日本巫女史/第一篇/第四章/第一節」を編集中

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とあるのは、米を呪術に用いた初見の記事であって、古代人の米に対する信仰が窺われるのである。
とあるのは、米を呪術に用いた初見の記事であって、古代人の米に対する信仰が窺われるのである。


「持統紀」二年冬十一月の条、天武帝の殯宮に『奉<ruby><rb>奠</rb><rp>(</rp><rt>クマ</rt><rp>)</rp></ruby>、奏楯節舞』と記した<ruby><rb>奠</rb><rp>(</rp><rt>クマ</rt><rp>)</rp></ruby>は、古く米を「くましね」と云ったのから推すと、米を霊前に奉ることは、これに呪力を信じたからである。尚「和名類聚抄」祭祀具部に『離騒経注云{米偏咠}、{和名,久/万之禰}精米所以享神也』とあるのも同じ意である。「大殿祭」の祝詞の細註に『今世産屋,以辟木束稲,置於戸辺乃以来米、散屋中之類也』と載せたも又それである。「古語拾遺」肱巫の細註に『今世竃輪及米占也』も米を用いた呪術に外ならぬ。而して此の信仰は後世の散米(打まき、花しね、みくま、手向米などとも云う)となり、種々なる伝説や俗信を生むようになったのである〔三〕。猶お後世になると、大豆や小豆を呪力あるものとして用いているが〔四〕、古代においては寡見に入らぬので何とも言うことが出来ぬ。
「持統紀」二年冬十一月の条、天武帝の殯宮に『奉<ruby><rb>奠</rb><rp>(</rp><rt>クマ</rt><rp>)</rp></ruby>、奏楯節舞』と記した<ruby><rb>奠</rb><rp>(</rp><rt>クマ</rt><rp>)</rp></ruby>は、古く米を「くましね」と云ったのから推すと、米を霊前に奉ることは、これに呪力を信じたからである。尚「和名類聚抄」祭祀具部に『離騒経注云{米偏咠}、{和名,久/万之禰}精米所以享神也』とあるのも同じ意である。「大殿祭」の祝詞の細註に『今世産屋,以辟木束稲,置於戸辺乃以来米、散屋中之類也』と載せたも又それである。「古語拾遺」肱巫の細註に『今世竈輪及米占也』も米を用いた呪術に外ならぬ。而して此の信仰は後世の散米(打まき、花しね、みくま、手向米などとも云う)となり、種々なる伝説や俗信を生むようになったのである〔三〕。猶ほ後世になると、大豆や小豆を呪力あるものとして用いているが〔四〕、古代においては寡見に入らぬので何とも言うことが出来ぬ。


'''二 水'''
'''二 水'''
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'''三 塩'''
'''三 塩'''


我国では塩の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出発していることは言うまでもないが、これが呪術の材料として用いられたのは、「応神記」に、伊豆志乙女を争いし兄弟の母が、その兄の不信を憤りて『伊豆志河の河嶋の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合へて、その竹の葉に裹み,<ruby><rb>詛言</rb><rp>(</rp><rt>トゴヒ</rt><rp>)</rp></ruby>はしめけらく(中略)。此の塩の盈ち乾るがごと盈ち乾よ』とあるのが(此の全文は既載した)古いようである。「丹後風土記」逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に『思老夫婦之意、我心無異荒塩者』と言うたのは、塩の呪術に<ruby><rb>詛</rb><rp>(</rp><rt>トゴヒ</rt><rp>)</rp></ruby>されて患うるに同じとの意味であろう。禍津神を駆除すべき祓戸四柱のうちなる速開津姫が、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会に<ruby><rb>座</rb><rp>(</rp><rt>ヰワ</rt><rp>)</rp></ruby>したことは、よく塩の呪力を語るものである。而して「貞観儀式」平野祭の条に『皇太子於神院東門外下馬、神祇官中臣、迎供神麻、灌塩水訖(中略)。至神院東門、曳神麻灌塩水』云々とあるのや、「古語拾遺」に御歳神の怒りを和めんとて、「以<ruby><rb>彗子</rb><rp>(</rp><rt>ツス</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>蜀椒</rb><rp>(</rp><rt>ハジカミ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>呉桃</rb><rp>(</rp><rt>クルミ</rt><rp>)</rp></ruby>葉及塩班置其畔」とあるのも、共に塩の呪術的方面を記したものである。
我国では塩の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出発していることは言うまでもないが、これが呪術の材料として用いられたのは、「應神記」に、伊豆志乙女を争いし兄弟の母が、その兄の不信を憤りて『伊豆志河の河嶋の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合へて、その竹の葉に裹み,<ruby><rb>詛言</rb><rp>(</rp><rt>トゴヒ</rt><rp>)</rp></ruby>はしめけらく(中略)。此の塩の盈ち乾るがごと盈ち乾よ』とあるのが(此の全文は既載した)古いようである。「丹後風土記」逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に『思老夫婦之意、我心無異荒塩者』と言うたのは、塩の呪術に<ruby><rb>詛</rb><rp>(</rp><rt>トゴヒ</rt><rp>)</rp></ruby>されて患うるに同じとの意味であろう。禍津神を駆除すべき祓戸四柱のうちなる速開津姫が、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会に<ruby><rb>座</rb><rp>(</rp><rt>ヰワ</rt><rp>)</rp></ruby>したことは、よく塩の呪力を語るものである。而して「貞観儀式」平野祭の条に『皇太子於神院東門外下馬、神祇官中臣、迎供神麻、灌塩水訖(中略)。至神院東門、曳神麻灌塩水』云々とあるのや、「古語拾遺」に御歳神の怒りを和めんとて、「以<ruby><rb>彗子</rb><rp>(</rp><rt>ツス</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>蜀椒</rb><rp>(</rp><rt>ハジカミ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>呉桃</rb><rp>(</rp><rt>クルミ</rt><rp>)</rp></ruby>葉及塩班置其畔」とあるのも、共に塩の呪術的方面を記したものである。


'''四 川菜'''
'''四 川菜'''
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「鎮火祭」の祝詞に、火ノ神が荒び疏びた折には『水神、<ruby><rb>匏</rb><rp>(</rp><rt>ヒサゴ</rt><rp>)</rp></ruby>、埴山姫(中山曰。土の精霊)、川菜」の四種を以て鎮めよと載せてある。川菜が呪術の材料として用いられたことは、私の寡聞なる此の外には知るところもないが、古くこれが巫女に用いられた事は、此の一事からも推測されるのである。
「鎮火祭」の祝詞に、火ノ神が荒び疏びた折には『水神、<ruby><rb>匏</rb><rp>(</rp><rt>ヒサゴ</rt><rp>)</rp></ruby>、埴山姫(中山曰。土の精霊)、川菜」の四種を以て鎮めよと載せてある。川菜が呪術の材料として用いられたことは、私の寡聞なる此の外には知るところもないが、古くこれが巫女に用いられた事は、此の一事からも推測されるのである。


猶お、此の外に、酒や、飴や、蒜や、蓬などを呪術の材料として用いた例証もあるが、是等は私が改めて説くまでも無いと考えたので省略した。
猶ほ、此の外に、酒や、飴や、蒜や、蓬などを呪術の材料として用いた例証もあるが、是等は私が改めて説くまでも無いと考えたので省略した。


; 〔註一〕 : 稲の原産地は南支那というが、此の稲が我国に輸入された稲筋に就いては、南方説と北方説との両説が有る。私は我国の稲は朝鮮を経て舶載されたものと考えるもので、その事は「土俗 伝説」第一巻三号に「穂落神」と題して管見を発表したことがある。
; 〔註一〕 : 稲の原産地は南支那というが、此の稲が我国に輸入された稲筋に就いては、南方説と北方説との両説が有る。私は我国の稲は朝鮮を経て舶載されたものと考えるもので、その事は「土俗 伝説」第一巻三号に「穂落神」と題して管見を発表したことがある。
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