日本巫女史/第一篇/第八章/第二節」を編集中

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我国に狩猟時代が有ったか、無かったかに就いては、文献の上からは、明確に知ることが出来ない。否、文献にのみ拠れば、我国は開闢の当時から、既に農耕時代に入っているように記されていて、狩猟時代の有ったことなどは、遂に発見することが出来ぬのである。併しながら、文献に見えぬからとて、我国に狩猟時代が無かったというのは速断である。各地から発掘された銅鐸の紋様中には、曾て此の時代の存したことを想わせるものが尠からず残されている〔一〕。更に我が国民の常食となっている五穀の中にも、粟と稗だけは原産していたが、他の米や麦や豆は、悉く外来のものであって、殊に豆類は、一段と新しく輸入されたようである〔二〕。勿論、米や麦がなくとも、粟と稗があれば、生命を維ぐに差支はなかったであろうが、各地に貝塚が存し、その中から獣骨の出る所から考えると、我国の古代民族は狩猟によって獲たる獣肉——又は漁撈によって獲たる魚肉を、主食とした一時代を経過したものと想われるのである〔三〕。若しそうでないとしても、副食物を得るために、狩猟や漁撈を営んだことは明白であるから、私がここに言おうとする狩猟と巫女との関係は肯定されるのである。
我国に狩猟時代が有ったか、無かったかに就いては、文献の上からは、明確に知ることが出来ない。否、文献にのみ拠れば、我国は開闢の当時から、既に農耕時代に入っているように記されていて、狩猟時代の有ったことなどは、遂に発見することが出来ぬのである。併しながら、文献に見えぬからとて、我国に狩猟時代が無かったというのは速断である。各地から発掘された銅鐸の紋様中には、曾て此の時代の存したことを想わせるものが尠からず残されている〔一〕。更に我が国民の常食となっている五穀の中にも、粟と稗だけは原産していたが、他の米や麦や豆は、悉く外来のものであって、殊に豆類は、一段と新しく輸入されたようである〔二〕。勿論、米や麦がなくとも、粟と稗があれば、生命を維ぐに差支はなかったであろうが、各地に貝塚が存し、その中から獣骨の出る所から考えると、我国の古代民族は狩猟によって獲たる獣肉——又は漁撈によって獲たる魚肉を、主食とした一時代を経過したものと想われるのである〔三〕。若しそうでないとしても、副食物を得るために、狩猟や漁撈を営んだことは明白であるから、私がここに言おうとする狩猟と巫女との関係は肯定されるのである。


我国に狩猟時代があったにせよ、山に棲む獣や野を飛ぶ禽を捕る役は、言うまでもなく男子の所業であって、これに婦女が加ったとは考えられぬ。従って巫女が狩猟に関係を有する点は、狩猟を好結果に導くよう神を祭り、併せて神意を問うて、日時と方角を択み定めることであった。詳言すれば、四季の鳥狩り、獣猟に、それ等の動物の棲む山や野を<ruby><rb>領知</rb><rp>(</rp><rt>ウシハ</rt><rp>)</rp></ruby>ける神々を祭り、八十ヶ月のうちより、今日の生日を足日と定め、更に朝狩りか夕狩りか、好ましき時を神判によって択むのが、その務めであった。神祇官流の解釈によれば、山ノ神といえば、大山祇命と治定しているけれども〔四〕、民間信仰を基調とすれば、今に山ノ神は女性である〔五〕。
我国に狩猟時代があったにせよ、山に棲む獣や野を飛ぶ禽を捕る役は、言うまでもなく男子の所業であって、これに婦女が加わったとは考えられぬ。従って巫女が狩猟に関係を有する点は、狩猟を好結果に導くよう神を祭り、併せて神意を問うて、日時と方角を択み定めることであった。詳言すれば、四季の鳥狩り、獣猟に、それ等の動物の棲む山や野を<ruby><rb>領知</rb><rp>(</rp><rt>ウシハ</rt><rp>)</rp></ruby>ける神々を祭り、八十ヶ月のうちより、今日の生日を足日と定め、更に朝狩りか夕狩りか、好ましき時を神判によって択むのが、その務めであった。神祇官流の解釈によれば、山ノ神といえば、大山祇命と治定しているけれども〔四〕、民間信仰を基調とすれば、今に山ノ神は女性である〔五〕。


かく山ノ神が女性であると考えられるに至った根本の理由は、山で猟をするには、巫女の助力を受けることが安全であった信仰に起原を発しているのである。「天野告門」に紀州高野山の地主神である丹生津比売命が、白犬一伴、黒犬一伴を連れていたとあるのは〔六〕、此の女神が古く狩猟に関する巫女であったことを、意味しているのではあるまいか〔七〕。而して私に此の事を想わせるものは、左の「伊豆国風土記」逸文の記事である。
かく山ノ神が女性であると考えられるに至った根本の理由は、山で猟をするには、巫女の助力を受けることが安全であった信仰に起原を発しているのである。「天野告門」に紀州高野山の地主神である丹生津比売命が、白犬一伴、黒犬一伴を連れていたとあるのは〔六〕、此の女神が古く狩猟に関する巫女であったことを、意味しているのではあるまいか〔七〕。而して私に此の事を想わせるものは、左の「伊豆国風土記」逸文の記事である。
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此の第一の短歌の鹿待つ君が斎ひ妻に就いては、異説があって、今に定説を見ぬのであるが、併し単に愛するだけの妻の意ならば、斎うとは言うまいと想われるので、これには何か鹿を取る猟人の間に妻を斎う——恰も琉球の<ruby><rb>山原</rb><rp>(</rp><rt>ヤンバル</rt><rp>)</rp></ruby>地方で女を男が拝むというような、呪術的の信仰が存していたのではないかと考えられる。そしてそれが古い時代の狩猟に巫女が参与した伝統を残したものと想われぬでもない。更に想像すれば、<ruby><rb>太占</rb><rp>(</rp><rt>フトマニ</rt><rp>)</rp></ruby>に鹿の肩骨を用いたり、山鳥の尾ろの初穂に鏡をかけたり、片巫が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて神意を問うたりしたことは、古く遠く巫女が狩猟に交渉を有していた時代に発明した呪法であるとも言えるようである。猶お漁撈と巫女との関係は、やや明瞭であって、左迄に考究すべき必要が無いし、それに巫女と製紙の関係を説くと、余りに本節が長くなるので省略した。
此の第一の短歌の鹿待つ君が斎ひ妻に就いては、異説があって、今に定説を見ぬのであるが、併し単に愛するだけの妻の意ならば、斎うとは言うまいと想われるので、これには何か鹿を取る猟人の間に妻を斎う——恰も琉球の<ruby><rb>山原</rb><rp>(</rp><rt>ヤンバル</rt><rp>)</rp></ruby>地方で女を男が拝むというような、呪術的の信仰が存していたのではないかと考えられる。そしてそれが古い時代の狩猟に巫女が参与した伝統を残したものと想われぬでもない。更に想像すれば、<ruby><rb>太占</rb><rp>(</rp><rt>フトマニ</rt><rp>)</rp></ruby>に鹿の肩骨を用いたり、山鳥の尾ろの初穂に鏡をかけたり、片巫が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて神意を問うたりしたことは、古く遠く巫女が狩猟に交渉を有していた時代に発明した呪法であるとも言えるようである。猶お漁撈と巫女との関係は、やや明瞭であって、左迄に考究すべき必要が無いし、それに巫女と製紙の関係を説くと、余りに本節が長くなるので省略した。


狩猟の良好を神に祈るために巫女が舞い、更に豊富の結果を得たので、神に報賽するために、巫女が踊ったものの中から、後世まで伝った動物に扮する舞踊の幾つかを指摘することが出来るようである。而して動物に扮する舞踊の<ruby><rb>動機</rb><rp>(</rp><rt>モチーフ</rt><rp>)</rp></ruby>が、動物の習性や所作を模倣したことに由るのは勿論である。琉球の国頭郡大宜味村で、毎年旧七月二十日後の亥の日に行うウンガミ祭に、神アシアゲの左端に各瓜で拵えた猪を据え、右端に槍や弓を立てて置き、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>や神人が前後四回までオモロ(神歌)を謡いつつ神踊りをなし、猪を取る真似をして儀式を終るのは〔一〇〕、巫女が神へ対して斯くの如く好猟のあるようにと祈る形式だとも考えられるし、更に「山城風土記」逸文の賀茂社の一節に『仍撰四月吉日祀、馬係鈴人蒙猪頭而駈馳、以為祭祀』とあるのは、古く賀茂神が狩猟神としての一面を有していたことを想わせると同時に、動物に扮する舞踊の在ったことを偲ばせる手掛りになる。
狩猟の良好を神に祈るために巫女が舞い、更に豊富の結果を得たので、神に報賽するために、巫女が踊ったものの中から、後世まで伝わった動物に扮する舞踊の幾つかを指摘することが出来るようである。而して動物に扮する舞踊の<ruby><rb>動機</rb><rp>(</rp><rt>モチーフ</rt><rp>)</rp></ruby>が、動物の習性や所作を模倣したことに由るのは勿論である。琉球の国頭郡大宜味村で、毎年旧七月二十日後の亥の日に行うウンガミ祭に、神アシアゲの左端に各瓜で拵えた猪を据え、右端に槍や弓を立てて置き、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>や神人が前後四回までオモロ(神歌)を謡いつつ神踊りをなし、猪を取る真似をして儀式を終るのは〔一〇〕、巫女が神へ対して斯くの如く好猟のあるようにと祈る形式だとも考えられるし、更に「山城風土記」逸文の賀茂社の一節に『仍撰四月吉日祀、馬係鈴人蒙猪頭而駈馳、以為祭祀』とあるのは、古く賀茂神が狩猟神としての一面を有していたことを想わせると同時に、動物に扮する舞踊の在ったことを偲ばせる手掛りになる。


私は動物に扮する舞踊のうちで、巫女に源流を発したものと信ずべき幾多の民俗学的資料を蒐めて置いたが、それを一々披露することは、徒らに長文になるので、今は省略する。鶏舞、烏舞、鷺舞などの、女性に相応したものは言うまでもなく、鹿踊とか駒舞とかいう、男性的のものすら、巫女が権輿者であることを考えさせるものがある。後世になると、これ等総ての舞踊は、勇壮とか、活発とかいう方面のみ重く視られた反対に、巫女の月水の血忌みが極端にまで嫌われるようになった結果は、当然、巫女が狩猟と関係を断ったので、舞踊まで男子の手に渡ってしまったのである。
私は動物に扮する舞踊のうちで、巫女に源流を発したものと信ずべき幾多の民俗学的資料を蒐めて置いたが、それを一々披露することは、徒らに長文になるので、今は省略する。鶏舞、烏舞、鷺舞などの、女性に相応したものは言うまでもなく、鹿踊とか駒舞とかいう、男性的のものすら、巫女が権輿者であることを考えさせるものがある。後世になると、これ等総ての舞踊は、勇壮とか、活発とかいう方面のみ重く視られた反対に、巫女の月水の血忌みが極端にまで嫌われるようになった結果は、当然、巫女が狩猟と関係を断ったので、舞踊まで男子の手に渡ってしまったのである。
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