日本巫女史/第三篇/第二章/第三節」を編集中

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ただ、更に一歩をすすめて、何故に禰津村に市子が土着し、然も斯うした大規模の巫女村を構成するに至ったか、それが判然せぬので、多少苦しんでいたところ、学友樋畑雪湖氏が此の事を聴かれ、同氏の親友である、上田市の先輩で、且つ江戸軟文学の研究家として令名ある飯嶋花月氏に、此の間の事情を文通せられたので、飯嶋氏から返信を得たとて私に示された。私はこれに由って、禰津村の由緒と、此処に市子の土着した事情が判然し、更に同氏の高示により、「本道楽」にて、禰津村の巫女の鼻祖となった千代女のことも釈然して、日本一の巫女村の消長をやや明確にするを得たのである。
ただ、更に一歩をすすめて、何故に禰津村に市子が土着し、然も斯うした大規模の巫女村を構成するに至ったか、それが判然せぬので、多少苦しんでいたところ、学友樋畑雪湖氏が此の事を聴かれ、同氏の親友である、上田市の先輩で、且つ江戸軟文学の研究家として令名ある飯嶋花月氏に、此の間の事情を文通せられたので、飯嶋氏から返信を得たとて私に示された。私はこれに由って、禰津村の由緒と、此処に市子の土着した事情が判然し、更に同氏の高示により、「本道楽」にて、禰津村の巫女の鼻祖となった千代女のことも釈然して、日本一の巫女村の消長をやや明確にするを得たのである。


然るに、更に今度は「長野新聞」で明治四十一年一月廿日から同廿五日まで、此の村の巫女([[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|前]]に載せた記事に引続いているが、標題は異っている)を書いた記事の謄写を、同社記者伊勢豊氏から恵贈を受けたので、ここに充分なる資料を得て、此の稿を起すことが出来たのである。執筆に際し、此の事を明記して、私のために配慮された各位に感謝の意を表する次第である。猶お此の記事は文体を統一する必要と、資料を按排する関係から、私が随意に書き改めたものであるが、その出典は記事の終りに註として附記した。
然るに、更に今度は「長野新聞」で明治四十一年一月廿日から同廿五日まで、此の村の巫女(前に載せた記事に引続いているが、標題は異っている)を書いた記事の謄写を、同社記者伊勢豊氏から恵贈を受けたので、ここに充分なる資料を得て、此の稿を起すことが出来たのである。執筆に際し、此の事を明記して、私のために配慮された各位に感謝の意を表する次第である。猶お此の記事は文体を統一する必要と、資料を按排する関係から、私が随意に書き改めたものであるが、その出典は記事の終りに註として附記した。


'''一、名族滋野氏の末路と巫女頭'''
'''一、名族滋野氏の末路と巫女頭'''


滋野氏は信濃源氏の名族であって、鎌倉期の初葉において、已に二十三家に分れ、信濃国の佐久・小県二郡の大半を領地としていた。木曾義仲が信濃で旗挙げした時は、此の一門が中堅であって、南北朝期には、望月・海野・禰津の三家を始めとして、多くは南朝に属し、諏訪の神家一族と共に、隣国上野の新田氏と呼応し、長く東国の官軍の間に重きをなしていた。而して室町期の末葉に、武田信玄が甲斐に起り、越後の上杉謙信と矛を交うるや、永禄四年に信玄の甥なる望月盛時(入道して印月齊と称す)が、川中嶋の戦に討死したので、信玄はその後室千代女に対し、甲信二国の巫女頭たるべき朱印状(この本文は[[日本巫女史/第三篇/第一章/第一節|既載]]した)を与え、千代女は旧縁を頼って禰津村に土着し、ここに禰津村が我国随一の巫女村となるべき基礎が置かれたのである。
滋野氏は信濃源氏の名族であって、鎌倉期の初葉において、已に二十三家に分れ、信濃国の佐久・小県二郡の大半を領地としていた。木曾義仲が信濃で旗挙げした時は、此の一門が中堅であって、南北朝期には、望月・海野・禰津の三家を始めとして、多くは南朝に属し、諏訪の神家一族と共に、隣国上野の新田氏と呼応し、長く東国の官軍の間に重きをなしていた。而して室町期の末葉に、武田信玄が甲斐に起り、越後の上杉謙信と矛を交うるや、永禄四年に信玄の甥なる望月盛時(入道して印月齊と称す)が、川中嶋の戦に討死したので、信玄はその後室千代女に対し、甲信二国の巫女頭たるべき朱印状(この本文は既載した)を与え、千代女は旧縁を頼って禰津村に土着し、ここに禰津村が我国随一の巫女村となるべき基礎が置かれたのである。


勿論、千代女が、当時の社会感情から見て、余り尊敬を払われなかった巫女頭になったに就いては、又併せ考えなければならぬ事情が存していたのである。それは外でもなく、同じ滋野氏の一族であった滋田氏が、望月町の月輪山郷東寺と称する当山派の修験者であって、佐久郡の触頭を勤めていた関係から、叔父に当る信玄に請うて巫女頭となり、その収入によって、安気に世に処し、兼ねては亡夫の後世を弔う意味の含まれたものと解すべきである〔一〕。
勿論、千代女が、当時の社会感情から見て、余り尊敬を払われなかった巫女頭になったに就いては、又併せ考えなければならぬ事情が存していたのである。それは外でもなく、同じ滋野氏の一族であった滋田氏が、望月町の月輪山郷東寺と称する当山派の修験者であって、佐久郡の触頭を勤めていた関係から、叔父に当る信玄に請うて巫女頭となり、その収入によって、安気に世に処し、兼ねては亡夫の後世を弔う意味の含まれたものと解すべきである〔一〕。
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ノノウが出発する時の荷物は、大懸りのものであって、夏冬の衣類から一寸した手廻りの道具まで持って往ったものである。土地の伝説によると、ノノウは鑓一筋(千石取りの旗本)の格式を与えられていて、荷物は宿場々々の問屋場に公然と運搬方を依頼する事が出来て、関所も手形なしで(中山曰。巫女にも手形を要したことは[[日本巫女史/第三篇/第一章/第二節|既述]]した)通れると言われていたほどで、往く先々には、毎年の定宿があった。抱主が是等と同行し、指揮し、監督することは、前に記した如くである。而して彼等は毎日のように定宿を出でては、附近の村々に入り込み、依頼を受けて呪術をなし、雨の降る日や、夜などは、定宿を訪ねる依頼者を迎えて、呪術をしたのである。かくて半歳余を渡り鳥のように送り暮して、十一月の末か十二月の初めまでは、各戸とも殆んど言い合せたように故郷の禰津村へ帰って来る。途中で事故があっても、必ず大晦日までには帰村するように習慣づけられていた。
ノノウが出発する時の荷物は、大懸りのものであって、夏冬の衣類から一寸した手廻りの道具まで持って往ったものである。土地の伝説によると、ノノウは鑓一筋(千石取りの旗本)の格式を与えられていて、荷物は宿場々々の問屋場に公然と運搬方を依頼する事が出来て、関所も手形なしで(中山曰。巫女にも手形を要したことは[[日本巫女史/第三篇/第一章/第二節|既述]]した)通れると言われていたほどで、往く先々には、毎年の定宿があった。抱主が是等と同行し、指揮し、監督することは、前に記した如くである。而して彼等は毎日のように定宿を出でては、附近の村々に入り込み、依頼を受けて呪術をなし、雨の降る日や、夜などは、定宿を訪ねる依頼者を迎えて、呪術をしたのである。かくて半歳余を渡り鳥のように送り暮して、十一月の末か十二月の初めまでは、各戸とも殆んど言い合せたように故郷の禰津村へ帰って来る。途中で事故があっても、必ず大晦日までには帰村するように習慣づけられていた。


昔はノノウ連中が帰ると、急に村が裕福になり、金廻りが良くなったものだと、今に語られている。彼等は半年余を到る処で稼ぎ溜め、それぞれ大金を持って帰村し、或る者は村の資産家に預金する者さえあった。帰村の折には、村中の懇意の家々には土産物を贈り、又家に招いて留守中世話になった礼心に馳走するなど、毎年ノノウが帰った当座は、八ヶ嶽の山々は雪を被って寝ているのに、村は春のように陽気になったそうである。そしてノノウ達は、帰村してからは、毎日家にいて神々を祭り、偶には近村へ出かけ、又は来宅する者に呪術を施したが、此の収入も決して尠くはなかったと云われている。
昔はノノウ連中が帰ると、急に村が裕福になり、金廻りが良くなったものだと、今に語られている。彼等は半年余を到る処で稼ぎ溜め、それぞれ大金を持って帰村し、或る者は村の資産家に預金する者さえあった。帰村の折には、村中の懇意の家々には土産物を贈り、又家に招いて留守中世話になった礼心に馳走するなど、毎年ノノウが帰った当座は、八ヶ嶽の山々は雪を被って寝ているのに、村は春のように陽気になったそうである。そしてノノウ達は、帰村してからは、毎日家にいて神々を祭り、偶には近村へ出かけ、又は来宅する者に呪術を施したが、此の収入も決して少くはなかったと云われている。


ノノウの収入は、決して少いものではなかった。旅に出て、一回どの位の礼金を取ったものか、それは正確に知ることは出来ぬけれど、彼女たちの一年間の生活を、優に支えて往けるだけの費用を得たことだけは事実である。従って、彼女達は、村人の生活としては、驚くほど贅沢であって、食う物も、着る物も、山家には見られぬほどのもので、冬中は毎日遊び暮していた。これは旅に出る身とて、<ruby><rb>旅籠飯</rb><rp>(</rp><rt>はたごめし</rt><rp>)</rp></ruby>に馴れて口が驕り、衣服も華美を好むようになったためであろう。
ノノウの収入は、決して少いものではなかった。旅に出て、一回どの位の礼金を取ったものか、それは正確に知ることは出来ぬけれど、彼女たちの一年間の生活を、優に支えて往けるだけの費用を得たことだけは事実である。従って、彼女達は、村人の生活としては、驚くほど贅沢であって、食う物も、着る物も、山家には見られぬほどのもので、冬中は毎日遊び暮していた。これは旅に出る身とて、<ruby><rb>旅籠飯</rb><rp>(</rp><rt>はたごめし</rt><rp>)</rp></ruby>に馴れて口が驕り、衣服も華美を好むようになったためであろう。


併し、服装は華美でこそあれ、普通の女性と異ることなく、結髪も特種の習俗はなかった。巡業中は旅姿であるから、例の外法箱を紺の風呂敷で背負い(風呂敷は舟形に縫うを定めとす)、白い脚袢を穿き、下襦袢だけ下げて(中山曰。紀州田辺町地方では信濃巫女は、白湯文字を出して歩くので、俚称を白湯文字と云ったことは[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|既述]]した)、上衣は裾高く括りあげて歩いた。呪術する時には、その裾を下すのを作法としたが、そのままで遣ることも、珍らしくはなかった。
併し、服装は華美でこそあれ、普通の女性と異ることなく、結髪も特種の習俗はなかった。巡業中は旅姿であるから、例の外法箱を紺の風呂敷で背負い(風呂敷は舟形に縫うを定めとす)、白い脚袢を穿き、下襦袢だけ下げて(中山曰。紀州田辺町地方では信濃巫女は、白湯文字を出して歩くので、俚称を白湯文字と云ったことは既述した)、上衣は裾高く括りあげて歩いた。呪術する時には、その裾を下すのを作法としたが、そのままで遣ることも、珍らしくはなかった。


ノノウは修業年限を終ると、毎月幾らと抱主に支払うべき金額(食料とか借金の返済分とかを含めて)が定まっていて、それ以外はノノウ個人の収入であった。又ノノウが独立して、抱主の家を離れようとするときには、一定の礼金を納めたようであるが、正確のことは判然しない。明治になってから呪術料は依頼者の心まかせで、一回五六銭から五十銭まで、外に白米五合から一升まであった〔四〕。
ノノウは修業年限を終ると、毎月幾らと抱主に支払うべき金額(食料とか借金の返済分とかを含めて)が定まっていて、それ以外はノノウ個人の収入であった。又ノノウが独立して、抱主の家を離れようとするときには、一定の礼金を納めたようであるが、正確のことは判然しない。明治になってから呪術料は依頼者の心まかせで、一回五六銭から五十銭まで、外に白米五合から一升まであった〔四〕。
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