(原註。島の守護神)君南風へ迎ひなびき給ふによりて、人は自ら降参す云々。
: 当時の人はこの時戦争に勝ったのは、君南風の祈祷が与って力があると信じていた。
: 当時の人はこの時戦争に勝ったのは、君南風の祈祷が与って力があると信じていた。
: 実際船艦中の大ころ<ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>タ</rt><rp>)</rp></ruby>、もりやえ子<ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>タ</rt><rp>)</rp></ruby>はこの女傑のオタカベ(原註。祝詞)に鼓舞されたのであろう云々。
: 実際船艦中の大ころ<ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>タ</rt><rp>)</rp></ruby>、もりやえ子<ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>タ</rt><rp>)</rp></ruby>はこの女傑のオタカベ(原註。祝詞)に鼓舞されたのであろう云々。
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: (上略)磐余彦尊{○神/武帝}、欲馭天下、興師東征(中略)。中州豪雄長髓彦、本推饒速日尊児宇麻志麻治命為君奉焉(中略)。遂勒兵距之、天孫軍連戦不能戡也、于時宇麻志麻治命、不従舅{○長/髓彦}謀、誅殺佷戾、帥衆帰順之、時天孫詔宇麻志麻治命曰(中略)。朕嘉其忠節、特加褒寵、授以神剣、答其大勳(中略)。復宇摩志麻治命率天ノ物部、而剪夷荒逆、亦帥軍平定海内而奏也(中略)。天皇定功行賞、詔宇麻志麻治命曰汝之勳功矣、念惟大功也、公之忠節焉、思惟至忠矣(中略)。自今已後、生々世々子々孫々八十聯綿、必胤此職、永為亀鏡矣云々(以上。国史大系本)。
: (上略)磐余彦尊{○神/武帝}、欲馭天下、興師東征(中略)。中州豪雄長髓彦、本推饒速日尊児宇麻志麻治命為君奉焉(中略)。遂勒兵距之、天孫軍連戦不能戡也、于時宇麻志麻治命、不従舅{○長/髓彦}謀、誅殺佷戾、帥衆帰順之、時天孫詔宇麻志麻治命曰(中略)。朕嘉其忠節、特加褒寵、授以神剣、答其大勳(中略)。復宇摩志麻治命率天ノ物部、而剪夷荒逆、亦帥軍平定海内而奏也(中略)。天皇定功行賞、詔宇麻志麻治命曰汝之勳功矣、念惟大功也、公之忠節焉、思惟至忠矣(中略)。自今已後、生々世々子々孫々八十聯綿、必胤此職、永為亀鏡矣云々(以上。国史大系本)。


これに由って、物部氏の発祥と、同氏が武士を統率するに至った理由は、略ぼ会得されたことと思うが、更に(二)の物部と称する語原の解釈にあっては、一代の碩学といわれた本居宣長翁すら「古事記伝」巻十九において『母能々布と云は、名義は未だ考へ得ず』と兜をぬいだほどの難問題であったが、平田篤胤翁が其の著「玉手繦」において、『物とは神なり』という、彼としては誠に珍らしい卓見を唱え、更に鈴木重胤翁によって、此の説が大成されるに至ったのである。鈴木翁は「延喜式祝詞講義」巻七龍田風神祭の「百能物知人」の条において、概略左の如き記述をなしている。
これに由って、物部氏の発祥と、同氏が武士を統率するに至った理由は、略ぼ会得されたことと思うが、更に(二)の物部と称する語原の解釈にあっては、一代の碩学といわれた本居宣長翁すら「古事記伝」巻十九において『母能々布と云は、名義は未だ考へ得ず』と兜をぬいだほどの難問題であったが、平田篤胤翁が其の著「玉手繦」において、『物とは神なり』という、彼として誠に珍らしい卓見を唱え、更に鈴木重胤翁によって、此の説が大成されるに至ったのである。鈴木翁は「延喜式祝詞講義」巻七龍田風神祭の「百能物知人」の条において、概略左の如き記述をなしている。


: 百能物知人(中略)。師説{○篤/胤翁}に「物知り人とは、太兆の卜事を行ふ人と云称なる事明かなり。凡て物と云称は万に泛く亘る中に、神祇を指て云事常に多し、そは御門祭詞に、四方四角<small>与利</small>疏<small>備</small>荒<small>備</small>来<small>武</small>天<small>能</small>麻我都<small>比登</small>云神<small>乃</small>云々。自上往<small>波</small>上<small>乎</small>護<small>利</small>自下往<small>波</small>下<small>乎</small>護<small>利</small>と有る此同事を、祈年{御門/祭}詞に疏<small>夫留</small>物<small>能</small>自下往<small>者</small>下<small>乎</small>守、自上往<small>者</small>上<small>乎</small>守と(中略)、云へるを対思ふ可し。
: 百能物知人(中略)。師説{○篤/胤翁}に「物知り人とは、太兆の卜事を行ふ人と云称なる事明かなり。凡て物と云称は万に泛く亘る中に、神祇を指て云事常に多し、そは御門祭詞に、四方四角<small>与利</small>疏<small>備</small>荒<small>備</small>来<small>武</small>天<small>能</small>麻我都<small>比登</small>云神<small>乃</small>云々。自上往<small>波</small>上<small>乎</small>護<small>利</small>自下往<small>波</small>下<small>乎</small>護<small>利</small>と有る此同事を、祈年{御門/祭}詞に疏<small>夫留</small>物<small>能</small>自下往<small>者</small>下<small>乎</small>守、自上往<small>者</small>上<small>乎</small>守と(中略)、云へるを対思ふ可し。
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: (原註)但、太兆の卜事を行ふ人を云と云はれたるは当らず、神祇の情状を古伝に徴し、古説に合せて悟り得る偉人を云ふなり。卜事は其思慮の至り及ばざるに当て物<ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ス</rt><rp>)</rp></ruby>るなれば却て未なり云々。(以上。皇学館本。但し句読点は私に加えたのである。)
: (原註)但、太兆の卜事を行ふ人を云と云はれたるは当らず、神祇の情状を古伝に徴し、古説に合せて悟り得る偉人を云ふなり。卜事は其思慮の至り及ばざるに当て物<ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ス</rt><rp>)</rp></ruby>るなれば却て未なり云々。(以上。皇学館本。但し句読点は私に加えたのである。)


我が古代における「物」とは、即ち神または霊ということであって、物ノ部とは是等の神または霊に通ずる<ruby><rb>母能々布</rb><rp>(</rp><rt>モノノフ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>部曲</rb><rp>(</rp><rt>カキベ</rt><rp>)</rp></ruby>を指し、物ノ部氏とは此の部曲の宗家、または<ruby><rb>氏</rb><rp>(</rp><rt>ウヂ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>上</rb><rp>(</rp><rt>カミ</rt><rp>)</rp></ruby>という意味になるのである〔三〕。而してこれを基調として古代の戦争を考えると、古語の戦い(たたかひ)は、敲き合いの転訛であるが、更に古語で言い争うことを「口たたく」というのがあるところから推すと、腕力を以て敲き合いする以前に、言語を以て口たたかいをするのが、戦いの式例となっていたことが想われる。これは恰も、後世の戦場において、先ず甲乙の両陣から、代表的の勇者が出て、一騎打ちの勝負をしてから、合戦が開かれたのと同じように、<ruby><rb>言霊</rb><rp>(</rp><rt>コトダマ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の殊寵を蒙り、特に利口弁舌に長じた者(即ち物知り人)が現われて、互いに「言葉たたかい」をした後に、愈々両方の敲き合いに入る順序と見られるのである。而して此の「言葉たたかい」の任務に当るものが即ち巫女であって、然もその言語は必ずや呪術的の要素を多分に有していたものに相違ない。前に引用した琉球の俚諺に「女は戦の魁」とある如く、我国にあっても、巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つことを伝えているのである。
我が古代における「物」とは、即ち神または霊ということであって、物ノ部とは是等の神または霊に通ずる<ruby><rb>母能々布</rb><rp>(</rp><rt>モノノフ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>部曲</rb><rp>(</rp><rt>カキベ</rt><rp>)</rp></ruby>を指し、物ノ部氏とは此の部曲の宗家、または<ruby><rb>氏</rb><rp>(</rp><rt>ウヂ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>上</rb><rp>(</rp><rt>カミ</rt><rp>)</rp></ruby>という意味になるのである〔三〕。而してこれを基調として古代の戦争を考えると、古語の戦い(たゝかひ)は、敲き合いの転訛であるが、更に古語で言い争うことを「口たたく」というのがあるところから推すと、腕力を以て敲き合いする以前に、言語を以て口たたかいをするのが、戦いの式例となっていたことが想われる。これは恰も、後世の戦場において、先ず甲乙の両陣から、代表的の勇者が出て、一騎打ちの勝負をしてから、合戦が開かれたのと同じように、<ruby><rb>言霊</rb><rp>(</rp><rt>コトダマ</rt><rp>)</rp></ruby>の神の殊寵を蒙り、特に利口弁舌に長じた者(即ち物知り人)が現われて、互いに「言葉たたかい」をした後に、愈々両方の敲き合いに入る順序と見られるのである。而して此の「言葉たたかい」の任務に当るものが即ち巫女であって、然もその言語は必ずや呪術的の要素を多分に有していたものに相違ない。前に引用した琉球の俚諺に「女は戦の魁」とある如く、我国にあっても、巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つことを伝えているのである。


而してそれと是れとは、大に趣きを異にしているが、思い出すままに記すことは、私の郷国である下野国河内郡地方の村落では、明治初年まで、婚姻の夜に、新婦の附添いとして、弁舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立って、新郎の家に赴く。新郎の方でも、同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎えさせるが、その時に先ず聟方の男から「大勢して一体<ruby><rb>何処</rb><rp>(</rp><rt>ドコ</rt><rp>)</rp></ruby>から<ruby><rb>遣</rb><rp>(</rp><rt>ヤ</rt><rp>)</rp></ruby>って来た」と問いかけると、嫁の附添い女は直ちに「若い者に花を遣ろうと思って来た」と答えるのを序開きとして、ここに猛烈なる言葉たたかいの場面が展開され、聟方の男はあるかぎりの奇智を絞って、無理難題の問いを発し、これに対して、嫁方の女も精根を尽して巧妙に言いぬける。若し此の「言葉たたかい」に、嫁方の女が負けるようなことがあれば、新婦の一行は実家へ引き帰さなければならぬ村掟となっているので、附添い女の責任の大と、舌力の強さとが思われる。こうした一幕が無事に済むと、今度は婚礼の式に入るのである。
而してそれと是れとは、大に趣きを異にしているが、思い出すままに記すことは、私の郷国である下野国河内郡地方の村落では、明治初年まで、婚姻の夜に、新婦の附添いとして、弁舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立って、新郎の家に赴く。新郎の方でも、同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎えさせるが、その時に先ず聟方の男から「大勢して一体<ruby><rb>何処</rb><rp>(</rp><rt>ドコ</rt><rp>)</rp></ruby>から<ruby><rb>遣</rb><rp>(</rp><rt>ヤ</rt><rp>)</rp></ruby>って来た」と問いかけると、嫁の附添い女は直ちに「若い者に花を遣ろうと思って来た」と答えるのを序開きとして、ここに猛烈なる言葉たたかいの場面が展開され、聟方の男はあるかぎりの奇智を絞って、無理難題の問いを発し、これに対して、嫁方の女も精根を尽して巧妙に言いぬける。若し此の「言葉たたかい」に、嫁方の女が負けるようなことがあれば、新婦の一行は実家へ引き帰さなければならぬ村掟となっているので、附添い女の責任の大と、舌力の強さとが思われる。こうした一幕が無事に済むと、今度は婚礼の式に入るのである。
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'''五 御陣女﨟としての巫女'''
'''五 御陣女﨟としての巫女'''


[[画像:橘媛.gif‎|thumb|御陣女﨟としての橘媛倭尊と別れ入水す]]
[[画像:橘媛.gif‎|frame|御陣女﨟としての橘媛、倭尊と別れ入水す]]
我国では、古く総帥、亦は大将は、婦人を陣中に同伴することが習いとなっていた〔一〇〕。畏きことではあるが日本武尊が東征に<ruby><rb>妾</rb><rp>(</rp><rt>オムナメ</rt><rp>)</rp></ruby>橘媛を伴い、仲哀帝が西征に神后を従えさせられたのは、その例証であって、臣下としては、『仁徳紀』にある上毛野公竹葉瀨の弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戦死したことや、「欽明紀」に河辺臣<ruby><rb>瓊岳</rb><rp>(</rp><rt>タマヘ</rt><rp>)</rp></ruby>が隨婦と、同じく調士<ruby><rb>伊企儺</rb><rp>(</rp><rt>イキナ</rt><rp>)</rp></ruby>が其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜となったことを載せ、また此の外にもこれが類例は相当に多く存している。
我国では、古く総帥、亦は大将は、婦人を陣中に同伴することが習いとなっていた〔一〇〕。畏きことではあるが日本武尊が東征に<ruby><rb>妾</rb><rp>(</rp><rt>オムナメ</rt><rp>)</rp></ruby>橘媛を伴い、仲哀帝が西征に神后を従えさせられたのは、その例証であって、臣下としては、『仁徳紀』にある上毛野公竹葉瀨の弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戦死したことや、「欽明紀」に河辺臣<ruby><rb>瓊岳</rb><rp>(</rp><rt>タマヘ</rt><rp>)</rp></ruby>が隨婦と、同じく調士<ruby><rb>伊企儺</rb><rp>(</rp><rt>イキナ</rt><rp>)</rp></ruby>が其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜となったことを載せ、また此の外にもこれが類例は相当に多く存している。


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山城国伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神功皇后)に附属していた桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女﨟の事実を克明に保存しているのである。桂女の名の由来に就いては、彼女の一団が京都桂川の辺りなる桂ノ里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落)に住んでいたので、地名を負うて斯く称したという説と、これに反して、彼女達は好んで桂(蔓)巻と称する独特の髪飾りをしたので、かく名を得たものとの両説あるが、私としては後説に従うのが穏当だと信じている。而して彼女達の所伝によると、桂女の祖先は岩田姫と称し〔一一〕、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓のために渡海せられた折に従軍し、日夜とも左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂ノ里に土着したが、その証として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に伝えている。かかる緣故があるので、神后を祭った御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られるようになってからは、御香宮と御母子の関係があるというので、石清水にも出仕するようになり、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と称して桂飴を献上する例となっていた〔一二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相続を原則とし、これを明治初年まで厳重に守って来たのである。
山城国伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神功皇后)に附属していた桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女﨟の事実を克明に保存しているのである。桂女の名の由来に就いては、彼女の一団が京都桂川の辺りなる桂ノ里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落)に住んでいたので、地名を負うて斯く称したという説と、これに反して、彼女達は好んで桂(蔓)巻と称する独特の髪飾りをしたので、かく名を得たものとの両説あるが、私としては後説に従うのが穏当だと信じている。而して彼女達の所伝によると、桂女の祖先は岩田姫と称し〔一一〕、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓のために渡海せられた折に従軍し、日夜とも左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂ノ里に土着したが、その証として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に伝えている。かかる緣故があるので、神后を祭った御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られるようになってからは、御香宮と御母子の関係があるというので、石清水にも出仕するようになり、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と称して桂飴を献上する例となっていた〔一二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相続を原則とし、これを明治初年まで厳重に守って来たのである。


[[画像:桂姫.gif‎|thumb|古俗を伝えた桂姫]]
[[画像:桂姫.gif‎|frame|古俗を伝えた桂姫 ]]
かく桂女が神后の征旅に従ったということは、とりも直さず、それが御陣女﨟であったことを物語るもので、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねたもの、その詳細は第三章に記述する)として、後には神后助産のことのみ言い立てて、産婆とも、子おろしとも、更に婚礼の介添人ともつかぬ、一種変態な呪術を主とした職業婦人となってしまったのであるが、それでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代々の武将の許に出入し、且つ戦争の有る毎に、陣中に推参して、雜役に服したものである。豊前小倉の旧藩主小笠原家は、武家作法の家元であっただけに、藩中に桂と称する一家を抱えて、代々女子を以て相続させたという〔一三〕。これは御陣女﨟としての桂女の効用が忘却されて、全く小笠原流の作法による必要の扶持人であったろうが、更に大隅国囎唹郡上之段村の桂姫城の由来にあっては、必ずしも作法のためとのみ限られぬようである。即ち桂女が神后に従い、功績があって、名を<ruby><rb>勝浦</rb><rp>(</rp><rt>カツラ</rt><rp>)</rp></ruby>姫と賜った。これより武家では、勝浦姫を愛慕し、島津家では勝浦姫の妹一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持されたことがある。桂姫城は此の旧跡であろうと伝えられている〔一四〕。これによると、桂が勝浦と国音の相通ずる所から、勝を悦ぶ武家が愛するようになったと解釈されているが、如何に勝つことを好み、扶持米に豊かであった島津家にしろ、単にこれだけの所緣で、桂女を召し抱えて置くべき理由がないので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の変るにつれて、往昔の任務が忘られ、かかる伝説となって残ったものと見るのが穏当である。
かく桂女が神后の征旅に従ったということは、とりも直さず、それが御陣女﨟であったことを物語るもので、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねたもの、その詳細は第三章に記述する)として、後には神后助産のことのみ言い立てて、産婆とも、子おろしとも、更に婚礼の介添人ともつかぬ、一種変態な呪術を主とした職業婦人となってしまったのであるが、それでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代々の武将の許に出入し、且つ戦争の有る毎に、陣中に推参して、雜役に服したものである。豊前小倉の旧藩主小笠原家は、武家作法の家元であっただけに、藩中に桂と称する一家を抱えて、代々女子を以て相続させたという〔一三〕。これは御陣女﨟としての桂女の効用が忘却されて、全く小笠原流の作法による必要の扶持人であったろうが、更に大隅国囎唹郡上之段村の桂姫城の由来にあっては、必ずしも作法のためとのみ限られぬようである。即ち桂女が神后に従い、功績があって、名を<ruby><rb>勝浦</rb><rp>(</rp><rt>カツラ</rt><rp>)</rp></ruby>姫と賜った。これより武家では、勝浦姫を愛慕し、島津家では勝浦姫の妹一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持されたことがある。桂姫城は此の旧跡であろうと伝えられている〔一四〕。これによると、桂が勝浦と国音の相通ずる所から、勝を悦ぶ武家が愛するようになったと解釈されているが、如何に勝つことを好み、扶持米に豊かであった島津家にしろ、単にこれだけの所緣で、桂女を召し抱えて置くべき理由がないので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の変るにつれて、往昔の任務が忘られ、かかる伝説となって残ったものと見るのが穏当である。


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; 〔註五〕 : 「源平盛衰記」にある有名な話である。   
; 〔註五〕 : 「源平盛衰記」にある有名な話である。   
; 〔註六〕 : これも「信長記」に載せてある有名な話である。   
; 〔註六〕 : これも「信長記」に載せてある有名な話である。   
; 〔註七〕 : 此の条の「日本書紀」の書き方は、頗る曖昧であつて、一寸見ると、女軍は皇師に属せずして、敵軍に在ったように考えられるのであるが、同じ「神武紀」の一節に「椎根津彦計之曰、今者宜先遣我女軍云々。天皇善其策、乃出女軍以臨之」とあるのから推すと、女軍が天皇に隸属していたことが明白に知られるのである。
; 〔註七〕 : 此の条の「日本書紀」の書き方は、頗る曖昧であつて、一寸見ると、女軍は皇師に属せずして、敵軍に在ったように考えられるのであるが、同じ「神武紀」の一節に「椎根津彦計之曰、今者宜先遣我女軍云云。天皇善其策、乃出女軍以臨之」とあるのから推すと、女軍が天皇に隸属していたことが明白に知られるのである。
; 〔註八〕 : 弘安の蒙古襲来は、全く国難であって、上は畏くも天皇を始めとし、下は国内の社寺共に、神仏を祈念したもので、塙保己一の編纂した「蛍蝿抄」五巻は、殆んど全巻この種の記事である。仏教の渡来と、陰陽道の普及と、修験道の発達とは、漸く巫女に代つて、此の種のことを勤めるようになったのであるが、それでも猶お幾分でも、古い名残りをとどめているのである。   
; 〔註八〕 : 弘安の蒙古襲来は、全く国難であって、上は畏くも天皇を始めとし、下は国内の社寺共に、神仏を祈念したもので、塙保己一の編纂した「蛍蝿抄」五巻は、殆んど全巻この種の記事である。仏教の渡来と、陰陽道の普及と、修験道の発達とは、漸く巫女に代つて、此の種のことを勤めるようになったのであるが、それでも猶お幾分でも、古い名残りをとどめているのである。   
; 〔註九〕 : 前記の「蛍蝿抄」巻五(史籍集覽本)に拠った。
; 〔註九〕 : 前記の「蛍蝿抄」巻五(史籍集覽本)に拠った。
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